雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『人間裏街道』

人間裏街道

成瀬紫苑

Polaris*(2021年1月17日発行)

 あらすじ代わりのWebカタログ。

c.bunfree.net

 学びの姿勢を失えば人間ではなくなる。

 通学を主とするタイプの学校生活における勉強とは、各種の学科学問のみならず、教師や学年、クラスという疑似的な形で社会との接し方も含んでいると思う。その場で形成される人間関係の良し悪しは別にして、こうした疑似的な社会*1 を形成する学校において、他人との関わりあいを避けるというのは自ら学びの機会を潰しているようなものだ。

 と達観したふうに言えるのは、そういう学校を出て何十年も経っているからであって、学生だった当時にはもちろんそんな考えは持っていなかった。

 

 主人公の黒川ありす(以下、作中にならいアリス表記)は高校生でありながら、人との深い関わりを避けて生きている。不登校生でもないのにそうしているのは、すでに社会(との距離感)を学んで彼女なりの見解を持っているからだ。そのうえで社会との深い関係の構築を望まない彼女は自らの手で人生を断とうとする。

 

 本作はそんなアリスの一人称視点で書かれているため、基本的に彼女の心境の変化を追う形で展開する。そうした結構とミステリー作品などをよく読むという設定から、アリスが自分の身の回りの出来事を観察し推断を下す場面が多い。たまに説明不足な感を受けるところもあるが*2 、概ねの論理の運びには納得できるところであった。 

 

 人生にぶつかったものの逃避先が裏街道であるという。現実逃避のための空間で、住人は他人に興味を示さず、脇目も振らず自分がしたいことをしている。その描写を見る限り逃避してきた人間は概ね社会との関わり合い、もっと言えば人間関係において絶望した者が多いようだ。人目を気にせず自分のやりたいことをやるということは、それが社会に与える影響を一切考慮しないということでもある。

 

 そうした裏街道に、人との関わり合いを避けながら生きてきて、そして死を選んだアリスが招かれる。裏街道の住人とアリスとの違いは一体どこにあるのか。そこの見せ方は巧みであったように思う。

 

以下の感想はネタバレを含みます。

 

 

 

 

 何かしら人生にぶつかったものの逃避先が裏街道だと書いた。すなわちこれを「表」に返せば、表にいるときの彼らはしっかり人生なり社会なり人間関係を見つめていたということでもある。言い換えれば人生に一生懸命で、真面目で、それゆえ思い詰めすぎた人が来ているのだろう。

 

 他方アリスは自分の人生について彼女なりの尺度で真面目に考えたことはあっても、しっかり見つめるほどではなかったし、ましてや何かにぶつかったこともないようだ。人と深く関わりあうことで生じる負の感情を恐れ、そうしたものに触れないように生きてきた彼女にとって、人生について真面目に生きるということは推奨されるべきものではなかった。また、そんな負の感情に触れずとも人間というものは死に向かって歩む生き物である。そうした観念上からの把握でのみ生を捉える彼女にとって、死という選択は重いものでもなかった。

 

 中盤で自殺を選んだ理由を語る彼女は、真面目に生きてきた裏街道の人間と真面目に生きてこなかった自分を比較して、自分こそもっとも裏街道にふさわしくない人間だと言う。ネタバレ前の感想で「巧みであったように思う」と書いたのはこの部分の結構だ。

 

 自分にすらほとんど関心がないアリスであるが、メイやガラク、裏街道そのものについて内発する好奇心を抑えきれないのは、彼女が表の人間だからだろう。その好奇心との向き合い方、葛藤の見せ方にはなかなかの苦慮が感じられた。

 

 

 物語はアリスに積極的にかかわりを持っていたミカの登場で大きく変転する。

 裏街道の住人になっていたミカも、行動原理はやはり自分本位なのであるが、そうであってさえ彼女は他人にお節介を焼いてしまうという。この描写から分かるのは、アリスに声をかけて孤立状態を陥らないようにした彼女にはまったく裏がなかったという点である。つまり彼女の姿勢には偽りなどなく、本心から動いていたことの証左であり、彼女が表でも自分を偽らず生きてきたまっすぐな人間であったことの描写にもなっているわけだ。

 

 するとミカを通じて裏街道の別の面が見えてくる。

 

 表で自分にまっすぐ生きてきた人間は裏街道に行っても大きな変化がないのではないか、と。

 これまでアリスに接触してきたり、彼女の視界に入った裏街道の人間は、どちらかというと表で自分を偽ってきたようなタイプであるかのように描写されていた。路上で全裸で寝転がって愚痴を言い続けたり、街中で延々とヘッドバンキングしたり、路上でずっとパズルをしたり、花の世話をする普通そうに見える人もいたが、印象に残るのはこうした実際の街中で見かけても近寄りたくない特異な人々だ。もしこれらの奇態が彼らの偽らざる姿なのだとしたら、表ではよほど自分を抑えてきたか、抑圧されて生きてきたのだろうと思わせる描かれ方であった。

 このことから私は「裏街道に来るのは自分を偽るのに疲れた人」だと思っていた。

 しかしその後に登場したのは表でも裏でも変わりないミカ(と、彼女を通じて見えてくる裏街道の別の面)である。このハッとさせられる構成もよかった。

 

 ミカの退場については惜しいなと感じた。その理由について書くのには、メイの最期にも触れておかなければならない。

 

 メイは主要な登場人物の中で最後まで変わることがなかった。

「ものの見方を少し変えるだけでどうとでも捉えられる」(97p)

 だから表の世界で生きていこう。そう誘うガラクに、メイは断固たる拒否の意志を示し死を選ぶ。

 アリスとガラクに見守られながらの死はメイにとっては幸せなものであったようだ。実父からの虐待と親戚にたらい回しにされるというネグレクトを受けてきた彼からすれば、人に構ってもらえるという幸せはたとえ死の間際でもあっても変わらなかったのだろう。しかし同時にそれは彼の幸せの尺度が「人に構ってもらうこと」にしかなかったことも意味している。それ自体は裏街道の人間としては普通なのだろう。

 

 だからこそである、ミカの退場が惜しいと感じたのは。おそらく彼女こそ構って欲しがりなメイに必要な人物ではなかったろうかと思えてならないのだ。

 終わった物語に if を差し挟むのは実に無粋であるが、ミカとメイが違った形で出会えていれば、ということは書かずにはいられなかった。物語的には表で生きる決心をしたアリスとガラクとの対比にもなりそうであるから。見方を変えれば裏には裏の生き方があるという、そういう感じの。

 

 話をアリスに戻す。

 アリスはガラクに借りた『青い夏』という青春小説を読み、「少しものの見方を変えるだけで」自分にも似た世界が広がっていたかもしれないという事実に気づく。おそらくそこから「だから今は死にたくない(69p)」という考えが出てきたのだろう。内発する好奇心が描かれ、その考えを自得したことによって自殺を先送りする形に変化していくこととなる。変化、それこそ裏街道の人間と表の人間の最大の違いである。

 しかし彼女が「ものの見方を少し変えること」に自分で気づかなければ、そのまま自殺を選んでいただろう。これはアリスがメイのような末路を迎える可能性があったという示唆でもあろう。

 

 アリスとガラクは裏街道を出ていく。

 もともと表から招かれたアリスはともかく、ガラクは裏の住人であった。その彼が出ていく選択をした。裏街道にいる間に自分の人生について考えた結果として。

 

 やり直そうとし、実際に外に出ていった彼を見るに、裏街道は逃避の場所という面を持つとともに、人生にぶつかったものの緊急避難先という側面もあるのではないだろうか。俗世を離れ自分に向き合い、いつかは元の場所に戻っていく準備をするシェルターとしての性質もあるのではないかと。 

 

 裏街道の住人は他人に興味を示さず、自分がしたいことしかしないのはすでに書いた。また、そんな住人だけで構成される世界は、

純粋に生きることだけを求めるものにとったらノイズとなる可能性のあるものが一切取り除かれた(24p

 ものとしてアリスの目を通じて描かれている。加えて裏街道の中では時間の流れがない。

 これらはまるで裏街道が、自分のことやこれまでのことを見つめるための場として存在しているようにも読める形で描かれているのだ。もっとも作品はアリスの一人称なので、彼女自体がそれに気づくことはない。(読者もアリスの考えを追って読む形で疑似的に思考の方向を制限されるので、裏街道が避難先であるという考えを持つのかはわからない。)

 

 裏街道が逃避先ではなく避難先だと考えたのには理由がある。

 

 ガラクは自ら死のうと思ったが、死に際して恐れを抱いた。そのように人生に未練がある状態で裏街道に来たというのがひとつ。

 ふたつ目。作中に「一度死んでしまうと、生き返ることはできない」という言葉が出てくるが、死は裏街道にも存在しているようだ。実際に作中で何人も殺されている。死というのは究極の無変化の訪れ*3 であるが、時間の流れがない裏街道においてもその無変化は別格であるようだ。

 これらの事柄から、人生にぶつかって絶望し、そのまま自殺してしまった人間はそもそも裏街道に来ないのではないかと考えたのだ。(アリスの自殺はそもそものケースが違うので含めない。)

 つまり裏街道にいるのはまだやり直せる可能性のある人間ばかりなのではないかと。ここでいうやり直しとは無論「裏街道に来る直前の人生の続き」を意味しない。生まれ変わった気分で、これまでとは違う形で真面目に生きてみる、生き直してみるという意味合いだ。

 

 本来の裏街道とはそうした違う形の人生、つまり「少しものの見方を変え」て再起するための場なのではないかと思うのだが、残念ながら作中の裏街道の住人の大多数(作中ではガラクを除く全員)が「これまでの自分」を肯定する形で好き勝手に生きているようだ。そしてこのような形で裏街道に定着してしまった者はもうずっとそこから出られないという。

 いや、おそらく定着してしまっている彼らであっても、何かの機会に「ものの見方を変え」られれば裏街道を出ていくことが出来る素地になるのだろう。ガラクという存在がそうであることを示唆している気がする。

 

 

 表の世界から避難した裏街道の住人であるが、自己の行為に没頭するその姿は人間の本然的な姿に思える。作中での彼らは特異なことをしている形で描写されているが、自己の行為に没頭する人間は表にも存在している。公共交通機関の中でずっとスマホを弄っている彼ら、人の目がある外であってもスマホを弄り続ける彼らは、自己に没頭するという点で裏街道の住人と大きな違いがあるだろうか。

 もちろんスマホに触れている彼らは、乗り物の外で他人と関わりあいを持って生きているだろし、そもそもその端末を通じて他人とやり取りをしていることだってあるのだから、裏街道の住人とまったく同一とはいえない。

 しかしメイは裏街道についてコインを引き合いに出して表と比較している。

 であれば、自己にのみ没頭する裏の住人たちは、公共の場でスマホを弄る表の住人の戯画化された姿にも見えてくるのである。

 

 いつ自殺するか。

 裏街道に来るきっかけとなったその出来事自体を、アリスは先送りする形で物語は幕を閉じる。その先はないので憶測はしないが、最後に一点だけ。

 表に戻ったアリスは、娘を心配する親の留守電を受けて『私は子どもか。そんなこと言われなくてもわかっている。』(104p)という。しかし実際に裏街道に行く前の彼女は子どもであった。彼女がそれに気付く日が遠くなければよいがと、その点だけは幕を閉じた物語に思った。

 

 

 

*1:もっとも当事者の学生にとっては疑似でも何でもなく、紛れもなくひとつの社会であるのだが。

*2:【一例】学校生活においてアリスは『周りに同化することばかりを選択して』いるという。周りに同化ということは学生生活に溶け込んでいるのかと思ったが、その割には母から苦言を呈されるレベルでおしゃれに無頓着な彼女は、年頃の子から浮いているような印象を受けた。これは僕の印象とアリスの「同化」でかかる言葉が違うのかなと捉えて直した。僕は同化先を「学校生活」ととらえたが、ここでアリスが言った同化先は「背景」や「空気」といったニュアンスだということにしたほうがよさそうだ。

*3:死生観も色々あるが、これは僕の感想なので僕の考えを書く。