雑考閑記

雑考閑記

雑な考えを閑な時に記す

銭葵と春もみじ

 梅雨に入る少し前、まだ好天続きであったころにゼニアオイが美しかったので。

 ……ゼニアオイだよね、これ?

 

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  空き地の砂利に咲いている。

 

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 このまま一気に夏に突入するのではないかと思われる烈日のもと、働きバチが蜜集めに精を出していた。(写真ではぼけてしまっている。)

 花に止まった瞬間にカメラを向けるのだが、向こうもこちらの視線に気づいているのかすぐ飛びたち、上手く収まってくれなかった。

 

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 少し行くと小川があって、一本だけ春もみじが植わっている。

 

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 春もみじ。春から紅葉している楓のことだ。

 

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 ノムラモミジかな?

 

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 見上げると葉が集まっているので上手く紅をとらえきれなかった。

 

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 上手く鮮紅をとらえられた。

流行が流行であるうちは

 雑談におけるコミュニケーションツールのひとつでしかない。

 だから実際に流行っているものが好きかどうかはおそらく二の次だ。大事なのはそれが会話の糸口になるという点にある。流行は雑談における共通の話題としての起点でしかない。

 流行している対象を自分が「好き」か「興味がない」*1 かのみで判断してしまい、「そうでない」なら一切触れないというのは、コミュニケーションツールとしての利点をみすみす見逃してしまっていてもったいないな、と最近思うようになった。

 

 流行がコミュニケーションツールとはどういう意味か。タピオカドリンク*2 を例にあまり中身のないやり取りを挙げる。

 以下、AとBは会話をする顔見知り程度の仲とする。

 

A「タピオカ流行ってるよね、飲んだ?」

B「うん、僕は××って店のを飲んだよ」

A「ほんと? その店気になってたんだ。美味しかった?」

B「ちょっと僕の口には合わなかったかな。でも買うのにかなり並んでたから美味しいんじゃないかな」

A「私は〇〇で飲んだんだけど、それなら次はそこのを買おうかな。〇〇のもめっちゃ美味しかったから挑戦してみたら? 合うかもよ」

B「うん、そうしてみる」

 

 勧められたBは「そうしてみる」といったものの、このあと実際に〇〇で飲むとは限らない。社交辞令であるかもしれないからだ。またそれ以前の段階として、この会話はBが××という店に行っていなくても成立する。店の情報をネットなんかで軽く見たことがあって、それを思い出しながら応じただけかもしれないのだ。もっと言ってしまえば、本当はタピオカドリンクすらどうでもいいと考えているかもしれず、その場の話として無理のない範囲で乗ってみただけの可能性もある。(『そこまでして話を合わせなくてもいいだろう』と思う人もいるだろう。それはあまりよくないのでは? という例をあとで掲げる。)

 

 ただしいずれにせよ、さしあたりの会話になった時点でコミュニケーションのツールとして流行が機能したのではないだろうか。

 私は「あまり中身のないやり取り」と書いたが、こうした類のコミュニケーションはそもそも充実した中身はあまり求められていない。充実した会話はこうした他愛ないやり取りの次の段階に置かれるものだからだ(例示したような軽い会話を何度か経て仲良くなってから行うべきものであろう)。会話は講演や授業ではない。顔見知り程度の仲の人間との会話に充実した内容を求めるのは、おそらく距離のはかり方を誤っている。

 

 冒頭に会話の糸口と書いたのはそのことを指している。同時にこれはひとつの試金石でもある。この人とはコミュニケーションをとれるだろうか、他愛ない話ができるだろうかと、意識的にせよ無意識的にせよはかっているわけだ。

 基本的にはそうした場数をなんどか踏みながら、流行性に囚われない互いの好みなんかを把握して、仲を深めていくのだろう。

 

 初対面で意気投合するような場合もむろんある。

 しかしそれはどんぴしゃりで好きなものや出身地など、共通の話題を得られた例だ。趣味の集まりなんかで初対面の相手とも仲良くなれるのはこの作用が大きい。もとより同好の士、流行の話題を挟んでこわごわと距離をはかる手間が省かれているからだ。

 

 

 さて、仮にBが流行をコミュニケーションと捉えておらず、流行っている対象を「好き」か「興味がない」かのみで判断する人間だったとしよう。そうして今回その判断が「興味がない」に触れていた場合に先の例を持ち出してみる。

 

A「タピオカミルクティ流行ってるよね、飲んだ?」

B「タピオカに興味ないからなあ」

 

 コミュニケーションは不成立と考えていいだろう。

 会話の糸口をバッサリ裁たれては取り付く島もない。

 これはBが『そこまでして話を合わせなくてもいいだろう』と思っている人の場合も同じような経過をたどるのではないか。「流行ってるみたいだね。でも飲んだことない」で少し話が長引く程度であろう。

 ただしBが意欲的ならば、「流行ってるみたいだね。僕は飲んだことないけれど、ちょっと気になってたんだ。美味しいお店ある?」と返して会話を続ける形は大いにあり得る。まあ、話を合わせなくてもいいと思っているタイプがそんな返しをするかは怪しいが。

 

 いずれにせよ、コミュニケーション不成立という状態がことごとく続くと、次第にはさしさわりのない天気の話なんかするようになるか、話しかけられなくなってAB間の会話自体が途絶えてしまうだろう。*3

 ともすれば天気の話はダメな会話例のように言われるが、あれは天気の話がダメなのではなく、天気のことしかないような話題の乏しさがダメだと言っているに過ぎない。たとえ切り出しが天気であっても、

B「Aさんと前に話したときはかなり暑かったけど、今日はだいぶ涼しいね。そういえばタピオカミルクティーってホットはあるの? 美味しい?」

 みたいにつなげられるのならば、じゅうぶん会話は成立するだろう。

 

 結局のところは会話や雑談をどのようなものと位置付けているか、ということなのかもしれない。

 

 

 会話はトレーディングカードゲームのようなものだ。

 そのたとえでいうと天気の話はバニラ*4 にあたろう。それだけで組まれたデッキで人と渡り合うのはほぼ不可能だ。というかゲームが成立する要件(デッキの最低枚数)を満たしているかも怪しい。

 人と会話するためにタピオカなり、そのほかの話題なりのカードを取り揃えてデッキを構築する。ただし「流行」という種類のカードは特徴こそあれどあまり強くはない。主力をひくまでのつなぎでしかないだろう。では会話デッキの主力となるのはなにかといえば、結局のところそれは自分が得意とする話題になるだろう。ただしカードゲームがそうであるように、使い手のデッキにも相性があるので、その主力を使うのか軽く流してしまうのかの判断は各々に委ねられる。

 

 

 人間別に必要以上の会話やカードゲームなんてしなくても死にはしない。

 死にはしないが、それだけ人との交流が減ってしまい、レートのようなものも下がってしまう、かもしれない。

 その例として昔の僕を出そう。

 昔の彼は(いまよりも)流行をコミュニケーションツールだと捉えていなかった。当然ながら流行には興味を示さない。それどころか思春期特有の万能感を抱いている時期がとても長かったので、流行に流されるやつはバカだ無能だと見下していた。*5

 家では「飯」「風呂」「寝る」でいつの時代の人間だよという口数の少なさ。

 こんな人間が(見下している)他人と会話なんてできようはずがない。

 そうしてほとんど人と話さなくなり(というか話しかけられなくなり)、結果として会話が貧困化した。

 つまるところデッキも貧弱となる。天気の話しかない。準備もなしに主力カードを出して負ける(そもそも人との会話で戦力を磨いてこなかったので、主力といえどその能力は推して知るべし)。もっとひどいときにはそもそもゲームに参加すらしていない。無言を貫くか無視するかしかできなかった。

 

 会話というのは大事だ。

 人生の節目にはたいがい面接という関門がある。

 もちろん会話を磨いていない人間は質問に淡々ぼそぼそと答えるだけ。

 通るとお思いか?

 

 という具合である。

 主語を大きくしないためにある個人に焦点をあわせたが、そいつの経験から踏まえると流行といえども、やはりバカにはできない。ころころ流されてしまうのは軽薄ではあるが、あまり「興味がない」ものでも流れをそれなりに把握しておけば、いろいろな人に対応できる弾力的なデッキが構築できるのではないだろうか。*6

 

 という、会話テクニックの初歩の初歩に気付いたのはここ数年ですよ、遅すぎたなおっさんというお話。

 

 

 

*1:=嫌い、ではない。この点は大事だ

*2:すっかり下火となった。

*3:Bが会話を望んでいないのならば、それはそれで成功だろう。ただしそのケースはこの記事の本旨ではないので無視する。

*4:なんの効果や特徴もない基本的なカードのこと。

*5:上の段でカードゲームを例に出しているが、僕はカードゲームをやったことがない。僕の世代で「流行」したからだ。カードを必死こいて集めても流行はやがて廃れる。ケチなのも相まって、散財する同級生をもちろん見下していた。

*6:冒頭に書いたように、「興味がない」=「嫌い」ではない。嫌いなものまで把握しなくてもよい

アドレスを間違えていた話

 とんでもない確認不足である。

 個人サークルのアドレスの一部を誤っていた。

 

 誤:4x8ha32★gmail.com

 正:4x8wa32★gmail.com

 

 上記のように「は」のローマ字表記ミスである。『4かける8は32』の「は」なので本来「わ」と読むので「wa」とすべきところを、「は」表記に引きずられて「ha」としておりました。「下読みやります」でこの誤記では底の浅さが丸見えというもの。とんでもなく恥ずかしい限り。

  幸いTwitter経由でご依頼いただくことが多いのですが、もし誤りのアドレスにご連絡いただいていた場合、深くお詫びいたしますとともに、訂正させていただきます。

 申し訳ありません。いっそう精進いたします。

 (ブログの表記等は訂正済です)

 

正しいアドレス

4x8wa32★gmail.com

 

ゆうちょダイレクト

 なるものに入ったケチな人間のお話。

 パソコンやスマホからゆうちょ銀行のサービスの大半を利用できるサービスだ。

 こんなものを導入したいきさつを覚書として縷述しておく。

 

 僕はこれまで即売会や通信販売の支払いや送金は、全て銀行や郵便局に行って機械なり窓口なりで処理してもらっていた。

 わざわざ店に行っていたのは、僕が面倒臭がりだからだ。

 僕の中では「登録の手間>足を運ぶ手間」という図式が成り立っている。

 また、手元に新しい管理情報(パスワードなど)を増やしたくないという事情もあった。いまでさえメールアカウントやツイッター、アマゾンその他の個人情報に関する多くのアカウントやパスワードの管理に辟易しているのに、それを増やすなんてとんでもないと考えていた。おまけにここに蒸奇都市倶楽部の各媒体のアカウント管理も加わってくるのだ。

 しかもこれらのパスワードを定期的に無意味な文字列に置き換える作業も加わってくる。それに伴ってパスワード台帳を更新する手間も考えれば、面倒なんて一言で済ませられるものではない。

 ただ、扱う情報の性質上これらは疎かにはできない。

 こんな面倒なことをする手間を進んで増やしたいとは思えない。

 

 さらにもう一つ自覚している性質として、お金の管理が下手なこともある。

 そんな性質の人間が家で容易に支払いができる環境を構築すると、たちまち浪費がはじまりかねない。なので郵便局やATMまで足を運ぶ手間(面倒)をあえて挟みこんで、浪費を抑制しているつもりである。手元のお金もいつも最小限だ。

 要するに面倒臭がりを利用して自分の性質を抑え込んでいたわけだ。

 

 しかしゆうちょ銀行に関してはそうも言っていられなくなった。

 

 2020年の4月からATMでの電信振替(ゆうちょ銀行の口座間の送金)に初回から手数料がかかるようになったのだ。

 3月までは月1回までは無料で、2回目以降125円であったのが、4月からは回数に関係なく1回100円も取られてしまう。ちょっと前までは月3回まで無料であった。)

 マイナス金利なる情勢やATMの維持費、窓口の人件費を思えばやむをえない処置であろうが、ケチを自認する私には効いた。電信振替を主に即売会への参加費用支払いとして利用してきた身としては、月1回無料で辛うじて回せていたのだが、これからはそうもいかなくなるからだ。

 その折である、ATMに表示される画面でゆうちょダイレクトならば月5回まで無手数料であるのを知ったのは。

 そうなると登録にあまり躊躇はしなかった。

 100円の手数料が管理の手間をあっさり上回ったからだ。

 

 となると私は面倒臭がり以上にケチな性質の方が強いことになる。

 それは確かにその通りで、定価売りが主なコンビニはほとんど利用しないし(使うとしてコンビニ支払いぐらいだ)、手数料を嫌ってコンビニをはじめとした他行のATMも使わないような人間だ。

 結局のところ手間より金を惜しむのである、この男は。

 でなければ即売会のお品書きを手書きにしたりはしないし、コインロッカーを使わず重い荷物を延々とかつぎながら旅先で歩き回りはしない。

 

 こうして図らずもゆうちょダイレクトを使うことになる僕なのであった。

 パスワード管理や認証手続きの煩雑さは甘受しなければならない。

 

 さてお金の管理については……、パソコンからお金が出てくるようになったわけではないので、財布のお金はこれまで通り最低限とすればよい。支払いに関しては、ゆうちょダイレクトへのログインが面倒臭いので、これを利用してうまく抑制していければよいが……。

 通信販売などの支払いはコンビニ払いのみにしてしまうのも手か。

 いずれにせよ、付き合うのはお金ではなく自分の性質とである。

 お金が悪いのではなく、使いすぎる自分が悪いのだから。

 

三島由紀夫vs東大全共闘

 という昔の怪獣映画か東映まんがまつり(「〇〇対××」)みたいな題名のドキュメンタリーを見てきた。なぜか若い男女連れが3組くらいいたけど、題名を見て活劇的な作品だと勘違いしたのかもしれない。

 時節柄15人ぐらいしか入っていなかったのでとても快適。

 

 内容については一回見ただけなのうろ覚えではあるので、記憶を吐き出したメモを中心に記す。まだまだ煮詰まってはいないので、今後の思考や感想の踏み台とするために。

 議論を取り扱ったドキュメンタリー作品という性質上、しっかり見直すのがいいのかもしれないが、1900円の複数払いは高い。

 

 ちなみに今年は三島由紀夫がお腹斬って50年。彼の生まれ年(大正14年 / 1925年)と没年月日(昭和45年 / 1970年11月25日)は非常に覚えやすい。

 

公式

gaga.ne.jp

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『暗翳の火床』Web版 公開

 僕が蒸奇都市倶楽部に提供した作品『暗翳の火床』(アンエイのカショウ)が、小説投稿サイト「小説家になろう」と「カクヨム」にて連載開始となった。

 ので、こちらでも作者として一応は告知をしておきます。

 

kakuyomu.jp

 

暗翳の火床 (小説家になろう)

 

 すでに蒸奇都市倶楽部が文庫(同人誌)として発行し、各出展先にて頒価1500円で販売している作品の無償公開版もとい、Web版である。ネット上で公開する利点はそこに尽きると思うので、興味がある人はどうぞ。詳しい内容についてはサークルのツイッターであるとか、作品の扉ページに譲る。僕は自分の作品を適度に客観視できないので、自ら詳しく触れるのは記事の末尾に逃しておく。

 

 なぜ無償公開をするにと僕が判断したのかはこちらの記事を。

ks2384ai.hatenablog.jp

 サークルの建前的な掲載に至った判断についてはこちらの記事を。

steamengine1901.blog.fc2.com

 

 そんな感じ。

 

 

 

 一応は作者が内容を紹介しておくと、巻き込まれ体質の主人公*1 がその体質ゆえに帝都で暗躍する秘密結社の計画に引き込まれていくよ、という話。そういった身も蓋もない骨子に、蒸奇都市倶楽部の世界設定や登場人物の性格や行動で肉付けしていった作品です。

 

 

 

*1:作りやすさの観点から、話の発端って大概は巻き込まれる形だよね。

衝動と承認欲求の対流

 カクヨムにある個人企画での「ファンタジー作品なら何でも」「異世界以外」といった要綱を見ていると、ジャンルとはつくづく難しいものだなと思った。

 企画者が言う「ファンタジー」「異世界系」はどういったものを想定しているのか、僕はそこが気になってしまう面倒な人間だからだ。でもこれをその場で問うと、それこそ本当に面倒臭い議論吹っ掛け野郎になる。「カレーとはなにか」問う海原かてめぇは。

 

 しかし僕の「定義は何か」はその場で問い詰めたいわけではなく、自分に応募資格があるのかどうか厳密に判断したいという意味合いである。自分がファンタジーだと思ってた応募したものが、企画者にとって全然ファンタジーじゃなかったら、要綱を読めないやつになってしまう。それは避けたい。

 要綱にジャンルだが大雑把に指定されている場合、その判断はおおむね作者の「ジャンル観」に委ねられていると見ていいのだろう、たぶん。

 そうなると今度は今度で、応募する側としては「部分的にでもそういった要素があればいい」のか、あるいは「他人が違うと言っても作者がそう思っていればいい」のか、そこが不透明で僕まらは混乱してしまいそうである。もっとも、広く募っているのならばおそらく前者とみてよいのだろう、とは思う。*1
 もちろん企画者のジャンル観にそぐわない場合は企画者が撥ねればよい話なのであるが、下読みでもない人間にその面倒さを投げるのもどうかなと二の足を踏む。

 


 本来こういう「ジャンル」は個別の作品について吟味すべきものだろうし、それら個別の作品とて何か一つのジャンルに縛られているものでもないだろう。


 もう少し引き寄せる。

 

 蒸奇都市倶楽部の作品は『スチームパンク“風”』と銘打っているので、もちろん看板は『スチームパンク“風”』なのであるが、これを分解すると『部分的に異世界で、部分的にファンタジー(「なろう」だとハイの方)で、部分的にSFで、部分的に文芸で、部分的に娯楽小説になるだろう』と僕は思っている。(あとキャラクターのイラストがついていたらライトノベルだと思っているので、蒸奇都市倶楽部のカバー付き文庫は全てライトノベルだと思っている。)


 この「部分的な」を付す曖昧さは、(僕がいつも言っているように)「ジャンルは読んだ人が決めるもの」という姿勢に基づいている。作者がジャンルをあーだこーだ指定しているけれど、それに囚われないでいいよ、と。

 

 しかし即売会場で小説を手に取る人に「読んでから判断して」はひどすぎる。

 となると、ある程度の枠を事前に示すのはやむを得ないわけで、そうなってくると今度は手広く「(部分的に)ファンタジー」「(部分的に)異世界」と言っておけば、「部分的」のどこかにかすって手に取ってくれる人が増えるのではないだろうか、という皮算用が生じてしまっている。


「読んだ人が決め」ればいいという僕自身は無責任なもので、「決める」判断はめちゃくちゃ人任せだ。他人(僕以外)が「これのジャンルは〇〇」と言っているからそうなんだろう、と。
 これにはむろん作者の宣伝も含まれていて、僕自身は「作者がジャンル〇〇と言っていたから〇〇なんだろう」と判断する。

 もっとも私以外がジャンルを決めるという点では大きくかけ離れていない。

 

 かように僕はジャンルを自分で決めるのが好きではない。しかしサークル活動において宣伝は自前で行う必要性から、ある程度はジャンルも含めて宣伝をしなければならず、そのためにジャンルを決めなければならない。

 そこに生ずる矛盾を、僕はいまだ上手く解消できていない。*2

 

 そもそも蒸奇の『スチームパンク』とて、原案者がそう言っていたからというものである。僕が決めたわけではない。
『“風”』を付け加えたのは紛れもなく僕であるが、それは作品を書くにあたって『スチームパンク』とされる本を複数読むうちに、歴史改変要素を含まないものがスチームパンクの主流という認識を得たところが大きい。
 そしてここにもジャンルを決めない、という考えが働いて、改変要素を含まない蒸奇の世界設定には『“風”』を足して、「スチームパンク」と言い切るよりも、薄めた方がよいと判断したのだ。

 この判断には、
「これは本物のスチームパンクか?」
「はい、本物のスチームパンクです」
「では教えてくれ。本物のスチームパンクとはなにか」
 と海原に問われたくないという僕の逃げの姿勢が如実に現れている。

 

 この姿勢は『部分的に~』と言った全てにも当てはまる。

 

「これは本物のハイファンタジーか?」
「いえ、部分的になので本物とは言い切れません」
「そうか」*3


 他方、『スチーム「パンク」』という点を鑑みれば、既成の枠組みにはめる必要はあるのか、というのもある。*4

 既成の枠組みに囚われない、というひとつのパンク観は、蒸奇の登場人物が概ね(作品世界の帝都で)主流でないのに影響しているだろう。*5

 蒸奇都市倶楽部の作品の多くの出来事は作中の国家「帝都」の枠内で起きている。しかし登場人物が帝都における主流派では、恐らくパンクを名乗れない。むしろいずれ帝都という枠をぶち壊すほどの衝動やうねりとなってこその、パンクという枠組みにおける主人公、導き手ではないだろうか。

 

 でもこれは結局のところ、理屈から語ろうとしているので、定義を求めて語っている段階でパンクじゃなくね、とも思ってしまうし、第一そういったパンク観自体が、やっぱり他人の受け売りであって……、それを言い出すとジャンルにはめるのが好きでない人間がジャンルを語り、枠にはめようとしている時点で錯誤している。


 あれこれ話や内容に統一性がないのは、僕自身に複数の立場が混在しているうえに、あまつさえそれらふぁ同じところでものを考え、同じところで出力しているからだ。

 

 小説書くシワ読むシワ売るシワ

 

 どれも混然と一体化していて、しばしば僕にとって都合が良い立場でものを言い、考えているにすぎない。上で書いていることにもその都合のよさが活かされている。

 海原に問い詰められたくなくて、ジャンルを読んだ人に丸投げするのは書くシワであるし、部分的にジャンルを被せて宣伝するのは売るシワであるし、ジャンルの判断を自分以外のものに頼るのは書くシワ読むシワであるし、パンク観から作品を捉えようとするのは売るシワと読むシワであるし、“風”を付け加えたのは三者の利害の一致である。

 

 三シワの考えはしばしば衝突するが、そこから生ずる衝動は、はっきりと書き表すことができない。ただ、そこに生ずる思索は、結果として私を原稿に向かわせる力となっている。

 ここでの原稿とは何も小説の原稿だけを指すのではない。この記事だって原稿に書いているわけだし、本を読んでの感想だって原稿にしたためないと文章化できない。宣伝の文案も大事な原稿だ。おそらくはどのシワも書く行いによって矛先をずらすことで、まともにぶつかり合った衝動で砕けないようにしているのだろう。

 この衝動による大きな思索と、前にも書いた承認欲求という大きな欲望との対流によって、僕のサイクルが形作られているのかもしれない。

 

 ところで監修のシワとしては、ゆくゆくは都市倶楽部が出す作品=「スチームパンク“風”」というジャンルになればよいと思っている。そこをちょっとでも固定化できれば、その他のジャンルは難しく考えなくてもいいだろうと。

 〇〇が書く作品→ジャンル:〇〇 みたいな。

 そうなればきっと簡単だと思い、奮闘している。

 僕は生来の面倒臭がりであるが、将来にわたって長くかかる面倒臭さを取り除けるためには、いまの面倒くささを押しのけて頑張ってもいいと思っている。

 

 

*1:後者は作者のわがままで押し通せてしまい、なんでもかんでもこじつけることができてしまう。

*2:こうやってあまり考えこみすぎないようにしているというのもある。精神衛生上。

*3:こんな返しを海原にすれば、「そうか」では済まされず、「では二度と名乗るな!」と怒鳴られるのではないか。

*4:そういう意味では語ること自体がナンセンスである。

*5:その方がお話を作りやすいという身も蓋もない話もあるが。