そいつを利用しろ
個人的に勝手に敬愛しているひざのうらはやお氏の記事を読んで、触発されるものがあったので雑に記す。
houhounoteiyudetaro.hatenablog.com
『存在しない読み手』『わかりやすさの磁力』という考えに触発されたので僕も自分のことをつらつらと書いてみる。
サークルの運営という視点と、書く側(書き手)の視点。そのどちらに立つかによって、こいつとの付き合いが少し変わってくる部分はあるだろうことは最初に挙げておきたい。
さりとて運営視点などといってもその方向性によりけりだし、結局はそいつの経営哲学みたいになってくる。僕自身の哲学をここで吐露する気も今はないから割愛する。
まあ、ここでは書く側として記す。
僕は『わかりやすさ』を一つの指標として、なるべく「わかりやすく書くこと」は目指している。僕の書きたいものが「通じる人」(氏のブログから引用すると『いま目の前にいる本当の読み手』)に届けるには、そもそも全体のパイを広げなければ、と思っているからだ。その手っ取り早さの中に『存在しない読み手』が潜んでいると氏は指摘する。
「存在しない読み手」は、わかりやすさを餌としている。理由は簡単だ、わかりやすくすればより多くのひとたちがその作品に手を伸ばすから。
「存在しない読み手」と「わかりやすさの磁力」について - ひざのうらはやおのメモ帳
僕自身についていえば、現状はそれなりにうまく付き合っていると思う。と書いていて、ふと思った。『わかりやすさ』のとらえ方が違うかもしれない、と。
ひざのうら氏は『わかりやすさの磁力』と呼んでいる。
磁力は同じ極を弾く。
つまり「わかりやすく書くこと」は、かえってその『わかりやすさの磁力』に反発を受けてしまうのではないかなとも思うわけだ。あまりに『わかりやすさ』に固執し迎合しすぎるといつか弾かれてしまうよ、と。
磁力は異なる極を引き寄せる。
これは磁力を振り切ろうとすればするほど『わかりやすさの磁力』にとらわれるのを意識して、かえって引き込まれてしまうのかな、と。
一方で僕は「わかりやすさ」を引力、わけても重力だととらえている。強大すぎて、そこに誰しも囚われてしまう、影響を受けてしまうものだと。
そもそも「書かれたもの」万有は、それが誰が書いたものであるにせよ大なり小なり引力を持っている。だから文章や文字列に惹(引)きつけられる人がいる。むろん個々の引力は小さいからそうならない人もいる。読者が多い「書かれたもの」は引力が強いのだろう。
その中にあって最も我々に力をおよぼしている「書かれたもの」の引力、すなわち個々の「書かれたもの」を圧倒的な強さで引っ張っている重力こそが「わかりやすさ」なのである。我々が記した「書かれたもの」はこの重力に囚われていて、その淵を周回したり落下させられたりしている。
だから「わかりやすく」書くことは、書く側としては、意識的にせよ無意識的にせよ、影響を被っている。*1
僕がこの力と現状はうまく付き合っている、と書いたのは、僕はこの重力を利用しようと狙っているからだ。「わかりやすさ」の重力を利用して、目的とする「通じる人」へ到達するための加速スイングバイでもしてみようかなと。
もっとも到達せんとする星が那辺にあるのかもわかっていないのが現状だ。これを見定めないでやみくも飛び出してもあさっての方向に飛んでいくだけなので、慎重になっている。慎重になりすぎているきらいもある。重力に沿うように落ちないぎりぎりの淵を周回しているだけかもしれない。それを僕は「今はまだうまく重力と付き合えている」と思っているけれど、楕円軌道を維持している現状は、人によっては重力に囚われているようにしか見えないだろう。「来年から本気出す」をずっと続けているかのごとき状態なのだから。
書き手のみなさんは、どうだろうか。ぼくと同じように「存在しない読み手」に追われてはいないだろうか。
「存在しない読み手」と「わかりやすさの磁力」について - ひざのうらはやおのメモ帳
到達せんとする星が那辺にあるのかもわかっていないのに、「通じる人」を目指しているこの状態がすでに『存在しない読み手』に捕まっている状況なんじゃないのか、とも思う。
第一そもそも僕が信じる「通じる人」が本当にいるのか、という問題に行き当たるわけだ。
第二に仮にいるとしても、それは果たして『存在しない読み手』の向こうにいるのか。
きっとたいていのひとたちは、そんなことなど考えること自体が無駄だと思っているだろう。だからこうしてぼくは書いている。
「存在しない読み手」と「わかりやすさの磁力」について - ひざのうらはやおのメモ帳
疑いだせばきりがない。しかしこのあたりの検討も逐次にやっていかなければならない。なのにすでに僕はあれこれと書いている身で、要するにこれまでもこれからも逐次的な判断で見切り発車をしたりよそ見をしたりで活動していくだろう。
いつもその時々の時点での精一杯に走っている。
もっとも飾り屋なので「いや、余裕ですよ」みたいな態度をしている。100m全力疾走で息切れしていても、まだ走れる素振りをしている。それをこんなところで披露すると台無しなんだけど、たぶん見抜かれているだろう。
「通じる人」に向けて僕が書いているものは何だろうか。
僕はそれを小説のようなものと思っているけれど、本当はそれですらないかもしれない。
少し話はそれるが、僕は文学フリマに出る資格がない。
文学フリマが云う『「自分が〈文学〉と信じるもの」が文学フリマでの〈文学〉の定義です。』(公式より引用)の〈文学〉が空白で、信じる信じない以前の問題だから。
本としての体裁、小説としての体裁は整えてはいるけれど、そこには何もない。
「この空白を探すのも〈文学〉じゃないの?」という屁理屈かまして素知らぬ顔をしているけれど、何かしらの『文学』観がある人にはすぐ見抜かれてしまう虚勢でしかない。現に恩師がそうであった。
「君はそれなりにものは書くし言葉もよく知っているけれど、頭でっかちだね」と。
おそらく経験の未熟さとかそういう部分もひっくるめての指摘だと思う。
私は〈文学〉足るものを信用せず、かつ見いだしてもいない。
だいたい「〈文学〉ってなんだ」とかそういう問いかけというか、定義が嫌いなんだもの俺。*2
そういう部分は放棄して、読んだ人に任せている。
「あなたがこの作品を小説だと思えば、なるほど小説なのだろう」と。
これはジャンルという領域についてもそうだ。僕は自分の作品のジャンルがよくわかっていないので、このあたりも丸投げ。
「これを読んであなたが思ったジャンルがこの作品のジャンルですよ」と。
だから「なんか書く人」でしかないんだよな、俺は。物書きごっこしているだけで。
というかそもそもの根本には承認欲求があって、それを満たす手段としてやっている側面も強いからさ。なので「これは書かねばならぬ!」といった使命感は薄い。
といって勿論ないわけではない。「書きたいもの」はその時々の作品に応じて確かにあるし、全力で込めてきている。けれどそれと同じかちょっと強いぐらいの承認欲求もあって、そこをうまく飴と鞭の使い分けで書いている。
一方で承認欲求が『存在しない読み手』に過度に媚びないやり方にもつながっていると自任している。僕のそれを端的に言うと『俺が思うものを曲げずに出して、それを受けてほしい』なので、『存在しない読み手』に媚びて自分を曲げることは、いまのところその可能性はない。『存在しない読み手』に対して「わかりやすく書く」のは、そいつに甘んじた妥協でしかないから。俺は俺の方法で「わかりやすく書くこと」を目指してるんだっていう部分はあるわけで、そこを曲げたら何のために書いてんだ、となるでしょう。
いずれにせよ、前提として「通じる人」に届けたいというのがある。そこは間違いない。そのためにはまずは母数が多くないといけない。そうでないと、届いてほしい層にも届かない確率が上がるから。それはまるで広大な宇宙にもう一つの地球があるのを探し求めるようなものかもしれない。
いまは虎視眈々と「わかりやすさ」の重力を利用しようと思っているわけだ。
てな具合にいつも通りに話が循環して終わる。これ自体が重力に囚われて周回してるぞっていう自虐的な話なんですかね。