雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『大大阪モダニズム遊覧』

大大阪モダニズム遊覧

橋爪紳也

芸術新聞社(2018年12月1日 初版第1版)

大大阪モダニズム遊覧

大大阪モダニズム遊覧

 

 君は大大阪時代を知っているか。
 いや、知らなくても問題ないんけれど。

 

 

 大大阪時代。

 それは現代の大阪における、東京への対抗意識の一つの源泉になった時代であると思っている。おそらく本来は上方と呼ばれていた時代にまでさかのぼれるのだろうけれども、それだと本来の「上」である京都も含んでしまう。純大阪的なニュアンスと近代という近さから、よりこちらの要因が大きいのではないだろうか。
 大阪都構想も制度的な在り方や理念なんかは別として、情念として少なからず影響しているのでは、と思うことがしばしばある。


 ま、そこは本論ではないので飛ばすし、大大阪時代の概要についても書いていて長くなったので後に記す。

 

 戦前昭和。世界でも10本の指に入る大都市となった大阪市は観光の振興を図り、国内からの観光客のみならず、外客(外国人観光客のほか、商談客なども含めていると思われる)の誘致を目標に各種の催しや御案内(ガイドブックやパンフレット)、果てには市の手によって『大大阪観光』という宣伝映画まで作られていた。
 これらのご案内は「大大阪とは何なのか。何がすごいのか。なぜ訪問した方がいいのか」といった前振りに始まり、具体的な見どころやこれらが持つ意義、土産、泊まるべき宿などの具体例までつぶさに挙げて、大大阪で見るべき点や大大阪でしか見れない点を縷々と説く。

 

 大大阪がいかに世界において最先端を走る都市であり、最先端の設備や娯楽を備えているかの力説っぷりが面白い。
 戦前に特有の文語調の文言は現代から見ると大仰ではあるものの、すかした感じはどこにもなく、その身振り手振りや熱の入れようが伝わってくるようでとても味がある。どこか格式ばったこういう書き方には惹かれる。僕はこういう戦前の新聞広告やパンフレットの文章が好きだ。

 

 大阪の土産物について「粟おこし」のほかにこれといったものはないが……的な書きぶりであるのも面白い。もっともそこで諦めずに、「名物や土産物は交通機関がなかった時代のもので、日本各地や世界から様々な商品が入ってくる今は土産の珍しさを求める時代ではない(要約)」と書いてもいる。名物に美味いものなしという言葉を別の角度から言い表している。

(余談:たまに土地の名産品を指して「これ〇〇のやつと同じだね」と無粋を働く者があるが、それは当たり前なのである。今のようにどこへでも行けてどこででも同じものが食べられる時代の産物ではないのだから。)

 また、各種の産業物や機械は大阪で作られているのだから、こうした Made in Osaka こそ現在の大阪土産である、と開き直ってしまっているのも面白い。ガイドブック、それもほぼ官製のものなので、とかく大阪の良さを推していく。


〈東洋のマンチェスター〉として世界有数の工業都市であった大阪において、見るべきものはその産業や工場群であると説く箇所もあり、これなんかは現代における産業施設の見学の先駆けといってもよいのではないだろうか。「水が黒いのも文明が発達しているからである」ともあり、クスッとしてしまった。
 発展がよい未来をもたらすと信じられていた時代は1960年代~70年代あたりのひとつの側面かと思っていたが、すでに1920年代にしてそういった考え方がなされていたのだ。

 

 いや、同じような考え方はそれに限らない。
 言い回しや言葉遣いこそ違うけれど、振興の方法や方策の大意が現在のそれと変わらないのだ。

「はじめに」にその部分が引用されているのでここに孫引きさせてもらう。

概して言えば「観光祭」は、観光に対する一般市民の理解を深め、「国際観光」を振興する機運を高めるべく企図されたキャンペーンであった。ただ実際の目的は、詳細かつ多岐にわたっていたようだ。『大大阪』の記事では、下記の七項目を列記している。
(1)日本精神及日本文化の宣揚による国威伸展
(2)観光外客に依る真の日本の正しき認識に基づく国際親善の増進
(3)観光経済による国際収支の改善
(4)風景愛護及邦土美化に依る日本の樹立
(5)観光設備の充実、観光サービスの向上並観光資源の開発
(6)国民保険及び智育情操の涵養に依る明朗日本の建設
(7)観光事業関係者の融合協力に依る挙国一致的観光立国の認識
(『大大阪モダニズム遊覧』本文2~3ページより引用)

 平たく言えば(1)(2)「日本文化や精神面もしっかり理解してもらいましょう」、(3)「お金を落としてもらいましょう」、(4)「地域の魅力を発見し、深めましょう」、(5)(6)(7)「海外の方をもてなしましょう」というところだろう。そのために各種機関の連携や、観光外客に触れる市井の人々、特に接客業の教育をしましょう、と。
 根の発想は現代の観光振興とほとんど変わっていない。要するにこれが肝なのだろう。
 また、観光立国という言葉がこの当時から使われていたのにも驚いた。

 当時の大阪は修学旅行の誘致にも力を入れている。これは当時の工業の発展ぶりから考えると妥当で、日本の最新鋭の技術や文化を「修学」するのにうってつけであったろう。
 繰り返される余談であるが、大阪万博が開催されるころには「修学旅行は大阪万博へ」といったキャンペーンが展開されるのでは、と僕は見ている。遊園地なんかで遊ぶよりはいいのではないだろうか。

 

 交通についても、足としての交通機関のほかに観光用のバスや船も当時からあったようだ。
 観光用のバスは東京の「はとバス」のような定期観光バスの走りといっていいかもしれない。これも修学旅行向けなどにしっかり宣伝している。当時の市電は慢性的な満員状態が続きで、阿鼻叫喚とまで評されるぐらいに混雑していたというのだから、バス会社はこう宣伝する。
「引率の先生にとっての頭痛の種は生徒に怪我をさせないということに尽きます。タクシーは無茶走りをするし市電は混雑や乗り換えで危険が伴う。そこで遊覧専門の当社バスにお任せください。ガイドもついていますし、大人数での移動なので総合的に安く早いですよ」と。
 わかりやすく、かつ先生の不安を救う宣伝の見事さよ。
 また、バスについて気になる記述を見つけた。

窓だけではなく、屋根にもガラスを設けた「展望式高級自動車」を導入した。パンフレットでは次のように紹介する。「外観は三都一のスマートな流線型です。破(わ)れない硝子天井、四方八方展望自在、(以下略)

 これはオープントップバス(屋根なしバス)の先駆けじゃないの、と思った。

 観光艇は今の水上バスよりも観光に特化していて、位置づけとしては天保山を発着するサンタマリア号が近いかもしれない。淀屋橋から天満橋を経由して安治川を下り、天保山と鶴町の沖を通り、木津川をさかのぼって川口から淀屋橋へという周遊経路。

 水都号と名付けられたこの観光艇は大盛況であったという。先述の観光バスとの連絡も図るなど、戦法にも隙がなかった。


 気になるところをつまみ食い的に書き散らしたが、その多岐にわたる内容を記述はどれも興味深いもので、「観光振興」という点においては時代が違っても、仕掛けるべき部分や整える部分は同じなのだなと感じた。これを代わり映えしない、発想が古いままと取るか、妙諦不変と取るか。

 


大大阪時代

 当たり前のように大大阪時代と書いていたが、たぶん大阪以外の人にはよくわからないと思うので、僕自身の後学もかねて記しておく。Wikipwdiaでも見た方が早い。
 大正の末ごろに周囲の郡部の編入東京市(当時)の人口を抜き、世界の都市人口においても6位*1 になったころを指す。
 要因としては市域の拡張による人口の増加(加増?)ところが大きいのだけれども、関東大震災による罹災や影響で関西に越してきた企業や文化人が多かったこと*2 が、大大阪時代への郷愁や「我が世の春」のイメージをより強めているように思う。

 実際のところ「これからは大阪の時代や!」的な勢いに乗っていたのも事実であろう。天下の台所、近世以来の経済の発展を引き継いだ大阪では商業はもちろんのこと、近代化による紡績業、鉄鋼業なども栄えた、当時の日本における最大の工業都市であった。
 張り巡らされた水路から水の都《水都》と呼ばれていた街であるが、工業の発展ぶりに水は黒く淀み、無数の煙突が煙を吐き出す様をして煙の都《煙都》と呼ばれるようにもなった。*3

 それに加え池上四郎と関一という敏腕名物市長の下、寄付による大阪城天守閣の再建*4 、御堂筋の拡幅*5 および地下鉄(御堂筋線)の建設なども相まって、発展が発展を呼ぶような波に乗っていた。この二人がいなければいまの大阪市はなかったのではなかろうか。

 もっとも人口においては昭和の頭に市域を拡大した「大」東京市に抜かれている。大正の末から昭和の頭まで、わずか7年ほどのことであった。
 経済も第一次世界大戦後の恐慌(戦後恐慌)や世界恐慌によって産業は大打撃を受け、さらには戦争による統制やら追い打ちをかけられ、度重なる空襲で大きな被害を被り、そのあと東京を抜くことはついにできずじまいであった。
 まこと「浪速のことも夢のまた夢」である。いまも何かと東京への対抗意識といった部分に焦点があてられるのは、浪速の人がまだ夢を追っているからかもしれない。

*1:ニューヨーク、ロンドン、パリ、シカゴ、ベルリン、大阪

*2:谷崎潤一郎とかね。

*3:この頃に作られた近代建築物のいくつかはいまも現役だったりする。

*4:今の建物。最古の鉄骨鉄筋コンクリート天守大阪城天守として最長の歴史を更新中。

*5:当時のメインストリートは堺筋心斎橋筋で、拡幅前の御堂筋は小さな通りにすぎなかった。拡幅に際して「飛行場でも作るのか」と揶揄された逸話なども残っている。