『ブルー・エコー』
ブルー・エコー
サークル:フレエドム
著者:葵あお
イラスト:千鳥スズヤ
2016年10月23日発行
自由と責任と所有。
自由(わたしを所有する権利)にはそれを背負う責任がある。一方でものを所有する権利にも相応の責任が生ずる。(もっともこの世界における亜人の所有者は、所有物が生じさせた責任をそっくりそのまま亜人に押し付けてしまいそうな人が多いように読める)。
わたしを所有する権利者と所有されるものとの違いは、檻の圧倒的なサイズ比にある。
自由にも限界はあるだろうが、わたしを所有する権利者は、その檻の格子に触れないで生を全うする者が多い。一方で所有されるものは檻にすぐにぶち当たってしまう。あるいは最初から檻の全体が目に見えている。
逆に言えば、檻の存在に気付かなければ(自らの置かれた環境に疑義を呈さなければ)、わたしを所有する者も所有されるものも十分な生を全うしていけるのではなかろうか。
変わりたいと願う第一歩は「与えられた環境」「生得的な環境」という檻に疑問を抱くかどうかだ。
少女が得た自由は、見方を変えれば「与えられた自由」だ。勝ち取ったものではない。しかしそんな補助輪付きの自由といえども、彼女にとってはとても大きな一歩には違いない。
ところで自由ゆえに生じた責任を自身で背負いきれない時もままあるだろう。
だから人は広い範囲においては社会を作り責任を分担し合うし、狭い範囲(個人同士の場合など)においては相互に背負い合う――具体的には関係を深めたり――する。恋人や夫婦というのは責任を分担し合う一つの形態だろう。
だが絆は絆(ほだ)しともいう。関係の深化といえば言葉はいいが、見る角度を変えれば、いくらかの己の自由を引き換え、あるいは時間を融通しあうことだ。
相手の心の一部を、自分という存在で占めて所有してしまうわけである。
真の自由とは一切に干渉せずされず、ただそこに超然とある存在であるのかもしれない。が、それはまた別の話。
もう少し錯雑した世界像を具体的に(作中の「情報」ではなく、「描写」という形で)つかみたいなと思った。そこを読者が補完するには、あまりに広大すぎるように感じられたので。