『ヘヴンリーブルー』
ヘヴンリーブルー
サークル:モラトリアムシェルタ
作者:咲折
A5判:36P:300円
2018年1月21日発行
最初に総括。
読後の力強い爽やかさよ。全体的に優しさも感じられるのは、未来への明るい志向が示されているからであろう。
蒼の画布に描かれる煌めきの演舞。演舞を飾る者の行く末の飛行船。
絶対的な蒼。自由への焦がれ。
憧れの空に身を置き、限界と自身が抱える現実を知って地上へ還っていく。
以下、例によって書き連ね。
(20181112公開)
子供は特有の万能感を持っているという。
風を遣うこどもだった水晴にとって、万能感は普通のこどもよりも強かったと思われる。力を持たないおとなの社会機構に組み込まれる拒否感の強さもそこに由来しているのだろう。
そんなおとな(俗的な存在と言い換えてもいいかもしれない)への変化に不安や戸惑いを覚えつつも、そこへ“着地”しなければならないという揺るがせない現実があり……、というのが焦点。
おとなになるのは単に年を取ることではなく、成長を受け入れつつ、引き換えに「なにか」を手放すことも意味している。それは成長した身にとっては当たり前なのかもしれないが、むろんこどもが素直に受け入れられるものではない。水晴の場合、手放せない「なにか」はこども――もっと言えば、空の上での自由に手が届く寸前で奪われた悔しさだ。
年を取って外見的におとなになっても、当時の悔しさを手放せない彼は、飛行機というおとなの檻でいまも空を飛びながら、自由になれなかったというこどもの檻にも囚われている。
檻とは言うが、その格子は彼が引いた「限界」という線引きでもある。
悠惟という絶対的な存在の出現によって、水晴は空で自由を手にする機会をついぞ失った。しかし自由が手に入らないという状況を決定的にしたのは、(酷な言い方であるが)悔しさを盾に自らに諦めを課し、一生徒として没した水晴自身だ。彼が抱えている悔しさの矛先は、悠惟ではなく、諦めた己に向けられている。自分は悔いが残らないにやりきらなかった。本当の限界に達する前に、自分で限界の線を引いて諦めてしまった。そこに気付いたからこそ、彼は悠惟の首を絞めるのを止めたのだろう。
一方でこの檻は彼を、空という、悠惟以上に絶対的な存在からも守っていたとも思われる。
というのも、蒼い「空」を含めた天こそ、夾雑物や自己流が入らない絶対孤高の機構に他ならないからだ。全て物理という法則に従って繰り返される現象。ゆえに蒼天は混じり物の一切を濾過するというよりは拒絶する。
地上で人が作り上げた機構は、この究極の空を真似て生み出されたのかもしれない。叩いても壊れない安定したものと成るべく。だとすれば、地上での機構に馴染めない水晴は、たとえ自由に空を舞ったとしても、やがて鬱屈に苛まれすり潰されていただろう。そういう点では、死に臨もうとした悠惟は、空で自由を手にした水晴のその後の鏡像と読める。
そんな不安定さを抱えるからこそ、彼らは「人間」――物理に従う肉体を持ちながらも、揺れる感情を摩滅せず内包する存在――なのである。
悔しさを、死ぬことを、手放して生きていくことを受け入れたその時、初めて彼らは成長し、「大人」へなれる一歩を踏み出していく。
そこにいささかの親しみを感じるのは、私も子供特有の万能感を手放した経験があるからかもしれない。
以下【モラトリアムシェルタ】さんのこれまでの作品との比較。
あまり比べすぎるのもよくないので、簡潔に記す。
今の延長にある現実を受け入れるか、あるいは拒絶するか。
拒絶するにあたっては自身を殺すか、内包する世界を壊すか、二通りの方法がある。
これまでの作品では、強大な力で世界が壊れたり、あるいは世界が壊れるほどに力を発揮できる環境が最初にあった。そのうえで世界から嵌められる枷や檻を、主人公たちは猛然と拒否し、先を考え見据えた上で生きていくこと、生きていることを力強く宣していた。時にそれがこれまでの世界を壊し、命を手放すことであったとしても。
一方、本作では力は自然と消失し、世界に強く働きかける機会は訪れない。
世界には働きかけない。そこが本作の要である。
むろん今作でも生きていくことを肯定している。しかしそこにこれまでのような圧倒的な力はなく、むしろ受け入れるために幾ばくかのものを本人の意に反さざるを得ない形で手放している。
本作『ヘヴンリーブルー』では幾ばくかの枷を、肯定的に認めて受け入れ、成長する。そこがこれまでの作品との違う点と言えよう。
文章的なところ。
ルビがあるものの、基本的に横文字としてカナを使っていない。
細かいところであるが、(おそらく)和風な作品世界を引き立てていたと思う。