雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『ベルリン1919』『ベルリン1933』『ベルリン1945』

ベルリン1919

ベルリン1933

ベルリン1945

クラウス・コルドン、酒寄進一(訳)/理論社(※)

※邦訳刊行年は『~1919』2006年、『~1933』2001年、『~1945』2007年

 

 三部作、原著刊行順(邦訳刊行順ではない)に書いていく。
 総合的に読んで良かったと思える本だった。三部作いずれも読みやすくページ数はさして気にならない。分厚さの割にはすらすら読める。
 人物は入り乱れるが、視点は主人公からは外れないので、それもあって読みやすいのだろう。
 アングアダルト向け(10代向け)に書かれた作品のようであるが、けして青少年向けというわけではなく、むしろ他の世代にも読まれるほうがいいだろう。

 

 以下、内容については作品の性質上ナチスに触れざるを得ないので、そういうのが嫌いな人は読まないように。

ベルリン1919

ベルリン1919

 
ベルリン1933

ベルリン1933

 
ベルリン1945

ベルリン1945

(20180101公開)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベルリン1919


 原題の訳は『赤い水兵あるいは忘れられた冬』(Die rotten Matrosen oder Ein vergessener Winter)。
 非常に面白く、600p超あるが読みやすい。

 内容は1918年ドイツ革命から1919年スパルタクス団蜂起失敗まで。

 

 革命の理想は潰えその目標は矮小化される。目標のずれがある。
 どちらの数が多いか。
 戦争によりもたらされる困窮。
 現況を脱するためには闘わなければならない。
 どこまで?
 ただ飢えが解消されればいい(パンが欲しい)人。
 最大の勝利(理想)を得るためには死も辞さない人。
 後者が宗教じみてくるのはもっともなことであろう(殉死した者は素晴らしいとなりがち)。
 前者は現実的であるが、現実は妥協の連続であり、その隙に悪意が入り込まない保障はない。共通の敵がいるうちは何とでも組めるが、敵を倒した後はいつも仲たがいをする。
 前者は止まり、後者はさらに突き進む。
 やがて非難をしあう。

ベルリン1933

 原題の訳は『壁を背にして』(Mit dem Ruecken zuer Wand)。

 出版の関係で第一部の『ベルリン1919』より先に邦訳、刊行されている。邦訳の刊行は『ベルリン1933』(2001)→『ベルリン1919』(2006)で5年と結構な年数が空いていたようである。

 作中は1932年11月から1933年2月末ごろ。ヒトラーが首相に選ばれ、国会議事堂放火事件で取り締まりが厳しくなるまで。

 

 進展のない政治と団結しない政党と長引く不況と排外主義。
 パンが欲しい人々と政治的な正しさに拘泥して結束できぬ人々。
 伝統かと思われるほどの左翼の党派間の正当性に対する争い。

 労働者が事務職を労働者のように見ていないのは、教育格差が今より大きい時代的なものかな。今では事務職も掃いて捨てられるような労働者の側だよね。

 政治に絶対的な正義などないと思う。強いてそれに近いものがあるとするのならば、どれだけ多くの人を満足させられるかだろう(多数派を満足させられるか、ではない)。

 

 ナチスに投票した人もいたという事実を忘れてはいけない。ナチスに投票した者を無能な大衆、あるいは自分のことしか考えていない小金持ちと切り捨てるのでは、また同じような存在を自分たちで選んでしまう愚を犯しかねない。
 ナチスそのものを攻撃するのではなく、ナチスに投票する者を諦めずに説得すべきであった。作中で言えば、一家は妹をこそ説得すべきであったろう。
「妹の恋人が入党しただと? ナチの恋人なんぞうちの娘じゃない! 勝手にしろ!」ではダメだろう。
 分かり合えないで放置した結果とも読めてしまう流れであった。同じ思想の方向性を持つ集まりで非難しても変わりなどはしない。あるいは現実では、説得の試みも捗々しくなく、食い違ったままに突き進んだのがその後の歴史であったのかもしれない。
 痛い目を見なければわからない面というのは確実にあるだろう。
 歴史から学ぶとして、その最初の回に当たったとでもいうのか。

 ひるがえってナチスに投票した者は、第二次世界大戦後もその事実を隠すべきではなかった。しかし現実は苛酷だし、今度は自分たちが支持者として迫害される番になってしまった。フランスにおけるコラボラシオンと同様に。

 勝利者の態度が指弾ではいけなかった。これがますますずる賢い人間をのさばらせてしまったのだから。真の勝利者は寛容でなければならぬ。人にそれを期待するのは難しい。
 結局は1945年を境に攻守が逆転しただけである。
 それは人間の弱さの露呈でしかなかった。

ベルリン1945

 原題の訳は『はじめての春』(Der erste Fruehling)。
 三部作完結。
 内容は45年2月から6月ごろまで。空襲、ベルリン市街戦、敗戦、占領。

 

 私の体験、彼の体験、彼女の体験は他人にはわからない。

 ましてやその体験から得た考えなどはなおさらだ。それを隠して自分を出しても理解には程遠い。だから個人が表明していき、理解への第一歩とするしかない。
 無理解や心無い言葉は、他人を知らないから言えることであるし、自らを無謬と信じているから言える。独裁者が他人を批判できるのは、彼らが己は無謬であると過信しているからである。

 ナチスを支持した人を批判してもどうにもなるまい。
 その批判の行き着く先はナチスの支持者の抹殺か、ナチス支配下においてその支配に抵抗して殺された者だけがいい奴だったということになりかねない。『ベルリン1919』の感想でも書いたように、そのような殉死が尊ばれる環境がすでに悲惨なのである。

 しかるに自分にとってどんなに受け入れられないイデオロギーや信条を持つ人の中にも、個人的にいい奴というのはいくらでもいる。ナチスを支持しているからと言って、共産党を支持しているからと言って、根っからの排外的な人間でもあるまいし、それは国や人種という属性にも同様のことが言えよう。そこの識別が曖昧になると、思想信条だけで人を分類してしまい排外的になるのである。

 強い思想や集団や指導者に惹かれるのは己の弱さを自覚しているからであろうし、それを何かにつけて強化したいと望んでいるからであろう。
 人の、個人の弱さが問題だ。

総括

 敵を非難しても同じことが繰り返されるだけだ。
 人は自分で経験しないと同じことを繰り返す。
 口さがなく言ってしまえば、バカや流される者をどうするかという問題に行き当たる。自発的に学び、変わって行く方法を、前途を得られる環境が必要である。
 が、そうして考えた結果としてナチス的存在に投票する者もやはり出てくるだろう。良心に従ったところで賛否は絶対に生じるからだ。ましてや良心だけに従えぬのが人間であるから、ますます賛否は割れよう。それは選択の自由を認めている以上はやむを得ぬことである。
 その場合の責任は最悪戦争で、もっといえば(最大の責任は)敗戦で取ることになろう。しかし勝利で終わる可能性もある。
 結局のところ、政治家と、それを支える人間がどこまで現実を見ているかだ。
 その政治家を投票前に吟味するのが投票となる。
 人間は良心の他に損得勘定も持っている。この政治家ならば勝てると多数が考えたのならば、やはり人間はそちらに投票するのではないか?

 対話や政治を信じるのならば、相手の支持者の立場にもなって考えてみるがいい。
 しばしば思う。差別する者は相手を否定するだけでいいが、差別に反対する者はそういう(差別する)存在を頭ごなしに拒否してはならず、むしろ包むのが理想的なあり方では、と。そこを違えると断絶しか生じない。
 そして相手を集団やグループで見るのもよくない。

 政治的な目を通して集団を見れば反感的になるのは当然であろう。

 よくヒトラーの再来とかヒトラーのようだと他人を非難する人がいるが、真に警戒すべきはそうした存在を選ぶ、選ばざるをえない状況に陥ったという事実である。こうした状況が来ることを迎えないようにすべきである。「それ」が出て来た時にはもう手遅れや破滅まで秒読みなのだから。
 そして更に気をつけねばならないのは、ヒトラーを選ばないことではなく(無論選ばないのも重要であるが)、ヒトラーを指名したヒンデンブルクやパーペン、シュライヒャーのような人をこそ中枢や政治家に選ばないことである。ああした権利の欲得に絡め取られた人を見極めるのが大切であって、その権利の体現者である政治家の言葉を鵜呑みにしてはならない。