野島断層保存館
淡路島にある北淡震災記念公園と、その中核施設となる野島断層保存館に行った記録。阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)に関連する施設だ。
公園にはモニュメントや慰霊碑が立っている他、物産館やレストランがある。
そんな記念公園の中心施設が「野島断層保存館」(入り口の撮影を忘れていた)。地震により露出した断層(天然記念物に指定)がそのまま保存されている貴重な施設。入館料730円。館内撮影は自由。
神戸市内でも遺構の一部は保存されているが、復興に伴いその跡はあまり目立たくなっている。ここでは断層という形でその傷跡がまざまざと保存されている。
入ってすぐは震災の概要やその被害を示すデータや写真、模型の展示が中心。
奥へ進む。
1995年1月17日。
マグニチュード7.3。
午前5時46分。
保存館の中核をなす、約140メートルにわたって断層が保存された区画。
この区画では断層がほぼ当時のまま残されている。
といっても入ってすぐの道路では、路面の亀裂の入り方などから、どの方向にずれたのかや、「当時のまま」といっても屋内部分と外は壁で隔てられているので、その連続性にピンと来ないかもしれない。もっともそれは奥へ進むにつれて次第に明らかになる。
ずれ方については道路そのものよりも側溝に注目するときい。ジグザグに折れ曲がっているが、矢印のパネルが示すのがずれた方向だ。
こっちから見るとよりわかりやすい。
グレーチング(側溝の格子蓋)が大きくずれている。
続いて断層の露出面。写真の左(山側)が主断層で、右(海側)が副断層。主断層の高さはおよそ50センチメートル。左側が隆起して段差が生じた。
ずれを明確に感じられる場所のひとつ。
同じ色のパネルが元のつながりだ。あぜ道やその左の段差、右にある側溝からそれぞれの元のつながりがはっきりわかる。まさに大地が動いた爪痕といえよう。
外との連続性を感じられるのがこの生け垣。写真左、ガラスの外にも続いていのが見えるだろう。生け垣は館外にある小さなお社のものだ。
復興や震災記念公園の整備に伴う造成で田んぼやあぜ道はならされてしまい、周辺の連続性はあまり残っていない。そんな中でこの生け垣は、保存の内と外がまぎれもなく同じ場所にあったことを示している。
地割れ(規模が小さいので亀裂)。大地が割れた。
館内の一番奥はトレンチ調査(断層を調べるための発掘調査)の跡で、少し降りて断面を眺められる。大地の移動がはっきりわかる。近くにはトレンチ調査によって掘られた断面も展示されている。
このずれは今も地下深くへ続き、また新たなエネルギーを着々と蓄えているのかもしれない。
ちなみに断面が磨いた泥団子のように光を反射しているのは、表面に樹脂加工がなされているからだ。
保存館の断層は風化を避けるため、屋内保存のうえ樹脂加工されている。手を加えているではないか、と思われるかもしれないが、露出したままの保存がいかに難しいかはこの後の屋内でわかってもらう。館内の断層は状態を保つため、つまりそのままの状態を「保」ち「存」続させるために毎年末にメンテナンスが行われているという(記念館の休館日)。
震災遺構のひとつ、神戸の壁(空襲と震災に耐えた防火壁)を経てメモリアルハウスへ。
敷地内、家のすぐ西側に断層が走りながらも倒壊しなかった、災害に耐えた家である。基礎がしっかりしている(当時の基準の2倍以上のコンクリートを使用)ので、壊れなかったようである。もっとも地盤が傾いたので基礎ごと家も傾き、水平面から少し傾斜している。しかし柱や壁などにはほとんど隙間が生じず(壁に若干の亀裂がある)、実際生活には問題なかったらしく、住民の方は震災後も4年ほどこの家に住んでいたという。
家の中のパネル展示のひとつ。
島内では旧北淡町(震災記念公園のある当地の合併前の町名)の被害が特に大きかったことを示している。
家の敷地内、庭を走る断層によって塀が傾いた傷跡もしっかり残っている。
隆起した断層も矢印で示されている。
さて、保存された断層やメモリアルハウスという形で震災の爪痕を記録している保存館であるが、僕が最も印象に残ったのは屋外にあるこの場所だった。
その理由は塀が傾いているからではない。
ではなぜか。
次の写真を見てほしい。
断層の部分はちょっとした坂になっているのがわかると思う。
隆起したのだから、その段差が坂状になったのだろう、なに当然のことを言っていると思われるだろう。
しかしである、もしここに塀も断層を示すパネルもなければ、あなたにはそれが地震の爪痕だとわかるだろうか。
露出した地面は年数と共に雑草に覆われてしまっており、隆起した箇所も四半世紀の風雨にさらされてなだらかになっており、ちょっとした坂のようになってしまっている。もし展示物が何もなければ、これがかつて大きな地震によって生じた断層だなんてわからないだろう。少なくとも僕はまったく気付かないに違いない。
それを考えれば、建物で覆い樹脂を吹き付けてまで「保存」することの重要性がわかるのではないだろうか。露出したままの保存がいかに難しいか、である。
「震災の風化」といえば、年月を経たり震災を語る人が減るなどして、多くの人の記憶から忘れられていく状態を指したものと解されるが、それのみならず言葉の本来の意味通りにも消えていくものでもあるのだということが身にしみたのだ。
冬場の雑草とそのちょっとした坂道が僕に深く印したのは、記憶だけではない震災の風化という事象を目の当たりにしたからだ。
さておき保存館は、目に見える形で震災と断層の活動がいかに大きなものであるのかがわかる施設だ。
僕は年齢的にも当時住んでいた地域的にも、あの震災をはっきり記憶しているが、もう25年も前なのだという事実にも驚いてしまう。その後も2011年を筆頭に多くの震災があり、甚大という言葉ではくくりきれない犠牲、被害があった。
残念ながら地震そのものは地球が活動している息吹のようなものであり、それ自体はけして防ぎようがない。だからこそ防災、減災によって被害を抑えることの重要性を感じさせてくれる施設だ。
地球、それも日本に住む者の宿命として、南海トラフ地震も避けられまい。
である以上、それが起こった際の備えと、もし可能ならば覚悟が必要だろう。
防災という観点からは、神戸市にある「人と防災未来センター」にも訪れたい。
この旅の前後編はこちら。