雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『おもちくんメソッド』

おもちくんメソッド

ひざのうらはやお

ごうがふかいなホールディングス、平成31(2019)年3月21日

新書判、60ページ、頒価500円

 

 正式な書名は『おもちくんメソッド~創作同人活動に行き詰まったひとのための、明日を生き抜くためのヒント~』だと思われる。表紙や中表紙には「同人編」の言葉もある(奥付にはない)。

 

 なんか読んで思ったこと。

 

 僕はメソッド本というか How to 本や自己啓発書というものには食指が動かない。書かれてある方法論や内容を実践するほどやる気にあふれた人間ではないからだ。こうした方法でもっとも大事なのは実際に取り掛かれるか、実践できるか、継続できるか否かであるが、僕は面倒くさがりなので実践しないし継続できる気もしないし、そもそも取り掛かる(習慣化する)のがすでに面倒なのである。なので手に取らない。それだけの理屈である。

 たとえば毎日3分でできるエクササイズとか、生活の合間に出来るトレーニングとか、そういうのがあるけれど、僕はその3分や生活の合間でさえ生活習慣を崩したくないほど物臭な性格なので。毎日の3分や生活の合間の行動を習慣づけるのがどれだけ大変か、ああいう人たちは物臭の性質を理解していないのではないかと思う。

 

 そんな私がなぜ本書を最後まで読んだのかは簡単な話だ(その前の「手に取った」のは軽い興味からである)。

「本書の目的」の項に本書の対象者が箇条書きで示されているが、現在の僕は見事にこの本の対象者ではない。最初にはっきり「お前のことは求めていないぞ(超絶意訳)」と書かれているので、自分が客層でないのなら、エクササイズやトレーニングを勧められても、「俺は違うからいいや」と気軽に読めると考えたわけだ。

 なので私は本書を俯瞰的にざっくり説明してしまえる立場にあるともいえるし、そもそも全くそんなものはないともいえる。

 

 いずれにせよこうした本は概括すると身も蓋もない内容になってしまう。
 出汁をたっぷり含んだ大根の煮物の出汁だけちゅうちゅう吸って、のこった大根の部分は捨てるみたいな、そんな味わい方になってしまう。なので私は中身については語らない。

 

 ただ一つだけ抜き出させてもらうのならば、する苦労しなくていい苦労の分別を、という部分にかかってくる。

 僕が知る限り、人間は何かを書いていて体力が回復することはない(少なくとも私の経験においては)。書くという行いは営みと同じで、続けていれば疲れるし、下手な運動よりへとへとになるものだ。
 それでも様々な方々が作品を書いているわけである。それはなぜか。

 小説であれ詩であれ、それ以外のなんであれ、およそ文章の連なりをものにする以上、書く行為は避けられぬ。あなたはその書く行為をどうとらえているか。楽しいから書いているのか、苦しいから書いているのか、書かねばならぬから書いているのか。そのいずれでもあるのか、いずれでもないのか。
 この問いかけ自体は個々の内面にかかる部分なので、正解などあろうはずもないのであるが、ともかく書くという、疲れる行いを人々は自発的に続けている。

 もしかしたらあなたは知らないかもしれないが、人間は書かなくても生きていける。書かないと生きていけない! という人もいるが、そうした人だって椅子に縛り付けて強制的に書けない状態にさせたところで「絶筆死」という状態には陥らない。人間の構造としてはそうなっている。呼吸をさせない、飯を食わせないという行いに比較すれば、筆を執らせないで死ぬやつはいない。あくまで生物としては。

 なのにいるんだな、書いていないと死んでしまうような人が。

 もっともそこまで極端でなくても、書かないことを命じられたら不安になったりする人もいるだろう。何かを自発的に書いている人は、おおよそ書くことが営み(習慣化みたいなもの)に組み込まれていて、疲れるにもかかわらず書かなければならない。または書かねばならぬ状態にあるという、強固すぎる自己暗示にかかっている。あるいは書けない状態にあっても書きたいと望んでいる。疲れるのが分かっているにもかかわらず、だ。

 書くのが疲れる行いである以上、それに付き合うことを大前提として、それ以外の疲れや苦労は可能な限り軽減しましょうと、本書はおそらくそういうことなのかもしれない。


 と、話がちょっと壮大になってしまったので、無難な落としどころにしておきます。書いている僕が疲れるので。

 さておき、非対象者の僕が読み取ったところ、このメソッドが真に問うているのは、軽減できる苦労や不得意をそぎ落としてなお、書くことの意義ではないかと思う。
 余分な苦労を排しての執筆とは、言い換えれば書くことによる心身の疲れの純化作業ともいえるわけで、書くことによってのみ生じた疲れは、書くという行いの結晶ともいえるし、それを追求していくことは、必然的に自分がなぜ書いているのかという意義を探る営みにもつながるからだ。