雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『女性を捏造した男たち ヴィクトリア時代の性差の科学』

女性を捏造した男たち ヴィクトリア時代の性差の科学

シンシア・イーグル・ラセット、上野直子(訳) /工作舎(1994)

 

「女性に天才などいない。女性の天才は男性なのだ」――ゴンクール
 今の時代からするとすごい言葉だなこれ。

女性を捏造した男たち―ヴィクトリア時代の性差の科学

女性を捏造した男たち―ヴィクトリア時代の性差の科学

 

 (20180101公開)

 

「正しい」がいかに難しいか。
 社会に立脚している以上、その影響を被るのもやむなし。
 当時はおよそ正しかった(正しく見える?)という結果は、社会と科学の共同作業のようなものであろう。科学が進んで社会が変わりもするし、社会が変わって科学(者)に影響を与えもする。科学は強いが現実も強いのである。
 育った文化から超然としていられる人間などそうそういない。
 もっとも記述を修正できるのが科学のいい点でもある。ただすぐに修正、ともいかない。長い時間と試行錯誤を経て徐々により正しそうな記述に修正されていくものである。

 一方で科学の記述を改めても、それがただちに社会に敷衍するというわけでもない。信念や思い込みや、あるいは当時の常識的な知識のままで更新されない大勢の普通の人がいるわけである。(現代においても家庭医療や育児なんかでお年寄りと若い母親世代の間にギャップがあったりね。一方でお年寄りの知恵が科学的にも誤っていなかったりすることもあるわけで。)

 昔は正しいとされていたことが今は正しいとはされない。
 学びというのは何も新しい事物を知る行為に限らない。
 大事なのは知識の更新作業。
 科学は一足飛びには進まないものであるし、ましてや一日で現実を塗り替えるようなこともない。

 自然の大いなる法則には、当然ながら人間の文化(またその文化から生まれた環境)も含まれているという考え。科学への万能感というか信頼感の行き過ぎた結果でもあるし、前時代からの反動のようなものでもある。
 そして現代もまだその影はあちこちに見えているのである。

 

 これもヴィクトリア時代もの。類書的なものは以下。

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