雑考閑記

雑考閑記

雑な考えを閑な時に記す

ゆうちょダイレクト

 なるものに入ったケチな人間のお話。

 パソコンやスマホからゆうちょ銀行のサービスの大半を利用できるサービスだ。

 こんなものを導入したいきさつを覚書として縷述しておく。

 

 僕はこれまで即売会や通信販売の支払いや送金は、全て銀行や郵便局に行って機械なり窓口なりで処理してもらっていた。

 わざわざ店に行っていたのは、僕が面倒臭がりだからだ。

 僕の中では「登録の手間>足を運ぶ手間」という図式が成り立っている。

 また、手元に新しい管理情報(パスワードなど)を増やしたくないという事情もあった。いまでさえメールアカウントやツイッター、アマゾンその他の個人情報に関する多くのアカウントやパスワードの管理に辟易しているのに、それを増やすなんてとんでもないと考えていた。おまけにここに蒸奇都市倶楽部の各媒体のアカウント管理も加わってくるのだ。

 しかもこれらのパスワードを定期的に無意味な文字列に置き換える作業も加わってくる。それに伴ってパスワード台帳を更新する手間も考えれば、面倒なんて一言で済ませられるものではない。

 ただ、扱う情報の性質上これらは疎かにはできない。

 こんな面倒なことをする手間を進んで増やしたいとは思えない。

 

 さらにもう一つ自覚している性質として、お金の管理が下手なこともある。

 そんな性質の人間が家で容易に支払いができる環境を構築すると、たちまち浪費がはじまりかねない。なので郵便局やATMまで足を運ぶ手間(面倒)をあえて挟みこんで、浪費を抑制しているつもりである。手元のお金もいつも最小限だ。

 要するに面倒臭がりを利用して自分の性質を抑え込んでいたわけだ。

 

 しかしゆうちょ銀行に関してはそうも言っていられなくなった。

 

 2020年の4月からATMでの電信振替(ゆうちょ銀行の口座間の送金)に初回から手数料がかかるようになったのだ。

 3月までは月1回までは無料で、2回目以降125円であったのが、4月からは回数に関係なく1回100円も取られてしまう。ちょっと前までは月3回まで無料であった。)

 マイナス金利なる情勢やATMの維持費、窓口の人件費を思えばやむをえない処置であろうが、ケチを自認する私には効いた。電信振替を主に即売会への参加費用支払いとして利用してきた身としては、月1回無料で辛うじて回せていたのだが、これからはそうもいかなくなるからだ。

 その折である、ATMに表示される画面でゆうちょダイレクトならば月5回まで無手数料であるのを知ったのは。

 そうなると登録にあまり躊躇はしなかった。

 100円の手数料が管理の手間をあっさり上回ったからだ。

 

 となると私は面倒臭がり以上にケチな性質の方が強いことになる。

 それは確かにその通りで、定価売りが主なコンビニはほとんど利用しないし(使うとしてコンビニ支払いぐらいだ)、手数料を嫌ってコンビニをはじめとした他行のATMも使わないような人間だ。

 結局のところ手間より金を惜しむのである、この男は。

 でなければ即売会のお品書きを手書きにしたりはしないし、コインロッカーを使わず重い荷物を延々とかつぎながら旅先で歩き回りはしない。

 

 こうして図らずもゆうちょダイレクトを使うことになる僕なのであった。

 パスワード管理や認証手続きの煩雑さは甘受しなければならない。

 

 さてお金の管理については……、パソコンからお金が出てくるようになったわけではないので、財布のお金はこれまで通り最低限とすればよい。支払いに関しては、ゆうちょダイレクトへのログインが面倒臭いので、これを利用してうまく抑制していければよいが……。

 通信販売などの支払いはコンビニ払いのみにしてしまうのも手か。

 いずれにせよ、付き合うのはお金ではなく自分の性質とである。

 お金が悪いのではなく、使いすぎる自分が悪いのだから。

 

三島由紀夫vs東大全共闘

 という昔の怪獣映画か東映まんがまつり(「〇〇対××」)みたいな題名のドキュメンタリーを見てきた。なぜか若い男女連れが3組くらいいたけど、題名を見て活劇的な作品だと勘違いしたのかもしれない。

 時節柄15人ぐらいしか入っていなかったのでとても快適。

 

 内容については一回見ただけなのうろ覚えではあるので、記憶を吐き出したメモを中心に記す。まだまだ煮詰まってはいないので、今後の思考や感想の踏み台とするために。

 議論を取り扱ったドキュメンタリー作品という性質上、しっかり見直すのがいいのかもしれないが、1900円の複数払いは高い。

 

 ちなみに今年は三島由紀夫がお腹斬って50年。彼の生まれ年(大正14年 / 1925年)と没年月日(昭和45年 / 1970年11月25日)は非常に覚えやすい。

 

公式

gaga.ne.jp

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『暗翳の火床』Web版 公開

 僕が蒸奇都市倶楽部に提供した作品『暗翳の火床』(アンエイのカショウ)が、小説投稿サイト「小説家になろう」と「カクヨム」にて連載開始となった。

 ので、こちらでも作者として一応は告知をしておきます。

 

kakuyomu.jp

 

暗翳の火床 (小説家になろう)

 

 すでに蒸奇都市倶楽部が文庫(同人誌)として発行し、各出展先にて頒価1500円で販売している作品の無償公開版もとい、Web版である。ネット上で公開する利点はそこに尽きると思うので、興味がある人はどうぞ。詳しい内容についてはサークルのツイッターであるとか、作品の扉ページに譲る。僕は自分の作品を適度に客観視できないので、自ら詳しく触れるのは記事の末尾に逃しておく。

 

 なぜ無償公開をするにと僕が判断したのかはこちらの記事を。

ks2384ai.hatenablog.jp

 サークルの建前的な掲載に至った判断についてはこちらの記事を。

steamengine1901.blog.fc2.com

 

 そんな感じ。

 

 

 

 一応は作者が内容を紹介しておくと、巻き込まれ体質の主人公*1 がその体質ゆえに帝都で暗躍する秘密結社の計画に引き込まれていくよ、という話。そういった身も蓋もない骨子に、蒸奇都市倶楽部の世界設定や登場人物の性格や行動で肉付けしていった作品です。

 

 

 

*1:作りやすさの観点から、話の発端って大概は巻き込まれる形だよね。

衝動と承認欲求の対流

 カクヨムにある個人企画での「ファンタジー作品なら何でも」「異世界以外」といった要綱を見ていると、ジャンルとはつくづく難しいものだなと思った。

 企画者が言う「ファンタジー」「異世界系」はどういったものを想定しているのか、僕はそこが気になってしまう面倒な人間だからだ。でもこれをその場で問うと、それこそ本当に面倒臭い議論吹っ掛け野郎になる。「カレーとはなにか」問う海原かてめぇは。

 

 しかし僕の「定義は何か」はその場で問い詰めたいわけではなく、自分に応募資格があるのかどうか厳密に判断したいという意味合いである。自分がファンタジーだと思ってた応募したものが、企画者にとって全然ファンタジーじゃなかったら、要綱を読めないやつになってしまう。それは避けたい。

 要綱にジャンルだが大雑把に指定されている場合、その判断はおおむね作者の「ジャンル観」に委ねられていると見ていいのだろう、たぶん。

 そうなると今度は今度で、応募する側としては「部分的にでもそういった要素があればいい」のか、あるいは「他人が違うと言っても作者がそう思っていればいい」のか、そこが不透明で僕まらは混乱してしまいそうである。もっとも、広く募っているのならばおそらく前者とみてよいのだろう、とは思う。*1
 もちろん企画者のジャンル観にそぐわない場合は企画者が撥ねればよい話なのであるが、下読みでもない人間にその面倒さを投げるのもどうかなと二の足を踏む。

 


 本来こういう「ジャンル」は個別の作品について吟味すべきものだろうし、それら個別の作品とて何か一つのジャンルに縛られているものでもないだろう。


 もう少し引き寄せる。

 

 蒸奇都市倶楽部の作品は『スチームパンク“風”』と銘打っているので、もちろん看板は『スチームパンク“風”』なのであるが、これを分解すると『部分的に異世界で、部分的にファンタジー(「なろう」だとハイの方)で、部分的にSFで、部分的に文芸で、部分的に娯楽小説になるだろう』と僕は思っている。(あとキャラクターのイラストがついていたらライトノベルだと思っているので、蒸奇都市倶楽部のカバー付き文庫は全てライトノベルだと思っている。)


 この「部分的な」を付す曖昧さは、(僕がいつも言っているように)「ジャンルは読んだ人が決めるもの」という姿勢に基づいている。作者がジャンルをあーだこーだ指定しているけれど、それに囚われないでいいよ、と。

 

 しかし即売会場で小説を手に取る人に「読んでから判断して」はひどすぎる。

 となると、ある程度の枠を事前に示すのはやむを得ないわけで、そうなってくると今度は手広く「(部分的に)ファンタジー」「(部分的に)異世界」と言っておけば、「部分的」のどこかにかすって手に取ってくれる人が増えるのではないだろうか、という皮算用が生じてしまっている。


「読んだ人が決め」ればいいという僕自身は無責任なもので、「決める」判断はめちゃくちゃ人任せだ。他人(僕以外)が「これのジャンルは〇〇」と言っているからそうなんだろう、と。
 これにはむろん作者の宣伝も含まれていて、僕自身は「作者がジャンル〇〇と言っていたから〇〇なんだろう」と判断する。

 もっとも私以外がジャンルを決めるという点では大きくかけ離れていない。

 

 かように僕はジャンルを自分で決めるのが好きではない。しかしサークル活動において宣伝は自前で行う必要性から、ある程度はジャンルも含めて宣伝をしなければならず、そのためにジャンルを決めなければならない。

 そこに生ずる矛盾を、僕はいまだ上手く解消できていない。*2

 

 そもそも蒸奇の『スチームパンク』とて、原案者がそう言っていたからというものである。僕が決めたわけではない。
『“風”』を付け加えたのは紛れもなく僕であるが、それは作品を書くにあたって『スチームパンク』とされる本を複数読むうちに、歴史改変要素を含まないものがスチームパンクの主流という認識を得たところが大きい。
 そしてここにもジャンルを決めない、という考えが働いて、改変要素を含まない蒸奇の世界設定には『“風”』を足して、「スチームパンク」と言い切るよりも、薄めた方がよいと判断したのだ。

 この判断には、
「これは本物のスチームパンクか?」
「はい、本物のスチームパンクです」
「では教えてくれ。本物のスチームパンクとはなにか」
 と海原に問われたくないという僕の逃げの姿勢が如実に現れている。

 

 この姿勢は『部分的に~』と言った全てにも当てはまる。

 

「これは本物のハイファンタジーか?」
「いえ、部分的になので本物とは言い切れません」
「そうか」*3


 他方、『スチーム「パンク」』という点を鑑みれば、既成の枠組みにはめる必要はあるのか、というのもある。*4

 既成の枠組みに囚われない、というひとつのパンク観は、蒸奇の登場人物が概ね(作品世界の帝都で)主流でないのに影響しているだろう。*5

 蒸奇都市倶楽部の作品の多くの出来事は作中の国家「帝都」の枠内で起きている。しかし登場人物が帝都における主流派では、恐らくパンクを名乗れない。むしろいずれ帝都という枠をぶち壊すほどの衝動やうねりとなってこその、パンクという枠組みにおける主人公、導き手ではないだろうか。

 

 でもこれは結局のところ、理屈から語ろうとしているので、定義を求めて語っている段階でパンクじゃなくね、とも思ってしまうし、第一そういったパンク観自体が、やっぱり他人の受け売りであって……、それを言い出すとジャンルにはめるのが好きでない人間がジャンルを語り、枠にはめようとしている時点で錯誤している。


 あれこれ話や内容に統一性がないのは、僕自身に複数の立場が混在しているうえに、あまつさえそれらふぁ同じところでものを考え、同じところで出力しているからだ。

 

 小説書くシワ読むシワ売るシワ

 

 どれも混然と一体化していて、しばしば僕にとって都合が良い立場でものを言い、考えているにすぎない。上で書いていることにもその都合のよさが活かされている。

 海原に問い詰められたくなくて、ジャンルを読んだ人に丸投げするのは書くシワであるし、部分的にジャンルを被せて宣伝するのは売るシワであるし、ジャンルの判断を自分以外のものに頼るのは書くシワ読むシワであるし、パンク観から作品を捉えようとするのは売るシワと読むシワであるし、“風”を付け加えたのは三者の利害の一致である。

 

 三シワの考えはしばしば衝突するが、そこから生ずる衝動は、はっきりと書き表すことができない。ただ、そこに生ずる思索は、結果として私を原稿に向かわせる力となっている。

 ここでの原稿とは何も小説の原稿だけを指すのではない。この記事だって原稿に書いているわけだし、本を読んでの感想だって原稿にしたためないと文章化できない。宣伝の文案も大事な原稿だ。おそらくはどのシワも書く行いによって矛先をずらすことで、まともにぶつかり合った衝動で砕けないようにしているのだろう。

 この衝動による大きな思索と、前にも書いた承認欲求という大きな欲望との対流によって、僕のサイクルが形作られているのかもしれない。

 

 ところで監修のシワとしては、ゆくゆくは都市倶楽部が出す作品=「スチームパンク“風”」というジャンルになればよいと思っている。そこをちょっとでも固定化できれば、その他のジャンルは難しく考えなくてもいいだろうと。

 〇〇が書く作品→ジャンル:〇〇 みたいな。

 そうなればきっと簡単だと思い、奮闘している。

 僕は生来の面倒臭がりであるが、将来にわたって長くかかる面倒臭さを取り除けるためには、いまの面倒くささを押しのけて頑張ってもいいと思っている。

 

 

*1:後者は作者のわがままで押し通せてしまい、なんでもかんでもこじつけることができてしまう。

*2:こうやってあまり考えこみすぎないようにしているというのもある。精神衛生上。

*3:こんな返しを海原にすれば、「そうか」では済まされず、「では二度と名乗るな!」と怒鳴られるのではないか。

*4:そういう意味では語ること自体がナンセンスである。

*5:その方がお話を作りやすいという身も蓋もない話もあるが。

春先の淡路島(後編)

  淡路島に行った記録の後半。

 

 

島に来た理由

 記念館を出たのは16時半ごろ。

 次のバスを待たず海岸に出てまっすぐ北へ歩きはじめる。帰りのバスの時間まで海岸沿いを歩いて北上しながら、どこか適当な地で夕日を見る。

 

 そもそも旅の発端が「海に沈む夕日が見たい!」という思いつきだ。

 僕の住んでいるところは山の中なので、ときどき無性に西の海に没する太陽を見たくなる。これまでの旅では様々な場所に沈む夕日を見てきたが、淡路島からはまだ見ていなかった。というわけで、遠いとも近いとも言い切れない距離にある淡路島へ旅立ったのが事の次第。

 この時期にしたのは、冬の内に夕日を見ておきたかったからだ。

 住まいと交通手段の関係で遅いと日帰りができなくなってしまうので、淡路島で夕日を見るのならば18時までに日が沈む2月末あたりが期限であった。

 16時、17時台に沈む真冬に来られれば一番よかったのだが、まあ、僕にもいろいろと都合がある。

 

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 蟇浦(ひきのうら)集落にある公園では早くも椿が散っていた。

 

島の西は夕日が良い

 淡路島の西海岸、特に「淡路島サンセットライン」と呼ばれる県道31号線沿いは基本的にどこでも日没が眺められる。やや北寄りの富島(震災記念公園のすぐ南の地区)や室津からの眺めが特に良いそうだが、あまり本州や四国に寄りすぎないならば、サンセットラインはほぼ全域で播磨灘が南北に開けているので全季節で夕日が眺められるのではないだろうか。

 

 サンセットラインを北上して冬の終わりの夕日を眺めようという主旨の今回であるが、空模様はあいにくの曇り。曇りのち晴れという予報も出ていたが、わずかに雲間から日が顔をのぞかせるぐらいで基本は曇天だ。

 

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 海は輝いているものの、太陽は見えない。

 

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 それほど遠くない本州側もかすんだまま。

 

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 それでも日没は見えるさと楽観的に北上する。

 

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 ちなみに西海岸の北側は海の近くまで山が迫っている。

 高台の上に民家やガードレールの白が見える。

 

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 そりゃ棚田になるよね、という地形。

 

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 山と海に挟まれた土地を道路が貫いている。日本の海岸沿いでよくみられる風景だ。当然ながら歩道はない。もっともここは二車線で消波ブロックがそこそこあるので、島南東部の諭鶴羽山地の海岸沿いに比べれば広い方。あっち側は本当に山にへばりついているという表現があっている。幸いどっちも車の本数はそれほど多くはない。

 ちょくちょくロードバイク乗りが私を追い抜いていく。夕暮れ時だから帰途についているのだろう。ジェノバラインでは自転車も航送できる。

 

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 お、奇跡的に太陽がのぞいてくれている。

 俺はここだ!

 沈むときには顔をもっと見せておくれ。

 乱反射を俺に届けてくれ!

 

 平林のバス停に到着したのは17時20分ごろ。ここでの次のバスは17時50分。

 まだまだ明るいが、日没の時間(神戸で17時40分ごろ)と歩く速度、バスの時間を考慮するとここらの海岸で日没を見てバスを待つのがちょうどよい。

 

f:id:KS-2384ai:20200216231114j:plain バス停の近くには古代の製塩遺跡があった。

 

f:id:KS-2384ai:20200216231120j:plain モニュメントが置かれている。

 

とても良い木です

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 ちょっとした空き地に木が一本生えていた。

 立地はもとより、枝ぶりも素敵で、絵になりそうないい感じである。

 

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 これ、曇っていてもこんなに雰囲気があるのならば、太陽が出ていたら影やら西日やらでもっとすごい良い感じになるんじゃないか?

 うーん、これは次の冬にはぜひ足を運ばなくてはならないな。

 

肝心の夕日は

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 平林は集落があることからもわかるようにちょっと開けた土地で、海岸と呼べるものがあって階段で降りられる。(狭い場所だと上の写真みたいに消波ブロックがあるだけで、降りられはするけれど、防波堤が高いので道路に戻れなくなる。)

 

 天候は……。

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f:id:KS-2384ai:20200216231153j:plain ちょっとした雲間に薄い茜っぽいのが見えるのみ。

 時間的にはとっくに日没だが……。

 

 成果:やっぱり見られませんでした。

 

 駄目元で行っていたので仕方ないと受け入れる。

 ただ、とても良い木を見つけられたので、いずれ必ず再訪すると心に誓う。

 

帰ろう、本州に

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 バスの時間も近いし直に暗くなる。帰ろう。

 

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 バスベイにある建物。いかにもな地方のバスの待合所だ。

 

f:id:KS-2384ai:20200216231210j:plain 中には町内会の掲示板。使われなくなって久しいのだろう。

 

 やってきたバスは行きに乗ったのと同じ運転手さんだった。私一人を乗せた車内にかすかにラジオが響く。

 島を北上する間にも見る見るうちに空が暗くなっていく。淡路島の北端近く、松帆の浦に着くころにはすっかり暗くなっていた。松帆の浦は藤原定家の『来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ』の「まつほの浦」。

公共の交通

 終点となる岩屋ポートターミナルまで結局誰も乗ってこなかった。

 廃止代替のコミュニティバスとはいえやはり寂しいものがあるが、元の路線が廃止となったのもむべなるかな。とても民営ではやっていけないだろう。*1

 いくら公共の交通といっても、赤字では存続できない。黒字路線の利益を入れてまで路線を存続させるのがよいのか。公営ならば税金を入れるのか。廃止する民営路線を自治体が引き継ぐのかどうか。地域住民(≒国民)がそれをどう考えるか。

 日本はとっくに路線の本数削減や路線の再編、廃止がよく行われる時代になっている。廃止代替で走り始めたコミュニティバスさえ廃止された地域だってある。*2

 

 自治体レベルではなく全国レベルで公共交通の在り方をデザインしなおさなければならない。そんな時代だとふと思った。新幹線ばっかりじゃなくて。

 まあ、流しの旅人の戯言である。

 

夜の商店街

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 夜の絵島。ライトアップされていた。

 

 帰りの船まで少し時間があるので岩屋を再びぶらぶら。

 

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 岩屋商店街。

 

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 18時過ぎなのに、休日ということを差し引いても店はほとんど閉まっており、人通りもめったにない。わずかに開いた飲み屋とスーパーと銭湯の灯りがまばゆい。

 明石からの最終便が23時40分なので、そっちで飲んでくる人もいるのだろう。

 

島を発つ

 滞在時間はほんの6時間ほど。短いものだ。本当にふらりと立ち寄っただけといってよい。しかし見るもの、得られたものは多かった。

 

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 明石海峡大橋メインケーブルのライトアップ。

 

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 夜の橋をくぐったところでバッテリー切れ。

 

振り返って

 今回は中核に「夕日」と「野島断層記念館」を組み込んでいたので、時間も必然それに制約を受けたものの、いろいろと景観の良いところも発見できたので、いずれ再訪したい。

 また、淡路島には今回発見できた場所のみならず、沼島(淡路島経由でしか行けない)をはじめ他にも訪れたい地がある。じっくりめぐるなら泊まりか、何度か挑戦するか、いずれにせよまた気が向けば計画を立てたい。

 その時には必ず公共交通を利用する。これは決定事項。

 

記事の前編はこちら

ks2384ai.hatenablog.jp

野島断層保存館の記事はこちら

 

ks2384ai.hatenablog.jp

 

*1:もしかしたら他の便は満員かもしれないけれど、僕が見た限りこの日のコミュニティバス各路線はがらがらだった。

*2:大概の場合は完全に足が途絶えないよう代替でデマンドタクシーなどを走らせたりする。廃止代替の廃止代替である。

野島断層保存館

 淡路島にある北淡震災記念公園と、その中核施設となる野島断層保存館に行った記録。阪神淡路大震災兵庫県南部地震)に関連する施設だ。

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 公園にはモニュメントや慰霊碑が立っている他、物産館やレストランがある。

 

 そんな記念公園の中心施設が「野島断層保存館」(入り口の撮影を忘れていた)。地震により露出した断層(天然記念物に指定)がそのまま保存されている貴重な施設。入館料730円。館内撮影は自由。

野島断層保存館 | ほくだん

 

 神戸市内でも遺構の一部は保存されているが、復興に伴いその跡はあまり目立たくなっている。ここでは断層という形でその傷跡がまざまざと保存されている。

  入ってすぐは震災の概要やその被害を示すデータや写真、模型の展示が中心。

 奥へ進む。

 

 1995年1月17日。

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 保存館の中核をなす、約140メートルにわたって断層が保存された区画。

 

 

f:id:KS-2384ai:20200216230922j:plain この区画では断層がほぼ当時のまま残されている。

 といっても入ってすぐの道路では、路面の亀裂の入り方などから、どの方向にずれたのかや、「当時のまま」といっても屋内部分と外は壁で隔てられているので、その連続性にピンと来ないかもしれない。もっともそれは奥へ進むにつれて次第に明らかになる。

 

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 ずれ方については道路そのものよりも側溝に注目するときい。ジグザグに折れ曲がっているが、矢印のパネルが示すのがずれた方向だ。

 

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 こっちから見るとよりわかりやすい。

 グレーチング(側溝の格子蓋)が大きくずれている。

 

f:id:KS-2384ai:20200216230935j:plain 続いて断層の露出面。写真の左(山側)が主断層で、右(海側)が副断層。主断層の高さはおよそ50センチメートル。左側が隆起して段差が生じた。

 

f:id:KS-2384ai:20200216230939j:plain ずれを明確に感じられる場所のひとつ。

 

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 同じ色のパネルが元のつながりだ。あぜ道やその左の段差、右にある側溝からそれぞれの元のつながりがはっきりわかる。まさに大地が動いた爪痕といえよう。

 

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 外との連続性を感じられるのがこの生け垣。写真左、ガラスの外にも続いていのが見えるだろう。生け垣は館外にある小さなお社のものだ。

 復興や震災記念公園の整備に伴う造成で田んぼやあぜ道はならされてしまい、周辺の連続性はあまり残っていない。そんな中でこの生け垣は、保存の内と外がまぎれもなく同じ場所にあったことを示している。

 

f:id:KS-2384ai:20200216230956j:plain 地割れ(規模が小さいので亀裂)。大地が割れた。

 

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 館内の一番奥はトレンチ調査(断層を調べるための発掘調査)の跡で、少し降りて断面を眺められる。大地の移動がはっきりわかる。近くにはトレンチ調査によって掘られた断面も展示されている。

 

f:id:KS-2384ai:20200216231010j:plain このずれは今も地下深くへ続き、また新たなエネルギーを着々と蓄えているのかもしれない。

 

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 ちなみに断面が磨いた泥団子のように光を反射しているのは、表面に樹脂加工がなされているからだ。

 保存館の断層は風化を避けるため、屋内保存のうえ樹脂加工されている。手を加えているではないか、と思われるかもしれないが、露出したままの保存がいかに難しいかはこの後の屋内でわかってもらう。館内の断層は状態を保つため、つまりそのままの状態を「保」ち「存」続させるために毎年末にメンテナンスが行われているという(記念館の休館日)。

 

f:id:KS-2384ai:20200216231014j:plain 震災遺構のひとつ、神戸の壁(空襲と震災に耐えた防火壁)を経てメモリアルハウスへ。

 

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 敷地内、家のすぐ西側に断層が走りながらも倒壊しなかった、災害に耐えた家である。基礎がしっかりしている(当時の基準の2倍以上のコンクリートを使用)ので、壊れなかったようである。もっとも地盤が傾いたので基礎ごと家も傾き、水平面から少し傾斜している。しかし柱や壁などにはほとんど隙間が生じず(壁に若干の亀裂がある)、実際生活には問題なかったらしく、住民の方は震災後も4年ほどこの家に住んでいたという。

 

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 家の中のパネル展示のひとつ。

 島内では旧北淡町(震災記念公園のある当地の合併前の町名)の被害が特に大きかったことを示している。

 

f:id:KS-2384ai:20200216231027j:plain 家の敷地内、庭を走る断層によって塀が傾いた傷跡もしっかり残っている。

 

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 隆起した断層も矢印で示されている。

 

  さて、保存された断層やメモリアルハウスという形で震災の爪痕を記録している保存館であるが、僕が最も印象に残ったのは屋外にあるこの場所だった。

 その理由は塀が傾いているからではない。

 

 ではなぜか。

 次の写真を見てほしい。

 

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 断層の部分はちょっとした坂になっているのがわかると思う。

 隆起したのだから、その段差が坂状になったのだろう、なに当然のことを言っていると思われるだろう。

 

 しかしである、もしここに塀も断層を示すパネルもなければ、あなたにはそれが地震の爪痕だとわかるだろうか。

 露出した地面は年数と共に雑草に覆われてしまっており、隆起した箇所も四半世紀の風雨にさらされてなだらかになっており、ちょっとした坂のようになってしまっている。もし展示物が何もなければ、これがかつて大きな地震によって生じた断層だなんてわからないだろう。少なくとも僕はまったく気付かないに違いない。

 それを考えれば、建物で覆い樹脂を吹き付けてまで「保存」することの重要性がわかるのではないだろうか。露出したままの保存がいかに難しいか、である。

 

「震災の風化」といえば、年月を経たり震災を語る人が減るなどして、多くの人の記憶から忘れられていく状態を指したものと解されるが、それのみならず言葉の本来の意味通りにも消えていくものでもあるのだということが身にしみたのだ。

  冬場の雑草とそのちょっとした坂道が僕に深く印したのは、記憶だけではない震災の風化という事象を目の当たりにしたからだ。

 

 さておき保存館は、目に見える形で震災と断層の活動がいかに大きなものであるのかがわかる施設だ。

 

 僕は年齢的にも当時住んでいた地域的にも、あの震災をはっきり記憶しているが、もう25年も前なのだという事実にも驚いてしまう。その後も2011年を筆頭に多くの震災があり、甚大という言葉ではくくりきれない犠牲、被害があった。

 

 残念ながら地震そのものは地球が活動している息吹のようなものであり、それ自体はけして防ぎようがない。だからこそ防災、減災によって被害を抑えることの重要性を感じさせてくれる施設だ。

 

 地球、それも日本に住む者の宿命として、南海トラフ地震も避けられまい。

 である以上、それが起こった際の備えと、もし可能ならば覚悟が必要だろう。

 

 防災という観点からは、神戸市にある「人と防災未来センター」にも訪れたい。

人と防災未来センター

 

 この旅の前後編はこちら。

ks2384ai.hatenablog.jp

ks2384ai.hatenablog.jp

 

春先の淡路島(前編)

 淡路島は淡路市(旧、北淡町)にある野島断層保存館に行ってきた。

 

 のだが、例によって記事が長くなったので、淡路島行きを前後編にわけ、それとは別に野島断層保存館の話をまた別仕立てにした。

 

 

唯一の航路

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 本州からは船で淡路島へ。

 ジェノバラインは本州と淡路島を結ぶ唯一の航路だ(2020年2月現在)。

 明石と岩屋の間を日中は40分間隔で運航している。片道530円。自転車やバイク輸送は別途料金。

明石と淡路島を結ぶ高速船 淡路ジェノバライン

 

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 船が到着する前の明石の乗り場。前の便が出た直後なのでのんびりした時間が流れていたが、発船時間が迫るにつれあちこちからお客さんが集まってきた。(実際にはこの奥の2番乗り場から乗船。) 

 僕が乗った便の乗客は行きも帰りも3割ほど。

 もっともこれは日中(11時40分発)の岩屋行きと夜(18時40分発)の明石行きの話だ。これはラッシュ時に郊外へ向かう列車に乗ったようなもので、主となる流動とは逆向きといえる。その証に、折り返しとなる到着便からは僕が乗った便の倍以上の客がそれぞれ降りていた。

 また、日中40分毎に対し平日の朝は20分毎、晩は30分毎であることも踏まえると、それなりの数の乗客が利用しているようだ。

 

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 明石港を出た高速船は向きを変えて瀬戸内海へ飛びだす。

 向かいにはすでにかすむ淡路島が見えている。

 

 明石海峡は大阪湾と瀬戸内海をつなぐ重要な海峡だ。大小さまざまな形態の船が見渡す限りに走っている。海上を行く船に吹き付ける風はまだまだ肌寒くもあるが、海峡を走るのもあって見ていて飽きない。むろん船には3列掛けの座席が並んだ温かい船室もある。私が好んで2階の吹きさらしに立っているだけなので安心されたし。

 

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 ウミウがしばらく並走してくれた。見かけた数はカモメよりも多かった。

 

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 すぐ対岸にある淡路島は天候のせいでかすんでおり、実際の距離より遠く感じられる。

 

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 本州側も同じくかすんでいる。

 

 

橋の開通で消えたもの

 約15分の短い航路。

 見えていた淡路島はあっという間に近づいてくる。

 

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 そして頭上に架かる世界最大の吊り橋(2020年現在)。

 

 橋は島の流動を大きく変えた。

 明石海峡大橋とともに淡路島の高速道路が全通したのは98年だ。*1 関西から四国まで車だけで行けるようになりすでに22年、航路はとっくにその役目を終えているといってよいだろう。

 かつてジェノバラインと同じ明石~岩屋間にたこフェリーがあったが、橋が開通した12年後の2010年に休止、2012年に廃止されている。*2

 この他にも淡路島と本州の間には大阪(泉佐野や深日なども含む)や神戸からの定期航路が多く存在したが、橋が架かっていずれも時をまたず廃止となっている。四国~淡路島も同じで、こちらも橋(大鳴門橋)が架かったあとに廃止されている。

 

生まれたもの

 橋の開通により現在の淡路島には多くの高速バスが行き交っている。開通以前には考えられなかった光景だ。大阪・神戸~淡路島内~徳島の区間は運行会社も本数も路線も多く、それだけ人の流動が盛んなのがうかがえる。

 

 本州から淡路島だけに渡ることを考えても、(ジェノバラインとおおよそ同じ区間となる)舞子(本州側)~淡路インター(淡路島側)のバス停間で420円、日中1時間でも2~3本ある。*3

 高速バスが都会の神戸三宮や大阪と島内の各地を直接結んでいることを考えると、航路に勝ち目はない。様々な航路が廃止の憂き目にあうのも止むかたなし。

 

それでもあえて船に乗る

 だからこそというべきか、私は三宮から明石まで出たうえで唯一の航路として残ったジェノバラインを選んで乗った。四国へ通ずる道として、かつては多くあった航路へのある種の郷愁の念というか、あるいは島内住民の移動を支えた公共交通への労いというか、昔ながらの方法で淡路島へ渡ってみたかったのである。

 もっともそういった感慨を差し引いて、単純に旅人の心理として行程に変化を加えてみたかっというのもある。高速バス一本で「はい淡路島」では移動マニアの名が廃る。

 

 廃止された航路について思いを馳せたが、私はただこれら去ったものを懐かしんでいるだけで、橋の開通による功罪には触れない。それは地元民でない私が思惟するものではない。私は旅人して、ただ行くものを思うだけだ。

 

淡路島の島内交通には『あわじ足ナビ』が便利

 ちなみに現在の淡路島の公共交通の路線、時刻表については、兵庫県庁の淡路県民局が発行している『あわじ足ナビ』が抜群に便利なのでここに紹介しておく。淡路地域公共交通総合時刻表の名の通り、淡路島を公共交通機関で旅するならば必携の書である。

兵庫県/淡路地域公共交通総合時刻表『あわじ足ナビ』

 

島の地を踏む

f:id:KS-2384ai:20200216230817j:plain 岩屋港には多くの漁船が係留されている。港のすぐ背後には山々が迫っており、典型的な日本の漁港といった趣をかもしだしている。

 奥の観覧車は淡路サービスエリア(淡路IC併設)のもの。観覧車の右側の高架橋が高速道路。

 

 発着場となる岩屋ポートターミナルは内外ともに昭和というか平成というか、なんにせよ一昔前のターミナル感が強い建物だ。船会社とバス会社の窓口があり、産直品(淡路島なのでたまねぎが目立つ。次いで鳴門金時)を売っているお土産物屋兼雑貨屋があり、二階には喫茶店がある。写真を撮っていなかったのが悔やまれる。また島に来る際に訪れよう。

 

f:id:KS-2384ai:20200216230830j:plain 明石の名物といえば明石海峡のタコ。ここは淡路島だが、漁港には蛸壺が多数。

 

日本最古の土地

f:id:KS-2384ai:20200216230821j:plain ポートターミナルを出てすぐには岸壁に囲まれた小島がある。

 絵島といって「おのころ島」伝承地とされている。

 

f:id:KS-2384ai:20200216230825j:plain 島には橋が架かっているが、柵で封じられて立ち入ることはできない。かつては立ち入れたのだが、また入れる日は来るのだろうか。

 淡路島は神話に従うならば日本最古の土地となる。なので国生みに関わる地として、こういった「~とされる」比定地が多い。たとえば淡路島の南にぽつんと浮かぶ沼島も「おのころ島」伝承地とされている。この島もいずれ訪れたい。

 

 岩屋ポートターミナル少し歩けば岩屋恵比須神社があり、そのすぐ裏に岩楠神社がある。

 これらも日本神話に由来する重要な名づけとなっている。

 日本神話の国生みによって最初に生まれたのは淡路島であるが、これに先立って生まれたものがある。水蛭子(ヒルコ)だ(『古事記』の場合。『日本書紀』では順番が異なり、三貴神の前に生まれたり、ツクヨミとスサノヲの間に生まれたりしている)。不具とされたヒルコは海に流されてしまう。日本各地にはヒルコが流れ着いたとする地がいくつかある。もっとも有名なのは兵庫の西宮だろう。ここもその一つだという。

 

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 流されたヒルコが恵比寿となったという説も有名だ。西宮神社がえびす神社の総本山なのもこれに由来する。ここの神社がえびす神社なのも同じ謂れに端を発している、どころか立て看板によればその本家がここだという説もあるらしい。

 

 その恵比寿神社の祭殿のすぐ裏には小さな岩山がある。

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 岩山には小さな洞窟がいくつかあって、その一つに祠が収まっている。

 

f:id:KS-2384ai:20200216230840j:plain それが岩楠(イワクス)神社だ。

 この岩楠という名もヒルコに関連する。

古事記』でのヒルコは葦の船によって流されるが、『日本書紀』では天磐櫲樟船(アメノイワクスフネ)、あるいは鳥磐櫲樟船トリノイワクスフネ)によって流される。イワクス、そう、岩楠である。

 神社の名前が後付けなのかどうかは余人にはわからぬ。

 

 ところでこの辺りの地名は岩屋だが、岩屋とはむろん洞窟のことをさす。岩楠神社の岩山に開く穴はまさにその岩屋で、その由来を思わせる。もっとも神社の岩屋が直接の由来というわけではないだろう。この辺りが近代的な漁港として開発される前は、海岸沿いにいくつも似たような岩屋があったものと思われる。

 先ほど見た絵島にはいくつも穴が開いていたが、島はもとは陸地とつながっていたという。それが海食により切り離されたたのである。周辺の地質が絵島と同じとすれば、陸からは切り離されずとも、波の浸食を受けて穿たれた岩屋が多くあったと推察される。

 

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 近くの岩屋神社で行われた粥占の結果が掲示されていた。

 海に面する町らしく海産物が目立つ。くぎ煮で有名な「いかなご」は六分、「たこ」は五分。二分の「だいこ」は大根だろうか。「たい」「あなご」も三分と少ない。「なかて」(中稲)「しらす」「いわし」「こりょう」(なにか不明)は9分と豊かだ。

 

島を南下、のち横断

 バスの時間が迫ったのでポートターミナルのバス停へ。

 やってきたバスはラッピングが施された白ナンバーのマイクロバス。通称は「あわ神あわ姫バス」、正式名称は「淡路市北部生活観光バス路線」という淡路市コミュニティバスだ。*4 淡路島も地方の例に漏れることなく航路ばかりでなく路線バスも減少している。

 バスは定刻に発車。車内ではABCラジオが流れている。のどかさを感じる。僕が乗る路線は北部を東回りで循環するもので、岩屋を出て南へ向かう。

 しばらく僕一人だけを乗せて走っていたバスは淡路夢舞台に到着。乗客を二人載せる。

 淡路花舞台は淡路花博(ジャオパンフローラ2000)の会場跡地だ。今年でちょうど20年となり、その関連イベントも行われるという、ということは帰ってきた後で知った。

www.awajihanahaku20th.jp

 東浦バスターミナルは道の駅も併設するちょっとした拠点。関西への高速バスの起終点のひとつで、その本数はけして少なくない。淡路市南部の津名方面へ向かう「淡路市南部生活観光バス路線」との乗り換え地で、それぞれの便が接続、淡路市の南北の交通を円滑なものとしている。接続する路線から乗り継いだ乗客を一人加えたバスは山越えに向かう。

 

 淡路島に高い山はない。が、何度もカーブを描きながらバスは山を登っていく。存外に険しく感じられるほどの急さだが、脊梁を越えてしまうと棚田が連なる里が広がっている。

 

淡路島の棚田

 特に島の西側の棚田は一段あたりが狭く、かつ段数が多く海岸の方まで続いている。その地形から播磨灘を遠望できる様は佳景といってよい。曇りがちな天気も相まってか遠方の海上には春霞が浮かんでいるようで、烟景という言葉はこのためにあるのだろう。

 この辺りの棚田は「石田の棚田」といって、棚田百選にこそ入らないものの、棚田好きには知られているらしい。時期によっては彼方の海に日が沈むので、それも合わせるととても良い開け方をしているのだと思われる。

 棚田の合間を縫うように敷かれた道は大きく九十九に折れながら西海岸へ下っていく。

 

 北淡事務所(淡路市の出張所)で一宮方面からの路線と接続を取ったバスは北へ転じる。残り半周の始まりだが、私はすぐにバスを降りる。

 ちなみにここまでの乗客の変動は3人。途中の病院から乗ってきたお年寄り夫妻と、スーパーの前のバス停から乗ってきたお年寄りが北淡事務所の近くで降りたきりだ。おそらく他の乗客はそのまま岩屋へ向かうのだろう。

 

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 降りた先は本日の旅の主目的のひとつ、「北淡震災記念公園」だ。

 

 ここの「野島断層保存館」については別で記事を仕立てているからそちらで。

ks2384ai.hatenablog.jp

 

 後半も別の記事。

 

 

ks2384ai.hatenablog.jp

 

 

*1:その10年前となる88年には瀬戸大橋が、翌99年には瀬戸内しまなみ海道がそれぞれ開通している。

*2:たこフェリーという呼称がいつからのものなのかはネットで調べてもわからなかった。運行会社は54年の運行開始時から何度か変遷していて、廃止時の運行会社は三セクの「明石淡路フェリー」だが、その運航は2000年と橋の開通後だ。

*3:明石と舞子、岩屋と淡路インターチェンジ(IC)はちょっと距離があるので、あくまで本州と淡路島の似た区間の比較。ジェノバラインに寄せて正確に比較するのなら、明石から舞子までの電車の料金と所要時間、淡路ICから岩屋への移動時間(公共交通はないので徒歩)も含めなければならない。

*4:運行は本四海峡バスに委託。