雑考閑記

雑考閑記

雑な考えを閑な時に記す

感想は拒めぬが選べる

 感想というものがある。
 僕もたまにこのブログでちょっと長い感想をものしているが、むしろ感想というものの性質を思えば短い言葉のほうが響きやすいものだと僕は思っている。(ちなみに私の感想はその長さゆえに稀に論じていると思われるようだけれど、当然ながらその気はない。)


 短い方がいいと思っていながら、どうしてお前の感想は長くなるのか。

 ひとつには書き出すと止まらなくなる癖だからだ。しかしそれ以上に、感想に関して言えば、僕がある作品の良いと感じた部分(情動)を、あとで僕が理解しやすいように僕なりの言葉で解釈しているという点が大きいだろう。言ってしまえば僕の感想は僕の情動への読み下し文だ。

 長文感想は「私がなぜ面白いと思ったのか」の解説なのである。よって僕の感想は本来的には作者に向けられた言葉ではない。が、好もしいという感情に基づいたものなので公開している。

 もとより感想が少ない世界と伝え聞いているし、実感もしているので、好意的な感想が賑やかしの一つにでもなれば御の字である。(後述するが、作者が投げかけられた感想をどう思うかというまた別の問題もはらんでいる。)

 

 ゆえに僕が短い言葉で伝えようとすれば、その根源的な情動を記せばよいことになる。誰にでもわかりやすいよう平易かつ簡明に書けば「面白い」「ここは僕には合わなかった」などそれに類する言葉になるだろう。

 しかしそれで気が済まないのが私という人間なのである。かくして僕の感想は長くなりがちだ。もっとも感想の長短に優劣はないし、情動の大きさもあまり関係ない。なので僕が書く「短い感想=面白くなかった」という考えも的外れであることを予防線として張っておく。

 そんな僕の感想についての話はどうでもよい。


 さて、諸々の感想を受けて作者がどう思うか、という問題もある。

 これは作者の領分である。

 

 僕の考えを記せば、そもそも感想は自由なものであって良い。

 面白いと書くも、つまらないと書くもだ。

 

 しかし時にはこれを受けて気に病んでしまう人もいる。

 最初に書いたように、感想というものの性質を思えば短い言葉のほうが響きやすいと僕は思っている。「つまらない」に類する一言ほど作者を刺しやすい感想はないだろう。


 しかしである、そもそも作者は感想で気に病む必要はない。

 感想とは情動、要するに「腹減った」「美味い」「不味い」と同じようなものでしかないからだ。(だからこそ、私は感想は短いほど強いメッセージになり得ると考えている。)

 作者にはそういった読者の情動を受け入れる自由があるし、反対に受け入れない自由もまた保障されている。だから気に病んでしまうぐらいなら受け流すか受け入れなければよい。(それができるほどの精神力があれば苦労しないよねという話でもあるのだが……。)

 

 一方で作者にないものもある。

 感想を言うなと言う権利だ。

 作品を何かしらの形で公表、第三者の目に触れる形にした以上、その第三者にものを思うな、発言するなという権利など、作者はおろか誰にだってない。もちろん作者は感想を黙って受け入れていろというわけではない。感想を言うなという権利はないが、感想を受け入れない自由はあるのだから、うまいこと遮断すればよい。

 結局は「その遮断が難しいんだよ!」という話になってしまうのであるが、己がどういう人間なのかを把握して対処法や対策を講じるほかはない。感情的な感想を感情的に受けて気に病むのよりかは、そういったものに対して理性的に立ち回る方法を考えるほかはないだろう。

 

 そもそも感想というのはあくまで一人が発したものでしかない。

 あなたやわたしの総読者数は不明であるが、言っても何分の1かの情報だ。それをもって自分の作品への全評価と思うのはあまりに自意識過剰である。「つまらない」という感想には「その人にとって」という前置詞がついていることを忘れてはならない。

 

 仮に10人の読者がいて1人だけ、つまり10%だけがつまらないと感想を表明している可能性だってありえるわけだ。
 まあ、それは楽観的な考え方だろうから、悲観的にも考えてみる。
 10人いて9人がつまらないと表明する。でも1人が面白いと表明している。

 作者はその1人がさらに面白いと思うように書いていくのか、9人のつまらないを緩和するために書いていくのか、あるいは9のつまらないに筆を折ってしまうのか。

  1人だけの読者がつまらないと言ったら…… 、それは「あなたの肌には合わなかったのね」とでも変換すればいくらかは和らぐのではないだろうか。

 いずれにせよ表明された数的、質的な情報との付き合い方をどうするかだ。

 感想とは一種の情動で、感情で発せられたものだからこそ、そこへの対処というか、対策はデータ的に考えた方がよいと思う。

 

 そういう点では「つまらない」という感想であっても、その理由や解釈が論理的かつ納得できる理由を挙げて詳述されていれば、作者が気に病む確率はぐっと下がるであろうし、はるかに参考や反省点ととらえやすくもなろう。しかし世の中「好ましくない」情動を細かに書くようなもの好きはほとんどいないので、これは絵にかいた餅なのであった。

 

 ところで感想の受け入れの自由とは別に、作者の権利として「読者を選んでもよい」というものもあるのではないかと思う。これはお客様は神様の思考が染みついた現代においては、作者の増長だと考える人もいるかもしれない。小説とは読者が存在して成立するものなのに、それを選ぶとは何様だと。

 しかし小説を絵画や音楽、彫刻などと同じひとつの表現物であるから、書かれたその時点で作為が込められており、かつ作者も意識的か無意識的かを問わず、その作為をある程度まで読み取れる人、または読み取ろうと努力してくれる人を想定してしまっているものと思われる。もっともそれを意識的にやっているか、無意識的なのかの違いは大きいと思うが、いずれにせよ成立した時点ですでに読者を選んでいるので、「選ぶとは何様だ」という的外れなものだ。選ばれない客層だっているのだから。*1

 

 作者は本来的に読み取れる、読み取ろうとする層を相手にすればよいのであって、想定していない読者までも対象にしているわけではない。

 その一方で作品は広く公表されるものであるから、先に書いたように読者に感想を言うなという権利がなく、ある作品について作者の作為を逸れた感想が出てくる場合もある。もちろんそれ自体は悪いことではない。そういった感想が作者自身も意識していなかった別の問題点やテーマを浮かび上がらせる確率も万に一つはあるだろう。作者の方がたまに言う「意図していませんでした」「そこまで考えていませんでした」はこれに近いものがあると思う。

 が、やはり作者が本質的に狙っているのは作為や内容を十分に把握し得る、または把握しようと努める読者であろう。小説が言語表現である以上、作者と読者の言語が共通の土台に立って初めて通じるものもあるだろうから。

 

 と書いていてなんだが、これらは小説をなんらかの表現の結晶、言語芸術としてとらえた場合の話である。小説を娯楽や商業物としてとらえている人にはほとんど関係がないかもしれない。そもそも商業的な商品としてとらえているからこそ、「お客様は神様だ」を下敷きにした「客を選ぶとは何様だ」という考えが出てくるわけであるし。

 また「作者の言いたいこと」やそれを理解する姿勢を、「読者が読書体験を通じて得たもの」ほど重視しない考えもあって、そうした考えも「選ぶとは何様だ」(好きに読ませろ)につながってくるのだろう。

 

 ちなみに僕の読者としての姿勢は後者に近い。

「何様だ」とまで思いあがっているつもりはないが、「それはそうとして俺は好きに読んで、俺が価値を見出す」という人間なので、感想は「情動」であるなどとのたまってしまうわけだ。なので僕の感想を読んだ作者が「的外れ」だと指摘したり、「あなたはこの本を読むべき『私の読者』ではない。勉強してきなさい(or 手に取らないでください)」と言うことだって大いにに起こりえる。

 また、そう言われる可能性も心得て感想をものしている。

 ただし僕は、作者が技術の精度を高めれば、「好きに読む」姿勢の人間が相手であっても、本来の作為を読み取らせる誘導も可能なのではないか、という理想論的な考えも持っている。

 

 勘違いしないでおきたいのは、作者と読者はそもそも対立しない別個の概念であるということだ。ひとつの表現物をめぐっての解釈の差異があるだけで、そこに優劣はない。作者の作為を逸れた読み取りであっても、それはそれで読者が読書をつかんで得た経験であるから、それ自体を作者に否定されるいわれもない。

 

 

 

 まとめ?

 作者にはつまらないというものも含めて、感想を言うなという権利はない。しかし感想を受け入れる自由もあれば、受け入れない自由もある。結局は取捨選択でやっていくしかない。あまりおもねりすぎると、今度は感想のために書いているのか、ということになってくる。ひいては「自分は何のために書いているのか」という部分にも及んでくるだろう。

 人を楽しませたい、エンターテイメント(?)を書きたいと思っているのならば、つまらないと言った9人に面白いと言ってもらうために改造していくのが適している気がするが、どうだろうか。そのうえで面白いといった1人にももっと面白いと言ってもらえたら最高であろう。

 自分を表現したいとか、わかる人に届けたいという人は感想にはあまり揺らがないと思う。というかこういう人はおそらく読者を選んでいるのをいくぶんかは自覚しているだろうから、感想それ自体をありがたいとは感じても切り離して受け取れるのではないだろうか。

 

 いずせにせよ自衛策というか、自分なりの対処法は必要で、再三になるが、それが確立できていれば苦労しないよねって話。

 

 

 

*1:読者を選ぶのを作者が公言するかはまた別の問題。現在の小説は客商売でもあるから、表向きはそんな顔をしない人もいるだろう。