雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『カトル・セゾン』『カトル・クレール』

カトル・セゾン [pamplemousse #06]

カトル・クレール  [pamplemousse #06b]

蜜丸

pamplemousse(セゾン:2013年4月28日、クレール:2014年5月5日)

(カトル・セゾン収録)「チェリー・ナヴィゲーション」「サンフラワー・ハレイション」「コスモス・イミテイション「フリージア・センセーション」

(カトル・クレール収録)「セルリアン・ウィッシュ」「ヴィリジアン・プロミス」「ゴールデン・スウェア」「スカーレット・ドリーム」

 

(20170513公開)

『カトル・クレール』(以下クレール)は『カトル・セゾン』(以下セゾン)の続刊的な。ちょうど一年ほど前の5月『文学フリマ東京』で『クレール』を手に入れて、しばらく積読してしまっていた。今回『カトル・クレール』(以下クレール)を読むにあたって『セゾン』も再読した。
以前に読んだのは2013年12月らしいから、実に3年半ほどということになるが、そんなに期間を開けていたかと驚くほど内容を覚えていた。それだけ鮮烈な印象だったのだろう。

 

◆カトル・セゾン

【(1)四つの季節をめぐる連作。持つ者と持たざる者。そういうと勝敗や溝があるように感じられるが、そうではない。持たざる者には持たざる者なりの選択があって、今はそういう立ち位置にいるだけ。 『カトル・セゾン』
(2)当然ながら見方を変えれば、持たざる者もある点では持つ者と見えてくる。
持つ者だと思っている相手が持たざる者である自分と全く同じことを考えていたら。
「見方」をちょっと変えさせる描写がさりげなくも、巧みであると感じた。
(3)連作としてのつながりも、本筋から外れないようにとの作者の配慮がうかがえる。
また、各作扉絵に配された様々な小道具も、読んだ後に「なるほど」と感じさせてくれる。
派手さはないが、かえって作品に非常によい安定性を与えている。】

※【】内当時(2013年12月16日)の感想ツイート。()内数字は転載にあたって追加。

『セゾン』を再読して、諦めや喪失は必ずしも放棄や消失ではなくて、バージョンアップとか relief (軽減)なのかなとの感を新たにいだいた。つまり次に跳躍するための気力の充電期間というか息抜きのための一服というか、五合目で休憩するみたいな、ね。
で、『クレール』はその一服が終わってから、みたいな。

自論ですが、読み直して再発見があるってのはよい作品の証拠だと思います。お前が褒めてなんになるって感じだけどさ。


◆カトル・クレール
転機を示す人々の夏。言動に地が見え隠れするけれど、それを誰にでもさらけ出せる人は少ない。いや、いないかもしれない。ときに気丈に、ときに柔軟に、ときに弱弱しく、人々の間を泳いでいく。あるいは泳いでいかないといけない。地を出せる相手の前でときどき息継ぎをしながら。
人物が真摯な作品を読むと襟を正される思いがする。
各作品に通底しているのは人物みんな芯が通っていることかなと。だから迷う。そして選ぶ。後悔しないように。折れてしまう前に。
わかりやすいのは「セルリアン・ウィッシュ」の三咲さんと「ゴールデン・スウェア」の西野さん。
この二人は似ている。目の前の事象に対しての誠実さがそう思わせるんだろう。仕事と元恋人、好きな男子学生、いずれのことも真面目に考えているから、あえて「選ばない」行動がとれるのだと。強さです。まばゆいです。(僕はいかにもな誠実な人物が好きです。)
選ばないだけならば、前作で作者が書いている「損なわれた」ままなんだけど、その選ばない理由が示される今作は作者が書いている「前進の意志」を前作より明確に感じ取ることができる。(こう考えたのはあとがきを補助線にしたからかもしれない。)

連作としての人物のつながりは『セゾン』より明確だけど、そこの好みは人によって分かれるかな(僕は『セゾン』ぐらいのもう少し曖昧な方が好みではあるが、その好みで感想は左右されないと思っている)。
扉絵は今回も主張しすぎず、いい塩梅に作品の小物が布置されていてお洒落だと思いました。

まあ一言でいうと好きだなこれ、と。

それとまったく個人的な好みなんで作品内容とは無関係だけど、『セゾン』より級数が大きくなっていた。『セゾン』→『クレール』で小さな級数の昭和の文庫本から、改版で大きな級数の平成の文庫本になったような感じ。
僕は昭和の文庫の小さな文字が好きなので少し悲しかったという、それだけの話で、こういうところは各サークルさんのやり方があるので、良い悪いではなくて好みの話ですね。ま、作品からすれば些末なことです。