雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『嘘つきの再会は夜の檻で』

嘘つきの再会は夜の檻で

土佐岡マキ/眠る樹海堂(2017)

 

紡ぎ合う、という言葉がぴったりくるような、そんな作品。

(20170819公開)

 

 主人公たちを取り巻く家庭環境は悲惨というか、現在社会的なあれなのだけれども、そこ自体に強く焦点を当てていない点に好感が持てた。
でもそれって主人公たちの心の動きややり取りに焦点を当てるなら当然だよなぁ、と納得もした。

 

 主人公たちにとってその環境はすでに一つの現実で、そこにいだく感情はどうあれ受け入れざるを得ないものだ。当事者がそれを悲惨だと客観的に認識したところで現実は変わらない。いや、むしろそれを表に出し、口にすることで、折れたり打ちのめされたり、見たくない現実を突きつけられたり自分で突き立てたりして、現在の危うい中で成立している均衡さえ崩してしまいかねない。だから当事者たる彼と彼女は、受け入れつつも、ある点では都合のいい受け入れ方をしてしまう(せざるを得ない)。
自分が壊れないために、というのもあるが、なにより取り巻く世界を壊さないために。それは彼と彼女が辛うじて甘受している現実の破壊であり、より苛酷な事実との対面を導くものだから、意識的にせよ無意識的にせよ避けるべきなのである。
(余談:最初から自分だけで世界を壊せる人間は、そうなるとっくの前にその現実から出て行ってしまっているだろう。少なくとも主人公二人はそうでなかった。また別に、環境の中でさらに追いつめられて世界を壊す選択を取らざるを得なくなることもある。彼は彼女と計画を立ち上げる前、その状態に限りなく近くなっていた。彼女もあるきっかけでそうなり、壊してしまった。)

 

 悲惨だとか可哀そうだとか、そういうのは外部的な感傷の伴う視点(ここでいえば僕=読者)にすぎないわけで、作者はそれを作中でことさら推さない。それが好感を持てた点だ。だって作中で「この子たちは可哀そうなんですよ」とされたら、ねえ? それは何か違わない、となる気がする、色々。
(余談:読者と距離の近い現代ものは特にそうであろう。そういう意味では、僕のような読者にとっても『その環境はすでに一つの現実』として、そういう子がいると認知し、かつ『そこにいだく感情はどうあれ受け入れ』てしまっているのである。それは社会への無関心あるいは彼我の相対化の上に成り立っている。だから悲惨などと外部的な、商品を見るような感傷を抱けてしまうわけである。)
 作者もそれをおそらく了知しているから、そこを主人公相互間(という形)での説明だけにとどめて、勝手な相対化や感傷については読者に外注を図ったものと思われる。


 彼と彼女は基本的に自分のことでいっぱいなので、猫をかぶり何でもないふうに日々を送っている。そうした二人が出会い、多少の相対化(上で書いた相対化は読者僕と作中人物の比較。ここでは彼ら二人の境遇の比較)がなされ、関係はゆっくりと進展していく。
 僕はそれをもどかしいとも感じたが、二人の境遇を思えば当初から積極な進展を望んでもいないのだとわかった。積極な進展は今ある世界を崩しかねず、ひいては二人の平穏な基礎も壊しかねない。彼女にとっては息抜きやガス抜きに近いものだったのだろう。しかしそれは確実な歩み寄りでもあったし、(彼女たちはおそらく無自覚であるが)新しい世界の構築でもあった。

 

 事件自体は半ば衝動的ではあるけれども、そこに至る二人の心の動きは対照的だ。彼は世界を壊すために殺しを思い付き、彼女は世界を維持するために殺しを頼む(彼に上乗せさせるのは割とあくどいなと思う。が、それは彼の未来だけに重荷を背負わせないように、自らも共犯者としてこれからに責を持とうとする、彼女なりの勇気の介添えだったのかもしれない。そう考えるのは穿ちすぎか)。
 彼が彼女に家族で過ごせるようにと誘導したのは、彼女を殺しから遠ざけようとする彼なりの優しさの現れであろう。だからこそ、彼は起こってしまった惨事についてあのような形で責を負おうとしたと考えられる。最悪の中での最良を、彼女のために考え抜いて。
 これまで布置されてきた二人の関係の集約と現在(の時間軸)への開放が、この一点で見事に結実しているように感じた。勘が良いなら途中まで読めば真相自体は可能性として読めるのだが、そんな予想をさて置いて巧みだと感じるのはやはり描写あってのものだろう。


 感傷の外注が成し遂げられているからこそ、話し、触れ合い、どう変えていくか、という作品の主旨に記述を割け、その関係性の穏やかなる推移が描かれている。僕が紡ぎ合うと書いた理由もそこにある。これは八年後の二人についても同じことが言えるだろう。

 

 296P最後の二行。これを読んだ私は非常に胸のすく思いがした。いつからかはわからないけれど、それが大事なのだと思う。同情とか、憐れみとか、そういうものではなく。だからこそ、彼が非常時に取った行為に際する後悔と想う気持との板挟みが浮かび上がってくるのではないかと。
 僕は彼のその言葉をはっきりと聞きたかったのだ。むしろそれがいつ来るのか、と思いながら後半を読んでいた気さえしてくる。

 

 卵焼きの味付けには気づいたけれど、髪の長さもなるほどそうかと。こういう細かい積み重ねの回収は良い。
 本筋とまったく関係ないんだけれども、透夏も人名としてはハルカと読め(名づけられ)なくもないなと思った。