雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『グロリア・リリィの庭』

グロリア・リリィの庭

世津路章/こんぽた。(2015 [2版])

※【R-15】表記

 

光さす庭に雨が降り そこには薔薇ではなく百合が咲く

あらすじ読んだとき、「これあのアニメに着想の一つがあるのかな」と感じた。あとがき読むと大きく外れていなかったみたい。(作中ガラスの庭園があの温室にしか思えなくなってしまったよ。)

さて本題(思いつくままの感想に本題も何もないが)。

(20170806公開)

 

 

強いられる王子様

王子様は役割だ。自分の人生においてスポットが当たっている一幕(=ある一時期、ある状況下)のおける役割、それを本項では王子様と呼んでいるのだと考えてもらっていい。ここでは王子様と主人公はほぼ同一化していると私は見ている。
ときにそうした状況下で、人はお姫様(困難の元凶)のために困難を解決したり、障害を乗り越えていく力を発揮したりするものだ。

人間生きていれば時々はそんなふうに王子様であることを求め/求められして、演じる一幕があろう。もちろんずっと王子様でいられる人はいない。出ずっぱりで演じていても疲れるだけだし、そもそも本人もあくまで一幕のつもりで演じただけだし、なにより人生でもそうスポットが当たり続けるような役回りばかりよりは、裏方や楽な役割なんかに戻りたいわね。いずれにせよ、自分で求めて自分で辞められるのならいい。
しかし人から求められ、自ら辞められない王子様も中にはいるのだ。あるいは王子様という役割から容易に抜けられなくなった状況においても、本人の意思に関係なく王子様を続けなければならなくなってしまった者もいる。
自らの意志で辞められない王子様は疲弊してしまうだけだ。けれどお姫様は我がままだ。(お姫様ももちろん役割。誰かに王子様としての役割を強いる元凶の一つである。しかしお姫様がいないと王子様は出現できないし、そもそもお話が始まらない。その点でお姫様は世界の根幹とも見なせる。)

そんな『強いられる王子様』に救いの手を。
その強いられた役割を一時的にでも脱ぎ捨てられる心安らぐ庭を提供したい。
本作『グロリア・リリィの庭』のこの着眼点は素晴らしいなと感じた。(余談。少女革命アニメOPの二番冒頭の歌詞を思い出した)

王子様はその役割ゆえに、困難や障害への衝突を義務付けられている。この点は強いられる王子様も同じだ。だが望んでなっているわけではない強いられる王子様に、困難や障害を乗り越えられるだろうか? 失敗した時に、挫けずにまた挑めるだろうか?
(成功するか潰れるまで、お姫様に挑まされ続けるだろうけど)
空気が生む拒否できない選択(実質の強制)が、強いられる王子様を生み出している。
お姫様という、世界そのものともいえる存在が、強いられる王子様を望んでいるかのように生み落としている。

疲れてくたびれた強いられる王子様には、地をさらけだせる庭が、甘えられる場が必要だ。全てを許容して心安らぐ庭を提供してくれる者が。庭にある揺籃を揺すってあやしてくれる者が。

ただ、同時にそれは、心安らぐ庭を提供する者に、その役割を強いてしまう構造になっている。それは強いられる王子様を求める状況の劣化コピー、よくて縮小再生産でしかない。庭を提供する者にとっての心安らぐ庭がなければ、行き詰まってしまう世界だ。(もちろんそれはコピー元である、強いられる王子様を求める世界の行き詰まりも示唆している。)
提供する者が望んでいるとはいえ、それは本人の望みなのか、強いられることが当たり前になった状況下(自分の本心すら欺いてしまっている中)での望みなのかはわからない。
いずれにせよ行き詰まりを打開するには、彼女にこそ王子様が、強いられていない王子様が必要だった。

行動が主人公を生む

ところで王子様は、物語開始時の砂奈の鏡像でもある。
王子様にもお姫様にもなれないと考える彼女は、それを望み求められる世界を嫌い、またそれを嫌っている自分をさらけ出すことで、世界から否定されるのを恐れて猫をかぶるようになった。同調圧力や、自分の意志や意見の表明に対する非難、そこから巻き起こる集団内での人との衝突を避けていた。
困難や障害にぶつかってもなお乗り越えようとする王子様(への求め)からの回避である。(本筋からそれるが、物語の王子様は『強いられた王子様』である。彼らはその物語の構造上、物語という世界から王子様であることを強いられているのだから。)

彼女はあくまで世界を避けていただけで、世界に並び立つように超然とした態度はとり切れていない。もしこの世界を本当に嫌い、本当に他人に合わせて皮を被っているだけならば、自分一人でいる時に見つけた《グロリア・リリィ》を撮影しやしない。彼女しか発見しておらず、付き合いのある者の目もなかったのだから、見なかったことにできたはずだ。他人の醜聞や秘密、いや、そもそも他人に興味を持つこと自体、彼女が嫌う世界に存在する俗事なのだから。

しかし彼女は撮影してしまう。撮影という「行動(アクション)」を起こす。
自分から行動を起こす。
それは王子様のいる世界がある舞台への階段に足をかける行為だ。加えて好奇心もまた人を舞台に上げてしまう要素の一つである。また好奇心は王子様としての役割にもつながる。(でないと眠っている姫に興味なんて持たないし、0時になって帰った子の靴のサイズに合う子を捜そうとはしない)

王子様の鏡像にあった彼女が、行動を起こしたことにより反転して主人公および王子様になる資格を与えられた、と私は読んでいる。
隠し撮りは彼女が(意識していないとはいえ)選択した結果で、その後の撮影は意識的に彼女が選んでいるが、いずれも強いられたものではない。つまり彼女は強いられてなったわけではない。ゆえに庭を提供する者の行き詰まりを打開する役割の一つを担ったのだろう(他に「行動」を起こした者もいるように読めるので、「役割の一つを担う」にとどめておく。橋本さん好き)。

最初に「王子様であることを求め/求められして」と書いたが、誰しもが自分の意志だけで王子様になるわけでも、なれるわけではない。むしろ人生で王子様になるきっかけというのは、己の意志とは無関係な状況下で掴んでしまうものの方が多いのかもしれない。人生の一歩先は誰にもわからないから、歩んでいたらある時突然に舞台袖を出て中央に立ってしまっていた、という事態もあろう。
実際になるかならないかは、その時になるまで誰にもわからない。それは、人は誰でも誰かの王子様になる可能性を持っているとも言い換えられよう。王子様を嫌っていようが、世界を嫌っていようが。

二人は庭を出たけれど

主人公は行為と、自分の心情を吐露するという最大の行動でもって、《グロリア・リリィ》に働きかけ(行動し)た。
それは《グロリア・リリィ》にも行動を引き起こさせるきっかけとなり、私たちだけの庭を創ると言わせた。
きっとその庭は、誰にでも提供するものではなく、私たちで創り、私とあなたと管理していく庭なのだろう、と思う。そこに示されているのは、相補性を持つ強いられない王子様(手を取り合い障害を越えて行ける可能性)の道ではないだろうか。

人は誰かにとっての王子様であるというのならば、あなたの王子様にとっての王子様が、あなたでないとは言いきれないのだから。(文章にすると分かりづらいな。双方が相手を王子様と見ている状態だね)

彼女たちが行動して変われたとしても、依然として世界という大枠は変わらない(むろん彼女たちも、そこまで大仰な世界の変革を望んではいない。そもそも世界に期待などしていない)。だからこそ、自分が認識している世界を、自分自身の変革によって変え、庭を創っていかないといけないのだろう。
まあ、雛の羽毛が生え変わって空を飛べるようになったようなものだ。
現在では鳥は神に向かってではなく、信頼できる相手に向かって飛ぶ。

 

放置された王子様

さて、《グロリア・リリィ》に甘えていた強いられる王子様についてだが、彼らは放置されてしまった。しかし彼らは彼らでまた別の《グロリア・リリィ》を産み、そのまま続いていくのでは、という気がしている。
もっとも先にも書いた通り、強いられる王子様を求め、生み続ける世界はやがて行き詰まりを見せるだろう。(《グロリア・リリィ》が消えたその時点で、すでに行き詰ったかもしれない。)
その打開策らしきものも、同様に先に書いたつもりであるが、それはもはや物語の枠外であるので多くは言うまい。

主人公とは

そうそう、私は砂奈をあえて主人公と書いてきた。これもすでに書いたが、行動を起こすという点で彼女を主役だと読んだからだ。
というのもあるし、メインの視点人物に選ばれた時点で物語の主人公にならざるを得ないね、という点も込めたつもりである。これは皮肉とか、感想や読み方以前の話で、小説の構造の上でそうなってしまうよねという話で、なんでそんなことを持ち出しているのかというと、あのアニメはそういう部分に対するクエスチョンも投げかけていたのかな、と僕が考えているからで、つい触れたくなっただけである。
物語の主役を強いられている、という話は本作とは無関係なのでここで打ち切る。