雑考閑記

雑考閑記

雑な考えを閑な時に記す

それは面白いのか

 いま蒸奇都市倶楽部が秋に出す予定の新刊の最終稿に入ったところである。その直前の段階で本文だけで約550ページ。印刷費を考えて20ページほど削る予定なので奮起している。

 

 頒価は諸要素を考慮して1500円になろうかという見込み。それについては決まり次第に公式の広報が発信するので、9月末ごろまで待っていただきたい。

ks2384ai.hatenablog.jp

 

 本題? 前々から僕が思っていた僕のことを書き記しておく。

 世の中には自分が面白いと思う作品を書いている方が大勢いらっしゃる。僕はそういう自分が面白いと思う作品を作れる人がとても羨ましい。身近にもそういう人がいて、その姿勢には憧れている。

 

 なぜそう思うのかは簡単で、 私は自分が書くものが面白いのかどうかがわかっていないからだ。もの(作品)を書くたびにつくづくそう思わされる。

 自分が面白いかもわからないものを書いて発表しているのか、と問われればまったくその通り。むしろ僕は面白いかどうかをはかってもらいたくて書いている部分がある。前に「承認欲求でものを書いている」と記したが、面白いと判断いただけたら僕の承認欲求は満たされる。

というかそもそもの根本には承認欲求があって、それを満たす手段としてやっている側面も強いからさ。なので「これは書かねばならぬ!」といった使命感は薄い。

そいつを利用しろ - 雑考閑記

 

 面白いのかどうか、叶うのならば面白いと褒められたくて書いているので、「僕が面白いかどうか」をあまり重視していないというのもある。元々そういう承認欲求が強かったから面白いかどうかわからなくなったのか、自分で面白いかどうかわからないから重視しなくなったのか、それはもうわからない。

 

 どちらにせよ、ものを書くにあたっての起点に、「これ面白いだろう!」「これ面白そうだから書きたい!」という着想はほとんどない。*1 必要に応じて必要なものを書いているという感覚が強い。

 蒸奇都市倶楽部で言えば、一行だけの設定や大きな結末が、ある程度の原案としてあるからそれを脚色して書いている。そうして書かれた作品への補強や設定の連結、語り足りていない部分を充足させる必要があるからさらに書く、とそうした連鎖でやっている。

 これはともすれば必然性や果(因果の「果」)、落としどころ(オチ)ありきで書くことにもなりかねず、途中の筋の運びが強引であったり、僕でないとわからないような理屈の運び方になって歪むという別種の問題を引き起こす可能性もはらんでいるが、ここでは置いておく。

 

 結局そうなっているのは、私の中に面白いの指標があまりないからだ。良いものを見て感心したりほれ込んだりはするけれど、それは面白いとはまた違う感覚だと思っている。

 というか、関西で育った人間だからか面白い=笑えるという先入観が強すぎるのだ。やから笑えへんとおもろいとは言えへんのちゃうか、となっている。

 笑いにはテンポの良さも大きく絡む。友人との会話ではよく笑うけれど、文章作品では笑わないのよね。そりゃそうだ。小説でテンポのいい笑いなんてほとんど見かけないのだから。漫画だと絵面で笑ったりはする。

 

 わかっている。読書で言う「面白い」は笑えるという意味よりも、質がいいとか続きが気になるとか、そういったわくわく感を包括した言葉であるというのは。

 なので僕は自分の作品が面白いのかはわからないけれど、展開や運びについては厳しく見て行きたい。自信をもって良い作品を送り出したいという思いは強く持っているので。

 

 しかし作品が(世間で言う)面白いかどうかや、展開がいいか悪いかについては、読む人が「買う/買わない」「読む/読まない」の選択を経た上で、その読者なりに感じるところであろう。

 結局のところ、ある作品が面白いのかどうかは読者がいだくものなのだ。作者が自作をどう思っているかなんぞは、実際のところ関係ないとも考えている。

 

 関係があるのは作者が作品に込めた思いよりも、むしろ頒布時の態度だろう。自作に自信を持つというのは、読者に手に取ってもらいやすくなるひとつの指標であると思う。込めた思いが強い(≒作者が面白いと思っている)とそれに応じて自信も増すだろうから、結果的に手に取られやすくなるだろう。作品を蔑ろにしているとそれが態度にも出て、あまり手に取られないと思っている。

 あなたがわざわざブースに足を運んで「これ面白いですか?」と問うた時、ブースの人間に「さぁ?」と首を傾げられるのと、「面白いですよ!」と笑顔で胸を張って答えてもらえるのとでは、どちらのサークルの本を手に入れたいかっちゅう問題よ。

 なので自信を持つというのは戦略的にとても大切だ。

  まあ、僕は先に見本で見繕ってから指名買いするので、作者の態度は気にしませんけれどね。

 

 翻って僕が作品を読むにあたっては、作者が作品に込めた思いとかは考慮しない。姿勢的にも作品と作者は切り分けるよう努めている。だから作者インタビューみたいなのは基本的に目に入らない。他人が同じ本を読んでどう思ったかはとても気になる。

 僕に言わせれば読書と感想はある種の自慰だ。他人の自慰も気になる。

 

 作者が干渉できるのは作品という成果物を通じてのみである。

 ただ、その成果物への感想は、自作が面白いかどうかわからない私にはとても大切な情報源になる。面白い、楽しかった、わくわくした、つまらない、という感想は第三者の指標で、今後もっと良い作品を送り出すにあたって大いに参考になるからだ。感想を反映させれば作品の方向性や方針も立てやすくなるというわけだ。多ければ多いほど中央値もとりやすい。それらを勘案したうえで僕が思う良いものを書いていけばよい。条件に応じて書くのは嫌いではない。

 

 身も蓋もなく書けば僕は感想を欲しているのだ。

 何も僕がこのブログでたまに書くような長文じみた具体的なものでなくてもいい。面白い、つまらなかった、そういう一言が今後の糧になっていく。

 そう考えるのは、

なので「これは書かねばならぬ!」といった使命感は薄い。

そいつを利用しろ - 雑考閑記

  という背景があるからだ。もとより使命感や自信があれば、感想をあまり気にせず書いていられるのではないだろうか。

 

 ところで今やっている改稿中の作品はほとんどプロットなしで勢いで積み上げていったものである。言いようによっては当時の俺が面白いと感じたものが詰め込まれているのかもしれない。まあ、実際には当時の思いつきが詰め込まれているわけであるが。

 これは蒸奇都市倶楽部の立ち上げ当時、連載を意識してみようという形でやっていた影響で、各回で話を区切る関係から、その場その場での盛り上げや情報のつめこみを重視して書いていたからである。なので展開は冗長で、全体としての山場がかなり遅いと、それはそれで課題が多い。通しのページ数が500を越えているのはそうしたやり方が多いに影響している。

 新しい作品でそんなものをママ晒すわけにはいかないので、それなりに手を入れている。大きな筋運びは変わらないものの、人物の行動や肉付け、解釈は増補、一部改変を施した。一方で当時の味として残している部分もある。そのため展開は遅いので人を選ぶかもしれない、とこっそり予防線を張っておくね。

 

 しかしいずれにせよ、「面白いかどうかはわからない、けれど良いものを届けたい」との思いでやっているのには変わりない。当時はただ書きあげるのが目的で、それすらなかったので。

  ん? それって当時は面白いと思って書いていたってことか? 覚えてないな。

 でもこれって僕の「面白い」のニュアンスがちょっと違うだけという話では。

 

  頒布時の僕に自信があるかどうか、まあ見ていてください。

 

 

*1:=アイディアや盛り込みたい要素がないというわけではない。