衝動と承認欲求の対流
カクヨムにある個人企画での「ファンタジー作品なら何でも」「異世界以外」といった要綱を見ていると、ジャンルとはつくづく難しいものだなと思った。
企画者が言う「ファンタジー」「異世界系」はどういったものを想定しているのか、僕はそこが気になってしまう面倒な人間だからだ。でもこれをその場で問うと、それこそ本当に面倒臭い議論吹っ掛け野郎になる。「カレーとはなにか」問う海原かてめぇは。
しかし僕の「定義は何か」はその場で問い詰めたいわけではなく、自分に応募資格があるのかどうか厳密に判断したいという意味合いである。自分がファンタジーだと思ってた応募したものが、企画者にとって全然ファンタジーじゃなかったら、要綱を読めないやつになってしまう。それは避けたい。
要綱にジャンルだが大雑把に指定されている場合、その判断はおおむね作者の「ジャンル観」に委ねられていると見ていいのだろう、たぶん。
そうなると今度は今度で、応募する側としては「部分的にでもそういった要素があればいい」のか、あるいは「他人が違うと言っても作者がそう思っていればいい」のか、そこが不透明で僕まらは混乱してしまいそうである。もっとも、広く募っているのならばおそらく前者とみてよいのだろう、とは思う。*1
もちろん企画者のジャンル観にそぐわない場合は企画者が撥ねればよい話なのであるが、下読みでもない人間にその面倒さを投げるのもどうかなと二の足を踏む。
本来こういう「ジャンル」は個別の作品について吟味すべきものだろうし、それら個別の作品とて何か一つのジャンルに縛られているものでもないだろう。
もう少し引き寄せる。
蒸奇都市倶楽部の作品は『スチームパンク“風”』と銘打っているので、もちろん看板は『スチームパンク“風”』なのであるが、これを分解すると『部分的に異世界で、部分的にファンタジー(「なろう」だとハイの方)で、部分的にSFで、部分的に文芸で、部分的に娯楽小説になるだろう』と僕は思っている。(あとキャラクターのイラストがついていたらライトノベルだと思っているので、蒸奇都市倶楽部のカバー付き文庫は全てライトノベルだと思っている。)
この「部分的な」を付す曖昧さは、(僕がいつも言っているように)「ジャンルは読んだ人が決めるもの」という姿勢に基づいている。作者がジャンルをあーだこーだ指定しているけれど、それに囚われないでいいよ、と。
しかし即売会場で小説を手に取る人に「読んでから判断して」はひどすぎる。
となると、ある程度の枠を事前に示すのはやむを得ないわけで、そうなってくると今度は手広く「(部分的に)ファンタジー」「(部分的に)異世界」と言っておけば、「部分的」のどこかにかすって手に取ってくれる人が増えるのではないだろうか、という皮算用が生じてしまっている。
「読んだ人が決め」ればいいという僕自身は無責任なもので、「決める」判断はめちゃくちゃ人任せだ。他人(僕以外)が「これのジャンルは〇〇」と言っているからそうなんだろう、と。
これにはむろん作者の宣伝も含まれていて、僕自身は「作者がジャンル〇〇と言っていたから〇〇なんだろう」と判断する。
もっとも私以外がジャンルを決めるという点では大きくかけ離れていない。
かように僕はジャンルを自分で決めるのが好きではない。しかしサークル活動において宣伝は自前で行う必要性から、ある程度はジャンルも含めて宣伝をしなければならず、そのためにジャンルを決めなければならない。
そこに生ずる矛盾を、僕はいまだ上手く解消できていない。*2
そもそも蒸奇の『スチームパンク』とて、原案者がそう言っていたからというものである。僕が決めたわけではない。
『“風”』を付け加えたのは紛れもなく僕であるが、それは作品を書くにあたって『スチームパンク』とされる本を複数読むうちに、歴史改変要素を含まないものがスチームパンクの主流という認識を得たところが大きい。
そしてここにもジャンルを決めない、という考えが働いて、改変要素を含まない蒸奇の世界設定には『“風”』を足して、「スチームパンク」と言い切るよりも、薄めた方がよいと判断したのだ。
この判断には、
「これは本物のスチームパンクか?」
「はい、本物のスチームパンクです」
「では教えてくれ。本物のスチームパンクとはなにか」
と海原に問われたくないという僕の逃げの姿勢が如実に現れている。
この姿勢は『部分的に~』と言った全てにも当てはまる。
「これは本物のハイファンタジーか?」
「いえ、部分的になので本物とは言い切れません」
「そうか」*3
他方、『スチーム「パンク」』という点を鑑みれば、既成の枠組みにはめる必要はあるのか、というのもある。*4
既成の枠組みに囚われない、というひとつのパンク観は、蒸奇の登場人物が概ね(作品世界の帝都で)主流でないのに影響しているだろう。*5
蒸奇都市倶楽部の作品の多くの出来事は作中の国家「帝都」の枠内で起きている。しかし登場人物が帝都における主流派では、恐らくパンクを名乗れない。むしろいずれ帝都という枠をぶち壊すほどの衝動やうねりとなってこその、パンクという枠組みにおける主人公、導き手ではないだろうか。
でもこれは結局のところ、理屈から語ろうとしているので、定義を求めて語っている段階でパンクじゃなくね、とも思ってしまうし、第一そういったパンク観自体が、やっぱり他人の受け売りであって……、それを言い出すとジャンルにはめるのが好きでない人間がジャンルを語り、枠にはめようとしている時点で錯誤している。
あれこれ話や内容に統一性がないのは、僕自身に複数の立場が混在しているうえに、あまつさえそれらふぁ同じところでものを考え、同じところで出力しているからだ。
小説書くシワ読むシワ売るシワ
どれも混然と一体化していて、しばしば僕にとって都合が良い立場でものを言い、考えているにすぎない。上で書いていることにもその都合のよさが活かされている。
海原に問い詰められたくなくて、ジャンルを読んだ人に丸投げするのは書くシワであるし、部分的にジャンルを被せて宣伝するのは売るシワであるし、ジャンルの判断を自分以外のものに頼るのは書くシワ読むシワであるし、パンク観から作品を捉えようとするのは売るシワと読むシワであるし、“風”を付け加えたのは三者の利害の一致である。
三シワの考えはしばしば衝突するが、そこから生ずる衝動は、はっきりと書き表すことができない。ただ、そこに生ずる思索は、結果として私を原稿に向かわせる力となっている。
ここでの原稿とは何も小説の原稿だけを指すのではない。この記事だって原稿に書いているわけだし、本を読んでの感想だって原稿にしたためないと文章化できない。宣伝の文案も大事な原稿だ。おそらくはどのシワも書く行いによって矛先をずらすことで、まともにぶつかり合った衝動で砕けないようにしているのだろう。
この衝動による大きな思索と、前にも書いた承認欲求という大きな欲望との対流によって、僕のサイクルが形作られているのかもしれない。
ところで監修のシワとしては、ゆくゆくは都市倶楽部が出す作品=「スチームパンク“風”」というジャンルになればよいと思っている。そこをちょっとでも固定化できれば、その他のジャンルは難しく考えなくてもいいだろうと。
〇〇が書く作品→ジャンル:〇〇 みたいな。
そうなればきっと簡単だと思い、奮闘している。
僕は生来の面倒臭がりであるが、将来にわたって長くかかる面倒臭さを取り除けるためには、いまの面倒くささを押しのけて頑張ってもいいと思っている。