雑考閑記

雑考閑記

雑な考えを閑な時に記す

僕たちの言葉は同じなのか

 厳密に正しい日本語は存在しない、とようやく思えるようになった

 

 みんな自分が正しいと思う日本語を使っているだけ。

 その「正しい」に当てはまる人が割合として多いか少ないかが問題視され表面化しているのだろう。変わらないただしい言葉はないが、多数派が使う言葉はある。だから言葉の正誤は多数派の形成いかんで変わっていく。

 言葉は表記とコミュニケーションのふたつで成り立っているから、表記の正しさだけを求めるのはあまり意味がない。


 以下妄想。

 

 ただし現在はコミュニケーション不足な時代らしいので、前者だけがますます求められていき、同じ言葉を使っていても自分だけがなじんでいる言葉遣いやニュアンスの正しさばかり盲信して、相互不信になる。

 昔は下流階級と上流階級では言葉遣いが違ったというが、いまは言葉遣いが同じでも、意味合いの上では別ものを指すという、同じようなことが起こりつつあって、見えづらい分断が進んでいる。

 

 話は変わるがお金も似たものかもしれない。

 同じ額面でも安いと感じる人がいれば高いと感じる人がいる。10円を高いと感じる人はいまは少数派だろうけれど、分断が進めば高いと感じる人が増えるかもしれない(物価の変動もあるので一概には言えないけれど)。 

 

 コミュニケーションという点での言葉は、表記上は同じ内容でも口調やニュアンスで柔らかくなったり刺々しくなったりする。
 貨幣としてのお金は、額面は同じでも対価として得られるものによって高く感じたり安く感じられたりする。贅沢かどうかは、それを贅沢と感じる人が多いかどうかで決まる。

 だからこそ、数の多い少ないにかかわらず声を上げて、意味や価値の上での均衡というのを常に永遠に探りあっていかないといけないのではないかと思う。分断を進めないためにも。

 

 強引だな。