雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『坊っちゃんのそれから』

(20170715公開)

坊っちゃんのそれから

芳川泰久河出書房新社(2016年)

 

一言でいうと「なんやねんこれ」と。

 

ネタバレ、辛口

作中最初の年を明治28年とする部分の牽強付会さが、ちいと読むのを不安にさせたけど、作者がわざわざ「作者は~」などと断りを述べているのだから、そこは敢えて呑むとしよう。呑む、呑んだけど、あんまり面白くなかったなあ。
実在の人物の交錯を織り交ぜていく手法はなんだか控えめすぎて、読み物としても山田風太郎の明治ものには遠く及ばぬと感じた。
本文中に引用してあるものは、本文中に引用元が書かれているけれど、末尾にも参考文献一覧としてほしかった。

以下、具体的な内容に触れつつ。

多田と堀田、その他の人物があいまみえるラストの場面は虚実の入り混じりがいい塩梅で好き。特にしずが荷風に触れている部分とかは、途中でのチヨとの会話がいい具合に引き出されてきて、成程そういう事かと膝を打った。だけどこの部分を除けば、つまり筋の大半は別に『坊っちゃん』の人物でなくてもよくね? と思った。

わざわざ主人公に「坊っちゃん」を持ってきているのに、「坊っちゃん」のように痛快に活躍するでもなく、通俗性を損なっておる。別に坊っちゃんが昔の若気の至りがあるまま暴れてほしいというわけのではない。ただ、あまりに社会にたわめられすぎていると感じた。

情報の出し方については、堀田が花駒を身請けしたあたりが特に混乱した。第一部のラストの書き方が(僕の読み方が浅かったのも多分にあるのだろうけれど)、てっきりあそこで見つけて身請けしたのがチヨ(=花駒=しず)だと思って読んでいて、そのあと堀田が幸徳の収監に際して当初の目的であるチヨのことを思い出す段(151p152p)に至って大いに混乱した。え? チヨ=花駒じゃないの? じゃあ「しず」って誰やねん? そう思って第一部のラストを読み返すと、どうやら花駒=マドンナらしい。……は? 堀田ってマドンナにそんなに思い入れあったっけ? しかしここまで来るとどうも他に当てはまらない。

まあそれは僕が早とちりして読んだせいだ、釈然としないけれど僕のせいにしておこう。作者の情報の出し方が弱すぎる気もするけれど、僕の読みも悪いんだろう、そこは納得しよう。
しかし堀田がチヨのこと忘れていたってのはどうなのよ。

福島での仕事を辞めて上京して、人との約束を蔑ろにしてまで探すほどの熱意を持っていた堀田がですよ? 新吉原でたまたま見かけた花駒の身請けに気を取られて忘れてたって、そらああた、あんまりじゃないですかい?
もうこの時点で「なんだこれ」と。

情報の出し方について他にも。
本文中をずいぶん歴史記述に割いていて、その間本筋は放置。
川上音二郎のくだりとか、この話で後に関わって来るでもなしになんで入れたのか。もう少し説明を簡素にして、読者が興味をもって調べられるようにほのめかしたほうがいい気がする。日比谷の焼き討ち事件の部分は、日露戦争の結果がどうなって、賠償問題に絡んでなんで焼き討ち事件が起きたのかは説明しなくても知ってるよ、と。こんな有名所は学校でも習う内容なんだからさ。なので背景の説明を減らして、焼き討ち等の描写を物語として割いてほしかったかなあと。

この歴史記述と上述した半端に損なわれた通俗性ゆえに、どちらともつかない作品になっていて、題材が面白さを損ねていた。

坊っちゃん』の主人公が旧幕で、山嵐会津

その出自を持つ後の二人の明治の生き様が一つの眼目だとしても、なまじそういった出自や背景をあまり強く感じさせない『坊っちゃん』を材にしているから、かえって今作のそういう眼目が弱まっているのではないだろうかと思った。
主人公二人は(まあ『坊っちゃん』から10年近い後なのもあるけど)妙に分別がついた大人になっていて、結局はそれで無鉄砲さという強みが大分そがれてしまっている。
作中で一番無鉄砲だったのは、焼き討ち事件で刀の前に飛び出したスリだったね。

坊っちゃん』を踏み台に明治を描くとしても、もう少しバランスがあるのでは。