雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『我らの帝国へようこそ』

我らの帝国へようこそ

発行者:高野優

サークル:2月30日

発行:2018年1月21日

『我らの帝国へようこそ』は1910年代後半から20年代半ばの日本を舞台にした連作短編です。(まえがきより引用)

 下記は2019年9月8日(日)開催の『第七回文学フリマ大阪』のWebカタログ。

c.bunfree.net

 

 だいたい大正時代ぐらいが舞台。

 最初の「遥か昔からの花や木の根」は当時の法で認められていなかった掻爬を行う医院でのお話。
 続く「我らの帝国へようこそ」は「遥か~」の少しあと、閉じ込められた屋敷からいかに出るかのお話。

 

ネタバレ

 

 

 国家や法律といったシステムには、それを作ったものの思惑や、作られた時代の価値観が少なからず息衝いているわけで、堕胎罪も当然そうであった。要するにこれは産めよ殖やせよという価値観、もっと言えば富国強兵や徴兵制といった思惑の下で結びつけられたシステムの一環なのである。のみならず、古来からの家(血統ではない)を重視する価値観ともつながり、女は子を産むという当時の正しさを形作っていった。

 そうした当時の正しさの文脈で語られる楠戸は確かに良き夫であったろう。一見すれば妻も良妻であったろう。が、実際に楠戸の妻、紫から語られる生活はどうであろう。意に添わぬ営みがあり、男児が生まれ、良妻賢母を強いられ。当時の社会や習慣上忍従するしかなかったその生活は、いまから(というよりも僕の価値観から)見ればおよそ正しいとはいいがたいものだ。

 僕は、この「当時の正しさ」と「現代から見た正しさ」の「ずれ」が本書の最大のテーマであると読んだ。(まえがきにもそれらしいことが示唆されているから、それに影響を受けた読み方をした可能性も大いにある。)

 

 当時と現代の「ずれ」を感じさせるのはなかなか難しい。読んだものに自ずから意識させなければならないにもかかわらず、当時を描写した作中の人物たちはあくまで当時の価値観に沿って動かなければならないからだ。戦国乱世を描いた作品の人物が現代の価値観で動いていたら違和感を覚えるのと同じだ。「ずれ」を感じるのは読者でなければならない。
 本書は作中の人物に「当時の正しさ」に精一杯に抗う形を取らせることで、現代の読者に「ずれ」を意識させやすい仕掛けとしている。

 

 ところで、もし仮に読者が「当時の正しさ」を信じていたら、この「ずれ」はまったく作用しない。そういう人にとっては当然のことながら、作中の楠戸の行動は正しい夫の行いであるからだ。
 だから僕はあえて『(というよりも僕の価値観から)』と書いた。「当時の正しさ」が現代では必ずしも正しくないと判断するのは、結局のところ僕自身である。他の人が僕と同じ基準で正しい、正しくないと判断するわけはないから、主語を小さくしたわけだ。

 

 しかしこう考えると、果たして世の中に絶対な正しさはあるのかと思えてくる。

 彼らは自らの行いを正しいと思っているし、それに抵抗する人々もまた自らの行いを正しいと信じているから抵抗している。どちらが本当に正しいのかは各々の胸の中にしかない。
 どちらが正しかったのかが後の時代に判明することもあろう。しかしそれも、時代が正しいと判断を下すのではない。後の時代に生きる人間(たとえば僕)の中にある正しさから、前の時代の行いを正しいかそうでないかと分けているだけだ。

 それだってもっと後の時代には正しいかどうかを、また別の人が自らの正しさについて判断するわけで、結局のところ人は自分が正しいと信じたものを拠り所に進み、相反する正しさと何らかの形で折り合っていくしかない。折り合うというのは何も宗旨替えや妥協や納得だけを指すのではない。戦う、戦わざるをえないことだってあるかもしれない。

 

 個人の判断基準となる価値観とて、生きている間に変わる場合もままある。ちょっと前には主義や主張を変えることを転向などと呼んで裏切者のごとく言ったが、生きていれば考えが変わるなどいくらでもありえると僕は思う。*1 人間の判断基準に絶対はない。正しいと正しさはその時々の情勢や社会状況や文脈によっても変わりうる曖昧なものなのだ。

 

 だからだろう、自分を絶対的に正しいと信じている楠戸や吉野が、相対的にあまり正しいように見えないのは。*2

 それはおそらく震災後の虐殺に手を出した人々にも言えるだろう。
 当然ながら法律とて制定された時代の正しさをしか反映していないわけである。作中で扱われる堕胎罪しかり、戦後の優生保護法しかり。

 冒頭に書いたように『作ったものの思惑や作られた時代の価値観が少なからず息衝いている』からだ。

 話が一周したので一応は感想終わり。


 まあもう少し追記という形で続けると、最初の題名が「遥か昔からの花や木の根」であり、次が「我らの帝国へようこそ」であるこの対比もよい。植物と国家である。
 植物というか、それを成り立たせている「生態系」は、おそらく誰の思惑も価値観も介在していない、人間が作る国家や法よりも純然な形態のシステムだ(と思いたい)。生態系とて人の影響は免れないものであるが、それでも帝国がおよそ60年*3 しか続かなかったのに比べれば、万世的かつ普遍的なものではあろう。
 普遍的なものを描く、とは近代以降の小説にとってひとつの大事なテーマであると僕は思う。
 本作の普遍的なものの象徴が自然体であり、それを枉げぬ感覚であり、畢竟するに「遥か昔からの花や木の根」なのであろう、たぶん。

 

 

*1:むろん「転向」の中には強要弾圧拷問その他の強制的な力で無理矢理に変えさせられた人もあり、そうした人を圧力に屈したと言って裏切者のように扱う状況もあっただろう。ここではそうしたケースではなく、自発的に主義主張を変えた状況を指している。

*2:もっとも彼らも、もっと強固に己の絶対的正しさを盲信する存在=当時の国家の中で生かされる、正しさの追認装置のようなものでしかない。

*3:憲法発布を起とする。