雑考閑記

雑考閑記

雑な考えを閑な時に記す

『The magic nightmare』

The magic nightmare ~reunion
The magic nightmare ~GENOCIDE~

ひざのうらはやお(※)

ともにA6判(文庫)
reunion:1300円/2014年5月5日
GENOCIDE:1200円/2014年11月24日

 

「The magic nightmare 〜reunion〜」ごうがふかいなHD@第8回 Text-Revolutions - Plag!

「The magic nightmare 〜GENOCIDE〜」ごうがふかいなHD@第8回 Text-Revolutions - Plag!

(直近2019年3月21日開催イベントのWebカタログより)

(※)各初出の出品サークルは「そりゃたいへんだ」であるが、奥付の「制作・編集」に「ひざのうらはやお」とあるためこちらを記す。

 

ネタバレ


例によって読書感想の体をとった自分語りみたいなの。
噛み砕けていないので結論もない。落ち度について冗々と。

 

 自分の認識は自分という枠を飛び越せない。
 そういう一人称の当たり前を強く認識させてくれる作品であった。またその当たり前ゆえに、必ずしも読者の認識と主人公の認識も共有されない。ひいては読者としては全貌がはっきりと見えないもどかしさを覚えてしまうわけであるが、ここには「一人称の視点人物」と「読者」の近いようでいて、その実なんの関係もない両者の視点の距離感が如実に示されている。

 主人公として真中という人物が据えられているが、あくまで彼は「読者に一部の思考と視点を貸与する人物」でしかない(僕はそう解釈した)。だから真中が認識し、悟った出来事のすべてが読者に開陳されるわけではない。全貌がはっきり見えないのもおそらくはそのためであると思われる。

 

 分かりやすく言うと、いくつかの謎にすっきりする解答が明示されない。
 なぜ真中が怪異と縁があるのか、なぜ幼馴染は封印状態に置かれたのか、結局のところ幼馴染と真中は世界に何をしたのか、呪いとは。
 感情面で読者に委ねる曖昧さは好きであるが、作品面(≒設定面)での読者に委ねる曖昧さが苦手な僕としては面食らった。放り投げっぱなしというわけではない。ヒントや手がかりは示されているからだ。僕としてはそれをもとに解釈を推し進めていくしかないが、それはいまは置く。
 もどかしさこそが私の本来的な感想であるので、いまはそちらを解析したく記している。

 

 実のところ僕はこのもどかしさの正体を知っている。一人称の小説で僕はよくこの類のもどかしさに遭遇するからだ。それは冒頭に書いた「一人称の視点人物」と「読者」の視点の距離感に由来している。

 真中と読者の距離は最初は近い。彼の視点は作品世界と僕をつなぐ接点として提供され、機能している。

 彼には不思議な能力めいたものがあるが、それでも感性は思考は普通の人として描かれている。謎や怪異にいくらかの戸惑いを覚えつつも、幼馴染を救うために動き、ほとんど声だけの存在となった彼女と夢の中で邂逅し、謎を解き、それでもまだ取り戻せない。一方で大学生活はそれなりに普通に送っている。
 こうした生活における彼の感情は地の文で分かりやすく描かれ、錯綜する状況に翻弄される登場人物としても理解しやすい。加えて最初の内は、怪異の謎についても解答が示されていたからすっきりして次へ進めたわけだ。

 

 ところがその分かりやすかった距離は上巻『~reunion~』の終盤から乖離していき、下巻『~GENOCIDE~』でほぼ分断されて、それがために「読者に一部の思考と視点を貸与する人物」としての存在感を放ってくる。僕としては彼が貸与した視点を通じて話を追うだけになってくる。共有から貸与へ。伴走していたと思ったらいつの間にか大きく引き離されていた感覚である。
 ただ、終盤の彼も似た状況ではあった。事態が容赦なく進行する中で、真中はその状況を後から認識して、そこに辛うじてこうなっているだろうと推測を付け、進行する事態を追いかけるので精一杯であるように読めた。
「なんでもかんでも遅いんだよ」というセリフが彼の状態を端的に示しているようであるが、彼の視点を貸与されている僕はそれよりもさらに遅いわけである。

 

 結果を言うと、真中は事態に追いついている。が、それは事態が先にゴール(そこから先がない場所)に着いていて、真中がそれに遅れてゴールしたような状態で、お話はそこで終わる。僕はまだ追いついていない。
 おそらく私は読者として、真中が貸与したものを理解しようと努めなければならなかったはずであるが、引き離されたから後ろから見てるか、となってラストまでそのまま時間切れを起こしたわけである。

 

 作品に甘えていたともいえる。
 本作で言えば「作品にはすっきり解答が示されるだろうし、主人公がわかりやすく解決してくれるだろう」と結末に勝手に期待して、ページを閉じるまでに小説の機序として追いつけるだろうと思っていた。「作中の人物」と「読者」は離れていても、物語の結末には一定の納得がもたらされるだろう、と。
 が、この話は一人称だ。(別に三人称の小説も「追いつける機序」が担保されているわけではないのだが。)「読者に一部の思考と視点を貸与する人物」でしかなく、「作中の人物」と「読者」にはその実なんの関係もない。
 ページを閉じても追いつけなかった。

 視点人物の認識との距離も、物語の事態との距離もそのまま残された。

 要するにこれは、(あくまで設定面における)物語は大団円にせよ悲劇にせよすっきりした終わりを迎えるもの、という傲慢な期待を抱いていた私が、その反射ダメージを食らったという話でしかないのだろう。(その根底には僕の読解力不足も大いに関係ある。ただ、ここでそれに触れると言い訳がすさまじくなるので割愛。)
 そこに作品としての落ち度はない。

 最初に書いたように、ただただ私の落ち度についての話である。


 そしてまったく関係ないけれど、六本木舞って響きは一本木蛮に似てるよね。