雑考閑記

雑考閑記

雑な考えを閑な時に記す

三島由紀夫vs東大全共闘

 という昔の怪獣映画か東映まんがまつり(「〇〇対××」)みたいな題名のドキュメンタリーを見てきた。なぜか若い男女連れが3組くらいいたけど、題名を見て活劇的な作品だと勘違いしたのかもしれない。

 時節柄15人ぐらいしか入っていなかったのでとても快適。

 

 内容については一回見ただけなのうろ覚えではあるので、記憶を吐き出したメモを中心に記す。まだまだ煮詰まってはいないので、今後の思考や感想の踏み台とするために。

 議論を取り扱ったドキュメンタリー作品という性質上、しっかり見直すのがいいのかもしれないが、1900円の複数払いは高い。

 

 ちなみに今年は三島由紀夫がお腹斬って50年。彼の生まれ年(大正14年 / 1925年)と没年月日(昭和45年 / 1970年11月25日)は非常に覚えやすい。

 

公式

gaga.ne.jp

 

 自己と他者――他社の主体性。最もわいせつな存在、縛られた女の解放。

 モノからヒトへ。性欲と暴力(どちらも表裏一体)の対象から対話の対象へ。

 価値付け、意味付けからの解放(解体と再構築。机をバリケードにしてしまうのを例に。)→行きつく先は革命――あらゆるものからの解放。時間からも解放される。革命の永続性は問題ではない?

 私闘。現代は闘いを制限されている。闘争的な精神、人間の根源的な暴力への志向、精力はスポーツという代償行動でもって慰撫されている?

金閣寺』の一節を思い出す。

スポーツはいたるところで公開されているね。まさに末世の徴さ。公開すべきものはちっとも公開されない。公開すべきものとは、……つまり死刑なんだ。(中略)人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、和やかにするんだのに。

 闘いを挑んで敗けたら死ぬ。現代は捕まってしまう。捕まる前に自決します。

→三島は自分の振る舞いや行動にとても自覚的。エッセイでも冷静な自己分析っぽいものをたびたび披露している。もしかするとこの時点で自分の将来についてある程度の見通しが立っていたのかもしれない。

 

 認識は現実の追認ばかりで現実に作用しない。

 現実に作用し、さらに現実を介して認識に作用するものは行動、肉体であり、端的に言えば暴力(または性欲)である。現実と認識に作用をおよぼす暴力とは何であるか――人間の根源的なイミが求められるのではないか。教養主義への反逆。人間もしょせんは動物。それは教養をもっても頭ごなしに否定できない。しっかり「動物」と認識したうえで、肉体をもって現実に働きかけていく。

 肉体→現実→認識→肉体……の循環。

 

 全共闘の人たち(もっと言えば学生運動の人たち)は観念的、あまりに観念的。

 その観念的すぎる彼らと暴力が結びつくわけだけど、この二つをつなぐリンクはとても複雑(説明にあたって言説を弄しているように見えるの)。

 彼らの思想と暴力を結び付ける仕掛け、いうなれば『わかりやすい』言い換えがなされていない。なので僕から見るとなんでその結論に行くねん、と見えてしまう。私からすれば、彼ら独自の理屈で動いているようにしか見えず、そこに普遍性を見いだせない。

 

 全共闘は敗れたのか?→敗けたと思っていれば自殺している。三島はそうした。しかし学生の多くは自決していない。→敗けたとは思っていない? それぞれの道へ拡散していく。暴力的ではない方法で社会を変えるために。

 俺は負けたと思ってないから負けてない理論。時計塔放送を連想する。

「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、 この放送を中止します」

 インタビューで芥正彦*1 が「俺の歴史ではそうなってない(負けてない)」と言う。個別の認識としてはそうなのだろう。でもそれでは相互理解も進まないんじゃないかなあと思った。

 

 以下は私の雑感。

 全共闘の行動や活動、思想から切り離して革命について考える。

 

 革命というのはどこまで大衆受けするか、ではないかと私は思う。「大衆を導いて」などという教授型の考えは上下の意識がもろに現れているので、仮に革命が成功しても導いた側と導かれた側という図式がそのまま引き継がれ、大して転換していない。5人でやる大富豪で「革命」をした際に、3位の人は順位が変わらないのと同じようなものだ。

 しかし実際においては5位が革命を起こすことはなくて、2位の人が4位5位を扇動して起こすものなのだろうと思う。で、2位の人が1位になって4位5位の人はよくて3位に繰り上がるだけだ。ちなみに革命が鳴った時点でゲーム人数は5人から4人に減る(1位だった人はゲームから追放される)。単純化して考えるとね。


 導く、大衆も呼応する、という投げかけそのものが、「革命はエリートのものである」という考えが透けている。(当時この考えを支持していた人の割合がどれだけいるかはわからないが。)
 それはけして「みんなの為」ではない。ごく一部の我々の為だ。

 主語を大きくするものに碌な奴はいない。

 

 大衆による共同体への革命に伴う問題は、自分以外にどう伝播、伝えるかの問題になってくる。隣の人を共感させ、わかってもらえない人がどうして大衆に伝えられようか。(余談であるが芸術もこれと同じような問題を抱えている。革命はある種の芸術表現でもあるし、逆についても同様のことが言えよう。)

 あの時代の「革命」は当時においてそれを理解し得る人たちの間でしか通じない、ごく限られたツールでしかなかったのかもしれない。少数によってなされる革命というのは、つまるところ体制転覆の言い換えでしかなく、構造の一部を入れ替えるのが関の山だ。そうした革命は手段であって目的にはならない。

 真なる革命を行おうと欲するならば、全ての人を説いて回らなければならぬ。

 

 映画を見るずっと前から当時の考えや思想をいくらか虫食い的に学んでいるが、今をもってもあまり理解ができないというか、かっちり僕にはまらないのは、僕という人間が革命には不向きなのであろう。加えてまだまだ聞きかじりの域を脱していないものと思われる。しかし打ち込めるほどの情熱はない。だから革命には向いていない、ともいえる。

 僕の偏見だけど、革命に憧れる人は英雄願望を秘めていると思う。それも途中で凶弾に倒れるような性質の願望だ。完全に偏見だけど。

 

 本編とは関係のない感想。

 時代的にみんなタバコ吸いまくり。会場になった講堂内にはしょっちゅう煙が立ち上っていた。赤ちゃん抱きながらタバコ吸うとかいまの価値観で見ると驚く。

 

 

*1:この方は今でもキレキレという感じであった。