雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『None But Rain』

None But Rain
サークル:モラトリアムシェルタ
作者:咲折
A5判:64P:500円
2017年8月27日発行

(※)表紙は全て大文字の『NONE BUT RAIN』表記であるが、奥付やWebカタログの『None But Rain』表記に従った。

(20180109公開)

ネタバレ

 

 

 人の状態は干渉するかしないかだという。その最大の干渉である父を消したことで、『ぼくら、ふたりで、生きられるね』と、彼らは世界に産声をあげた。
 しかし「ふたりで生きられる」は「ふたり“だけ”で生きられる」ではない。ひとたび世に生を受けてしまえば、世界と没交渉ではいられないからだ。生きるということは、たとえ一過性の交わりであっても、世界に自然と広がりを持っていくことでもある。すなわち彼らの産声は、否が応でも世界に干渉を持つ(持たざるを得ない)との宣言でもあった。
 そうして世界に干渉し、やがて組織に属し、そのためにますます世界との干渉を持たざるをえなくなる(逃げ道のない人間が好まれるのは、影響力を行使――干渉しやすいからだろう)。
 諸々の干渉と影響の上で成り立つ人間にとって、変わらない関係などなく、その遷移も含めて成長と呼ぶのかもしれないが、彼らは成長を恐れている。欲にまみれた汚い大人を見て生きてきた二人にとって、成長とは自分たちもそういった大人になることとほとんど同じ意味を持っているからだ。
 成長と欲への拒否と恐れの中を歩んできた二人であるが、生きるには干渉せざる得ず、変わらぬように生きようとしても、大切なものが疎遠になる要因も作られていく。

 

《護衛人》のクロワは、悠希にとっては汚くない大人として描かれる。彼はクロワに安堵とともに『何か』を覚える。萎み、膨む悠希の感情はここではつまびらかにされない。『何か』をはっきり記さないのが巧みなところだと思う。
 感じているのは確かなのに、それに当てはめるべき言葉を持っていないのだ。そんな感情はそれまでの生でおそらく必要でなかったから、経験も学びもしなかったのだろう。むろん名前がないからといって、その感情が「ない」わけではない。『何か』は確かに存在している。
 やがて悠希には護られること(によるクロワの喪失)への恐れを覚える。護られる実感を得て、クロワに父性を見出したのではないだろうか(実父が二人を庇護しなかったのも大きいだろう)。悠弥に対しても、自分は護られているという意識はあったようだが、二人の立場は同等、かつ共依存的であったから、実感は希薄であったと思われる。
護られるこわさを語るのは、クロワへの信頼を語ることでもある。
 そんな悠希の変化を目の当たりにして悠弥は嫉妬を覚える。大人なら悠希の《護衛人》になれたかもしれないと考えるが、仮に彼が《護衛人》に割り振られていたとしても、クロワほどに悠希に護られる『こわさ』を実感させられなかったろう。それは先に書いたように父性(安堵を与える庇護)との関連から生ずる問題であって、護る、護られるという役の問題ではないからだ。
 ここに共に生きてきたふたりの微かなすれ違い、関係の変化が生じる。

 

 嫉妬は独占欲であり、承認欲や支配欲とも密接であり、要するに主人公が汚い大人とみなす人々が持つ、性愛と結びつく要素に他ならない。干渉が嫉妬を生み、嫉妬が拒んできた成長を希求させる。
 自分だけが悠希を守りたい(=自分にしか守れない)、求められたい。こうして『ふたりで生きて』いきたいという願いに、手垢にまみれた欲のラベルが貼り付けられた。
欲情が先に爆ぜて、遅れて嫌悪がついてくる。曖昧だった想いは精錬されて、大人の汚さを自覚してしまった。ふたりの純粋な相補が崩れた瞬間でもある。
 これまでの悠弥は、悠希を抱く汚い大人を排除するその裏で、自らが覆い隠していた嫉妬も一緒に相殺していたのであろう。しかし悠希を護るクロワにはそうした方法が使えない。彼は汚い欲を直視せざるを得なくなる。

 

 二人が血の鎖の名前を捨てないのは、形式的とはいえ二人のつながりを示す身分証明証だからだ。その名の背後には忌むべき父の姿もあるのだが、『ふたりで生きていく』ため背負った十字架のようなものかもしれない。

 

 クロワの内面は描写されないが、わずかな場面から悠希には悠弥が必要であると認識していたと読める。悠希→クロワ→悠弥→悠希、と微かなずれが発生していたのではないかと思う。作中で悠希は『なんてメビウスだ』と言うが、むしろペンローズの階段である。

 

 正しい生き方。
 正しい愛し方、愛され方。
 正しいあり方を求めてもがき苦しむ。
 誰もが正しさに悩んでいる。人は自分なりに正しいと思う方法でしか生きられない(冒頭の二人の会話がそれを端的に示していよう)。
 また、作中で民主主義について悠希が問われる場面がある。彼は国民が愚かならば滅ぶと答える。これも正しさとは自分なりのものでしかない、との示唆だと僕は読んだ。
愚かな国民とて、選択に際しては、自らが正しいと信じた最善の選択をしたに違いない。
 正しい(と思われるもの)と賢愚は必ずしも一致しない。未来や結末など誰にもわからない。決断や選択にあたって、人は自分が正しいと信じられるものに未来を託すしかないのだ。

 

 生きる欲。生欲。性欲。そうしたものは、二人にとっては正しいと信じるに値しないものだった。
 街に降る雨はけして綺麗ではないだろうが、汚れを灌ぐにはそれで十分だ。この街(国?)や、それを動かす大人たちはもっと汚いのだから。
 もっと早くに雨が降っていれば、彼らが汚いとみなした欲も少しは洗い清められて、素直に受け止め、捧げあって生きていけたのかもしれない。
 雨上がりに何が残るのか、私はそれを思惟しないでおく。

 

外形的なこと

 作品を求めた際「いつもと毛色が違うかもしれませんが」といった旨のお言葉とともにお渡しされた。
 それが念頭にあったので、読んでいるさなかの印象(肌触り)としては【モラトリアムシェルタ】さんのいつもの(良い意味で)毛色だな、と感じていた。しかし読後、作品について考えてみると、確かにちょっと違うかもしれない(僕が感じたのは毛色ともまた違うのであるが、それは後述する)、とも思えてきたので書き記す。

 

 作品の可読性や印象を大きく占めるのは文章(文体)であるが、そこに関しては上述したように、精緻さは損なわれていない。無駄のそぎ落とされた文章であらわされる登場人物の心情の吐露が、読む身にすっと入りこんでくる。
 読んでいる我が身も温めたバターナイフで斬られるような心地である。この斬られた身に伝わる熱感に私は嵌っているわけであるが、それがこれまでと毛色が変わらないとの印象を与えたのであろう。

 

「毛色が違うかも」と述べられたのは、そうした文章や雰囲気の部分ではないのだろう(と僕は思う)。その意図について確認は取っていないが、これは私の感想なので、そこは斟酌せず私が読んで感じたままに書いている。

 

 実際のところ、僕は毛色が違うというよりも、テーマに濃淡がついたのだなと感じた。(濃淡、色のつけ具合が違うという点では確かに毛色が違うといえるのかもしれないが、他愛ない言葉遊びである。)
 今回テーマ(と僕が受け取ったもの)は主人公二人の内面でほぼ完結している。内への思索性が強まり、成長(による変化)への拒否という面が前に押し出されたように思う。
 一方で過去作に見られたような彼らを包む世界との相克、もっと言えば、過去作で見られた主人公を内包する大きな(物語)世界の行く末は、ほとんど脱色されて後景に退いている(それらしい設定はあるが、主人公にほぼ関与しない)。
 基本的な部分は踏襲しつつも、色のつけ具合が異なっている点を勘案するに、作品のテーマにメリハリ――精錬や取捨選択と言い換えてもいい――をつけたのだと僕は見ている。今作の主人公たちを描くにあたって必要な成分を適切に抽出したのだろう。
 その濃淡のつけ方は円熟とも呼んでもいいだろう。

 

 少なくとも僕は【モラトリアムシェルタ】らしさは変わっていないと感じた。「らしさ」が何かについては以前に書いた文章のアドレスをはっておく。

ks2384ai.hatenablog.jp