雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『V ~requiem~』

V ~requiem~

ひざのうらはやお

ごうがふかいなHD

平成29(2017)年4月1日
A6判(文庫)、1000円

 

※下のリンクは3月21日(木祝)開催の文芸同人誌即売会のWebカタログ。

plag.me

 

 推論でしか成り立たない僕の話。

 

ネタバレ

 

 

 復讐とは執着である。
 その執着が何に基づいているかは様々であるが、本作では概ね「愛」でくくれるのではないかと読んだ。失ったものへの愛。奪われた愛。こうしたものが復讐の根っこにあるような気がして。
 ただ注意しなければならないのは、復讐の成就はイコールで愛のまっとうではないという点だ。復讐はあくまで残された者、奪われた当事者が、喪失に伴う種々の感情や空隙を埋める代償行為であると私は考える。
 そういう意味では、復讐は(あくまで生きている者からの)手向けであって、本人の意向を踏まえぬ葬式のようなものともいえるかもしれない。(むろん復讐の中には愛する者が、「絶対にあいつを倒してくれ(復讐してくれ)」と望んだ形もあるだろうけれど、本作ではそうしたケースがないためここでは捨て置く。)

 復讐=愛のまっとうではないとしても、復讐は残された者が示せる愛の一つであり、手向けでもある。
 むろん、復讐を手段ととらえている範囲においては、であるが。

 

 で、僕の読み方。 

 

 奪われた者たちが復讐という形で愛を示そうとする本作であるが、どれだけの者がそれをなしえただろうか。できなかった人、できた人を印象に残っている人物を順に挙げていく。(本作には名前を持つキャラクターが多く登場するが、最期が分かっている者と出番の多かった者を挙げる。)

 

 コギソ。
 奪われたものは大佐で、復讐はヒト(の社会)に対してであろう。
 彼女が自ら大佐を殺めたのは、彼を止められなかったことに対する反応にすぎない。自発的ではあるけれど、直接の引き金をひいたのは大佐自身だ。彼女は大佐を止められないことが決定的になった時点で、すでに愛した者がヒトの社会に奪われていることに気づき、復讐を決意したわけだ。ドラゴンという絶対的な脅威がありながら、なおも主導権を争うヒトの社会が大佐を暴走に走らせたと考えて。

 であればこそ、大佐をゆがませた社会への復讐を決意し、その前に、愛する大佐がこれ以上の愚行を重ねぬよう自らの手で大佐を止めたのであろう。愛を貫くために。そこには彼を止められなかった己への悔いもあったはずだが、そうした苦味も含めて、愛するもの(愛したもの)を殺すというのが、彼女の愛の示し方でもあったのだろう。
 そうして、復讐は成就しなかった。いや、そもそも手がける前に絶たれた。

 

 ミツキ。
 彼女のそれはわかりやすい。奪われたものはセリナで、復讐はハルカに対して。
(理由は作中に書かれていないが、推測するに)セリナを慕っている彼女からすれば、ハルカがセリナを切り捨てたように見えたのだろう。結局は慕っていたセリナ自身によって討ち果たされるが、想いの矛先が交錯した末の最期である。
 ただ、ドラゴンになった彼女がハルカを襲ったのは、もとの復讐心に基づいたものであったのか、単にドラゴンの思考として目の前にいる生物に襲いかかっただけなのかは不明だ。描写から推測するに、僕は前者だと判断した。

 想いの交錯という点ではハルカ、セリナ、ミツキの三人はいずれもすれ違っていて、行きつく先は三様ながらも哀しい終わりを迎えている。(他二人は後述。)

 

 エレナ。
 彼女が奪われたものは(作中から拾う限り)おそらく故郷であり、対象は『罪竜』こと『零式』。
 彼女のそれはすっかり殺意に塗り固めれてしまっているが、それだけ対象に長く執着していたものと考えられる。これは復讐の純化ともいえる現象かもしれないが、無駄な敵愾心と脆さを抱えさせもした。
 そんな彼女であるが、ドラゴンと化したオリガを自らの手で討伐しききなかった後、矜持と殺意が和らぎ、感情を素直に出せるようになった描写があるため、いくらか昇華されたと取れる。もっとも最後に登場するシーンでは心情描写がなく、生死も不明であるので、どう落ち着いたのかまではわからない。(その少し前にセリナと共謀して住民の避難を指示したと語られるが、こうした判断は復讐や執着の有無と関係なく両立するので、これをもって彼女の心情が変化したと読むのは厳しいものがある。)

 

 道半ばだと私が判断したのはざっとこの3人だろうか。

 復讐に愛を絡め取られながらも、なお復讐を遂げたのはハルカである。

 ただし彼の『零式』討伐も、あくまで復讐という点においてのみ成しえただけであって、アヤノに面と向き合い、想いを示せる形であったとは思われない。良い仲にあったアヤノの幻影に呪いを吐かれ、痛罵にうなされていた彼の最期は満足げなものではあったが、それは「アヤノの肉体をまとったのだから、呪いや報いによって死ぬのはその通りだよね」という部分においての満足でしかないと感じた。あるいは彼女の肉体で復讐を遂げ、そして死ねるという喜びもあったかもしれない。
 それでも彼は満足して逝けた。最初に書いたように「復讐の成就はイコールで愛のまっとうではない」し、復讐自体が残された者による残された者のための行為でしかないからだ。それを成し遂げ、彼なりに愛を示せたのだから、大いに満足であろう。

(余談であるが、アヤノの「ハルカさんもそうなのでしょう?」の「も」が気になる。彼以外にも彼女の身体になりたい者がいたのだろうか。)

 
 復讐に囚われた愛だと思うものを並べてきたが、復讐に関係なく愛を貫いた者もいる。私はオリガとセリナを挙げておく。あるいはコギソもこちらの分類であるかもしれない。

 

 オリガは愛するエレナのためにその身を縛る条件を突破し、かつその愛をまっとうしたことが描かれている。ドラゴンとはなったが、これはゾンビのようなものなので、復讐云々とは関係がないと見ていいだろう。

  そうしたオリガの印象的な姿はセリナの視点を通じて描きだされている。彼女たちに共通性があるからだ。が、セリナはオリガのようにはまっとうできずに終わってしまう。一時的には同じようなことができかけていたものの、最後はハルカがセリナに想いをまっとうさせなかった。彼の想いがアヤノに、復讐に囚われすぎていたがゆえに、セリナはほとんど顧みられなかった。その扱いは可哀そうになるぐらいだ。

 セリナは「このような形ですべてが終わりつつあるのは、自分の責任なのかもしれない」と述懐するが、仮に彼女がもっと積極的にハルカに想いをぶつけても、それを彼が受け止めて心を開いたとは私には思えない。ハルカがアヤノの身体になった時点で、もしくは彼女がハルカの後を追うように戦士となった時点で、すでにほとんど変わりない結末になっていた気がするのだ。
 しかしどのような結末であろうとも、セリナがセリナである以上、彼女はハルカの後を追い続けるだろう。それこそ自身が言うように「執着」しているから。

 だからこそ、報われなくても彼の隣に居つづけ、彼が死に、また自らも死のうとしている瞬間においても、なお居つづけようとしている。
 セリナは愛をまっとうこそできなかったものの、最後まで貫いた。


 コギソについてはすでに述べた。

 自ら大佐を手にかけたのは、愛を貫くためであろうと。

 本作の一番好きな部分はコギソのこの決断である。あの行為が愛そのものに思えたからだ。部隊を潰したのも、人類を滅ぼすと決めたのも、大佐へのそれと同じで、好きだからこそ醜くなってほしくないと願う愛の一面であろうというのがセリフからもうかがえた。方向性は誤っているのかもしれないが、我が子に手をかける母性愛のようなものさえ感じる。
 だからこそ、完遂できず、それどころかドラゴンと化した彼女を、志半ばで愛を示しきれなかったと僕は判断したわけであるが。


 復讐という手段、あるいは目的を抱えるという前提そのものが、愛のまっとうを難しくさせているのかもしれない。復讐とは愛の喪失があって初めて成り立つものだからだ。残された者は喪った愛を憎しみという杖に変換し、辛うじて両足で立っているにすぎない。復讐の成就こそが自らの愛を示す唯一の方法であると鼓舞し、その成就の果てを考えず、考える余力も持たぬよう打ち込む。それだけの熱量を持てるのは、失った愛がそれだけ深かった証といえる。愛が浅ければ復讐など考えず、次の愛に切り替えればいいだけなのだから。

 そうして復讐が積みあがっていく。


話が循環しそうなのでここで終わり。