雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『魔女の煌めき屋』

魔女の煌めき屋

黒井ここあ/ちょこれいつ(2017)

 

(20180120公開)

ネタバレ

 

 小説というよりは説話といった印象を受けた。

 

 自らに長所などないと自認する若者フェオドットにとって、精霊の子の失われた力を取り戻す道中での数々は試練であるが、彼はそれらを乗り越えていく。といっても特殊な力をもって活躍するわけではなく、優しさと知恵で乗り越えていくのだ。
 魔女は彼に最初は〈きらきら〉がなかったと言うが、僕はむしろ〈きらきら〉は青年の中に元々植わっていたものだと思う。それが道中での経験を糧に彼の中でより強く芽吹き、息づいたのではないだろうか。

 

 フェオドットがすぐに妖精ルドゥーシュカを視認できなかったが、それは彼が大人であると示しているのだろう。二人の少年少女(ソフィとエイノ)がすぐに小さいルーを視認しているのとは対照的だ。(もっともソフィは前々から店を訪れて面識があったようなので、ここではエイノに限定したほうがよいかもしれない。)エイノは作中で大人の入り口だと言われている12歳だ。大人の入り口――完全な大人ではなく、かといって子供でもない。その境目に立つエイノ(彼は不承不承ながらも、自分は子供だと認めている)が、妖精をすぐ視認しえたのは、やはり子供の面が色濃いという表れであろう。

 

 いくつかの危難を乗り越えてフェオドットがたどり着いた終点は、彼にとっての始点と同じ地であった。もっとも同じ地でありながらも、境目を経由したがために常昼と常闇という逆の相に位置しており、あたかもメビウスの輪をたどったかのような構造となっている。
 この終点――常昼のさなかで炎の精霊は復活するわけだが、それは来たるべき冬への備えである。というのも、夏至を超えた太陽は衰えはじめるからだ。長くなっていく一方の夜に備えてランプに火を入れる、そのための炎の精霊の復活であろう。〈コッコ〉(夏至のかがり火)には、活力を増した炎の精霊の活力を分けてもらう側面もあると思われる。
 長くなる夜が反転するのが〈ヨウル〉(冬至祭)――太陽が生まれ変わる日――である。

 

 夏至祭と冬至祭は炎の精霊と太陽の盛衰に呼応しており、天の運行、季節の移り変わりは毎年繰り返される。こうした繰り返しの下で暮らす人々もまた同じように泣き笑いを繰り返してきたのだろう。
 もっとも人のほうは行為や本質が同じと言っても、同じ人物が同じ行為を続けているわけではない。一人一人がその年、その季、その時に悩み、恋し、患い、躊躇うものだ。くじけそうになる時もあるだろう。長い夜に感応してしまえば、苦しみや不安が強まりもする。
 そういう時に人は魔女のランプを求めるのだろう。胸に秘めた〈きらきら〉を対価にランプを手にし、暗い夜のような感情に向き合うために。
〈きらきら〉は対価であるが、それは魔女に渡されて費消されるものではない。魔女の前で〈きらきら〉を示すのは、ランプを得たい当人が「自分はなぜランプを手にしたいのか」を、改めて問い直し、自認、自覚するための儀式であろうから。(むろん私がそう読み解いたに過ぎない。)

 

 というふうに考えれば、訪問当初のフェオドットになぜ〈きらきら〉がなかったのかも見えてくる。
 彼はランプを手にするのが目的で、それを得て何をしたいのかという自覚が希薄だったのだ(長所がないと言う自信のなさが、そうした傾向に拍車をかけていたと思われる)。終盤、彼は無事に弟との約束を果たす。その際に物語として自らの道中譚を口にしはじめる。最初に書いたように、道中で彼は自らの中に植わっていた〈きらきら〉を芽生えさせ、かつそれが何かを自覚して、ランプ(正確には灯り)を手にする資格を得たからだ。
 物語として、困難の自発的な解消には主人公の自覚が不可欠である。至点をめぐる旅によって、青年は自覚によって一皮むけたのだ。

 

 エイノは学校を飛び級で卒業するほど聡明であるが、『先生』に『自分の言葉でしか本を読めていない』と指摘されるなど頭でっかちな面もあり、爛漫で感情豊かなソフィとは対照的に描かれている。しかし彼はソフィと同じく〈きらきら〉を持っている。つまりフェオドットとは異なり、自分が何のためにランプを手にしたいのかを、物語の登場時点から自覚しているわけだ。
 一方のソフィは疑いを知らないような娘だ。物事をまっすぐに捉え、物語の立ち位置としてはおそらくもっとも素直に〈きらきら〉を感受して、もたさられる夢と希望を胸に秘めている。そうした彼女でさえもランプを求めるのだから、恋の不安の計り知れなさがうかがわれよう。

 

 恋の不安と書いて、ふと、〈きらきら〉を胸に秘めた人物はこの三人ばかりではなく、ルドゥーシュカもそうではないか、と思った。終盤でフェオドットに向けられた好意が明らかになるが、これも〈きらきら〉に属するのではないだろうか。この〈きらきら〉は夏至での再生によって強く表れたものであろうが、その芽生えはやはり道中(もっといえば解放した時点)に求めてよいだろう。
 炎の精霊はその〈きらきら〉を胸にランプに炎を吹き込むのだろう。

 

〈きらきら〉は魔女に対する消費物ではなく、己に対する消費物だ。成長とともに世間擦れして〈きらきら〉を消費して失い、忘れる人も少なくな井と思われる。
 エイノとソフィがそうして〈きらきら〉を失わない将来を願うばかりだ。