雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

作品世界の言語について1(シワの見解:総論編)

 ファンタジー小説(この項では『現在ならび現実と異なる世界を舞台にした作品』と大雑把に定義しておく。)において、どこまで日本語は許容されるのか。

 これは趣味領域においても社会性の乏しい*1 僕でさえタイムラインでちょくちょく見かけてきた話題だ。

 

 それについてこの記事で僕なりの見解を述べる。(約9千文字)

 

 

作品世界に存在するかしないか

 仏教が存在しない作品世界なのになぜ仏教用語を当たり前に使っているのか。

 

 この疑問はもっともである。

 西洋ファンタジーで「王子が誕生する前日、王国上空には瑞雲がたなびいていた。」という一文が出てくれば「瑞雲?」となるのも無理はないと思う。

 むろん問題は仏教用語に限らない。何かしらの宗教に由来する言葉や固有名詞(特に人名に由来するもの)、ことわざや故事成語といった慣用句などもそうした疑問を喚起する蓋然性が高い。

 

 そしてその疑問の度合い、すなわち読者に生じさせた違和感が強ければ強いほど作品世界としての強度は弱まってしまう。それが行き着くところまで行き着けばもはや作品を読む気は失せてしまう(当事者比)。なので作者はそうした違和を感じさせぬよう、作中の言葉選びにも細心の注意を払わねければならない。

 

 たとえば「完璧な作戦だ」というセリフがあったとする。

 しかし「完璧」は中国の故事に由来するので、作品世界にも古代中国がないと使えない。となると「不備のない作戦だ」や「パーフェクトなプランだ」と作品世界でも通じるように言葉を変えていかなければならない。さらに今度は「パーフェクト」や「プラン」は英語なので作品世界に英国があるのかという問題も生じる。という具合に考えていくと選択肢はおのずと限られてくる 。*2

 

切り分けすぎると……

 しかしこのように網羅的に語源を調べて取り換えていく方法には限界がある。というか逐一に検討していく方法は現実的ではない。

 というのも我々が日常的に使う日本語には、もはや何が由来であるかなど普段意識にさえのぼらないほどに馴染んだ言葉が無数にあるからだ。*3

 仏教由来はだめ、ことわざはだめ、故事はだめ、と排除を進めた先にはおそらく大和言葉が残るだろう。そうなると純粋な日本語とは何かという言語学じみた領域に迷い込んでしまう。

 

 だけどあれ?

 そもそもこの作品世界に日本は存在しているのだろうか。

 だったら大和言葉でもだめじゃない?

 

 かくて人工言語の創造に至るのも解決策のひとつであろう。

 私はその方へ行く方々を止めない。むしろ素晴らしさと羨ましさを感じる。

 しかし今の私にそれはできないし、自分にとって現実的かどうかという線で考えると非常に厳しいと言わざるを得ない。*4

 

発想を変えて建前で

 よく考えるまでもなく我々は日本語で作品を発表している。

 これは大前提だ。もし作者が作品世界の言語体系(人工言語)のみで作品を発表できるのならば、その点においてのみは手放しで称賛してもよいが、それでも読者はこちらの世界にいる人間であるという前提は覆らない。*5

 である以上こちらの世界の言語への翻訳はやはり避けられない。

 

 そう、すべては翻訳だ。

 

 仮に作者が作品世界の言語ならびに民族、文化、歴史などを知悉しているのだとしても、その世界の物語や出来事を日本人に伝える以上は日本語に訳さなけれなばならない。

 つまり「完璧な作戦だ」というセリフがあったとしても、これは「完璧」という故事成語が作品世界でそのまま使われているのではなく、作品世界における似た概念の言葉に作者が「完璧」とあてているだけなのである。

 

翻訳の建前=解決ではない

 という「作者翻訳」の建前を持ってくるのが妥協的あるいは現実的*6 な解決法だろう、というのが僕の見解だ。

 

 ただしこれは「どつぼにはまって執筆が詰まってしまうのなら、とりあえず『作者翻訳』の建前でクリアーしておけ」というニュアンスの、大きく書く側に寄った見解である。このあたりは読む側か書く側かで捉え方も大きく異なってくるだろう。また、僕とて何でもかんでも「作者翻訳」で解決できるとは思っていない

 

建前で通じる範囲を考える

 ここからは「作者翻訳」という建前があってもなお違和感を与える可能性がある言葉とは何かを僕なりの指標で考える。なので以下は僕の、それも書く側に寄った感覚だけで語っていく。

「瑞雲」「会釈」

 先述した「瑞雲」に違和感が生じると思われるのは、「瑞雲」が仏教に由来するかどうかは実はあまり関係ない。違和感の大きな原因は「瑞雲」という言葉を我々が日常的に使わないからだろう。しかもそこに西洋ファンタジーという前提があるものだから、なじみのないもの同士が混ざってしまい、結果として大きな食い違いが起こったのだろうと思われる。

 同じ仏教に由来する言葉でも我々が日常的に使いなじんでいる「会釈」や「因縁」であれば、たとい西洋ファンタジーでもそこまで違和感は生まないはずだ。

 

「断末魔」「修羅」

 他方で「断末魔」は日常的に使わないものの、「断末魔の叫び」という言葉は定型的な文章表現と化しているように思われるので、「瑞雲」ほどの違和感は生じにくいのではないだろうか。

 

「修羅」や「羅刹」はどうか。僕個人は仏教色を強く感じるので難しいと感じるが、「作者翻訳」の建前で押し切れそうな気がしないでもない。しかしそれでも漢語的なニュアンスが強いので、修羅ではなく「狂戦士」も検討してみるといいだろう。このあたりは作品個別の色と要相談な気がする。

 

「仏」「完璧」

 死体を指して「仏さん」というのはかなり強い違和感を呼び起こすと思う。「その世界、仏さんいるの?」と。これは「仏」という字面があまりに直接的に仏教(または仏陀)を連想させてしまうのと、死体を仏さんと呼ぶのは現代の刑事ものであるという印象が強すぎるのが大きな原因であろう。

 

 繰り返しになるが「完璧」はどうだろうか。これは大きな問題なく使える気がする。やはり現代の我々が日常的に使う言葉だからだ。

 

スマホ」など現代技術

 ただし日常的に使っている言葉だからといって、地球の現代文明をそのまま連想させるような言葉(スマホ、パソコンなど)となるともちろん採択の基準は変わってくる。当然ながら作品世界の文明に合わせたものを選ぶのがよい。*7

 同様の理由で名詞化した固有名詞や、歴史的な匂いが強い言葉も避けた方がよい。動植物なんかでも発見者の名前がついているものがあるので、ここいらの使えるかどうかの判断は逐次的に行われるべきだろう。

 

日常的かどうか

 ここまで見てきてお分かりいただけたかもしれないが、僕の感覚的判断として、作者翻訳の建前は日常的に用いる言葉かどうかというのが一つの大きな採択基準になっている。

 

 ただこの「日常的に用いる」のニュアンスも少し複雑だ。

 というのも、通常の生活における会話や文章(説明書や書類など)でよく用いる普遍的な語彙と、小説やファンタジー作品の文章でよく見かける作品的な語彙がそれぞれ微妙にずれて存在しているからだ。

 例に挙げた言葉でいえば「完璧」や「因縁」は両方にしっかり収まるが「スマホ」は前者、「断末魔の叫び」「修羅」*8は後者に分類されるだろうか。

 ここで僕が言う「日常的に用いる」はこの両方を指していると考えてほしい。

 

作品に適しているか

 採択の基準でいえばもうひとつ別の観点もある。

 先の例で「瑞雲」にまた登場していただく。この漢語的なニュアンスが強い言葉は西洋ファンタジーにそぐわないのではないか、というのはすでに指摘した通りだ。これはたとえ「瑞雲」という言葉が「小説やファンタジー作品の文章でよく見かける作品的な語彙」であったとしても、実際に作品に使えるかどうかの採択基準はまた別の観点からも求められるということである。

 

 つまりある作品に使える語彙は作品世界(の雰囲気)にも照らして考える必要がある。平たく言えば世界観にあっているかどうかだ。これがうまくかみ合っていないと雰囲気がぶち壊しになってしまう。そしていったん雰囲気がぶち壊しになってしまうと、作品そのものの魅力も大きく減退してしまう。

 たとえば和風な作品であれば宗教用語であっても陰陽道神道由来の言葉を使える範囲は、西洋的な作品よりはぐっと緩和されるだろう。一方で横文字には大きな制限がかかってくる。

 

 先述の「修羅」や「スマホ」もこちらの部分にかかってくる言葉かもしれない。

 たとえば「修羅」は西洋的な作品であれば思い切って「バーサーカー」としてもよいかもしれない。(今度は北欧神話との兼ね合いや、修羅とバーサーカーの比較が生じてくるので、やはりそこも含めて検討しなければならないが。)

 他にも主人公が軍人の作品で「艦橋」とするか「ブリッジ」とするかや、(ファンタジーではないが翻訳という観点で)「COOL!」をそのまま「クール!」とするのか、「いけてる!」とするかといったような事例もこれに当てはまるだろう。

 

固有名詞などの事例

 ここまでは「日常的に用いる言葉かどうか」と「作品の雰囲気に合っているか」という観点から言葉を見てきた。しかし我々が使う言葉には、我々の世界でしか使えない言葉もたくさん存在している。

 繰り返し挙げてきた仏教由来の言葉はその最たる例だ。これらは仏教(伝来)なくしては日本語にならなかった言葉であろう。しかし由来がなんであれ、ほとんどの言葉は年月の経過とともにすっかり定着し、「安心」「ありがとう」のように、もはや仏教のイメージが完全に消えた言葉も存在している。そしてこうしたものは「日常的に用いる言葉かどうか」という判断で見てきた。

 

 一方で我々が日常的に用いていても注意を要する言葉も存在している。

 それがここから取り上げる「固有名詞が名詞化」した言葉と「歴史的な匂いが強い」言葉だ。

 

 ケーキの上部に栗のクリームを巻いた洋菓子を我々は「モンブラン」と呼んでいるが、この名がアルプスの同名の山に由来しているのはよく知られている。つまりモンブラン山がない世界を舞台にした作品では、よしんば同じ形状のケーキが存在したとしても「モンブラン」とは呼ばれない可能性があるわけだ。*9

 そこを「作者翻訳」でモンブランとしてしまってもよいものか、私は一律に判断を下せない。

 忠実に訳せばモン・ブランで「白い山」「白山」などとなるが、これは山の名であってお菓子を指したものではないし、そもそもこのような訳は「オックスフォード」をわざわざ「牛津」「牛の瀬」とするようなもので、現代の日本語に訳するという観点でまた別の違和感が生じる。*10

 

 こうした固有名詞に由来しながらも我々の生活にも定着している言葉は、特定の宗教や分野に関係なく無数に存在している。

 しかし作品世界の強度を守るためにはこの点も疎かにはできない。作品世界(の雰囲気)にも照らして考えるうえでは、このような言葉もしっかりと認識して嗅ぎ分けていく必要があろう。

 

いくらかの事例

 以下で数例、僕の感覚によって「名詞化した固有名詞や、歴史的な匂いが強い言葉」への線引きの判断を示しておく。(といっても具体的な作品世界に基づいて判断するわけではないので保留も多い。)

 

「アキレス腱」「天王山」

「アキレス腱」は使えるかどうか。部位としての言葉とするなら「作者翻訳」でいけそうな気もするが、アキレスがいるのかどうかということになるので、「腱」「かかとの腱」でもよいだろうという気がする。「太公望」「天王山」は固有名詞や歴史的な言葉としての存在感が強いので使わない。

 

難敵「サンドイッチ」

 固有名詞の名詞化という点で「サンドイッチ」は実によい題材だ。

 サンドウィッチ伯爵に由来するという逸話はあまりに広く知られている。そのため読者に「この世界に伯爵いねーだろ」と強い違和感を与える確率はかなり高い。

 いっそ作品世界にも同名の伯爵がいたとするのは……、あまりに牽強付会だし安直な感じがする。そんなことをすれば作品世界の強度が藁きれ同然になってしまいかねない。といってここまで人口に膾炙していると「作者翻訳」の建前でも違和感を減少させられるかどうか。

 しかしパン(ないしパン状のもの)で具をはさんで食べるなんて方法は伯爵が誕生するよりも前からあったわけで、伯爵が世界で初めて発明したものではない。この人はあくまで「サンドイッチ」という名の由来とされているだけだ*11 。なら作品世界における普通名詞としての料理名をつけるのもひとつの手ではないかという気がする。となると個別の作品世界ごとに照らして考えるしかないので保留。

 

「ギロチン」「ドラキュラ」「パパラッチ」

 固有名詞の名詞化の他の例を挙げると「ギロチン」「ドラキュラ」「パパラッチ」あたりだろうか。

 どれも「作者翻訳」の建前で違和感を減らせるのかどうかは怪しい。しかしこれらには「断頭台」「吸血鬼」といった、固有名詞の印象をうまく消せる適切な訳語があるのでそちらを使うのがよいだろう。

「パパラッチ」は難しい。これを無理に和訳すると明治の小説みたいになってしまうので保留だ。無難にいくなら「パパラッチ」という言葉を使わず、その行為で説明する方法だろう。「私生活でさえ一部の過激な報道者に追い回されている。」みたいな。

 

「包丁」はどうだ。この言葉は『荘子』の庖丁が由来という説があるけれど、現代日本でも日常的に用いる言葉なので「作者翻訳」の建前で切り抜けられそうだ。

 

「ジャガイモ」「サツマイモ」

 食べ物で言うと「ジャガイモ」「サツマイモ」は、それぞれ現実の地名ジャカルタ*12 、薩摩に由来しているので使いにくい。といってそれぞれ「馬鈴薯」「甘藷」としてみると、馬鈴薯はともかく甘藷は聞き慣れない人の方が多いだろう。なので「この問題を避けるため無理に訳しました」感が強く出てしまう。難しい。この理屈でいくと「唐辛子」「インゲン豆」なんかも怪しくなってくる。

「かぼちゃ」もそうだ。この呼び方はカンボジアに由来する説がある。といって南京や南瓜、唐茄子にすると今度は中国にぶち当たってしまう。さ、避けられない。

 

 ……語源を知れば知るほど足場が崩れていく気がしないだろうか。

 結局このあたりは作者の読書経験と力加減に委ねられる。

 

「作者翻訳」の建前をくぐりぬけるもの

 ここまで「作者翻訳」の建前でも使いにくいであろう固有名詞の例を挙げてきたが、この建前をほぼ手放しでくぐりぬけられる固有名詞も存在している。

 作品世界の人名と地名である。

 これらは意味を汲んで日本語に訳さずに音のみで表記するはずで、要するに現実における外国の人名や地名と同じ扱いとなってくるだろう。先に挙げたオックスフォードがそうだし、レオンハルトさんは強獅子さんとは訳さないし、コッツウォルズ地方は羊ヶ丘地方とは訳さない。

 

 この作品世界の固有名詞は基本的に訳さないという理屈、一応は人名や地名以外にも転用が可能だ。特に食べ物などには使い勝手がいい。

 先述のモンブランやジャガイモを例にこの理屈を推し進めてみよう。

 

 ある作品世界にモンブランと同じような菓子*13 が存在しており、その世界ではこれを「タレヒコ」*14 と呼んでいるのならば以降はずっと「タレヒコ」を記せばよいのである。ジャガイモにしても作品世界では「スワフ芋」とでもしておけばジャカルタの問題は回避できる。サンドイッチにも同じ方法が使える。

 

なんでもは訳せない

 もっとも私はこの「タレヒコ」「スワフ芋」のような、なんでもかんでも音の表記で済ませる方法は二つの懸念からお勧めしない。

 

 まず「タレヒコ」が作中のお菓子であるとしても、そもそも読者にこの未知の言葉「タレヒコ」とは何なのかを説明しなければならないというのが一点。要するに「タレヒコ」の説明を本文に組みこまないと、この言葉がモンブランを指しているとは読者に伝わらないということだ。

 では本文に組み込むとして、こんな感じだろうか。

「ケーキの上部に栗のクリームを巻いた菓子タレヒコ」

 まあこれぐらいならモンブランだと伝わるかもしれない。

 

 では異世界のジャガイモこと「スワフ芋」はどうか。

「薄黄色で表面にはいくつかのでこぼこがあり、握りこぶしよりやや小さいスワフ芋を使ったもっとも簡単な料理は蒸かし芋だ。ホクホクの食感が楽しめる。」

 これで読者にジャガイモを想像してもらえるだろうか。少なくとも私はこの文章でジャガイモだと伝えられる自信はない。もっと別の簡潔な書き方がいいかもしれないし、調理法よりも栽培方法や放置すると発芽してその芽には毒性が含まれることを伝えたほうがわかってもらいやすいかもしれない。

 

 ただ、どんな音に置き換えるにしても、それがこの世界のものと似たものであるという説明はどこかでしておかないと読者には通じないのではないだろうか。もちろん「『タレヒコ』や『スワフ芋』の説明なんてしなくてもいい、そういう食べ物があるということだけ伝われば十分」というのであればそれでもよいと思う。

 しかし私の性質上、翻訳の建前をとる以上ある程度までは読者に現実の言語との結び付けを担保しておかないと不安になってしまうので、「そういうものがある」だけで押し通す方法はやりたくはない。投げるなら可能な限り正確な制球を心掛けたいのだ。

 

 二つ目の懸念。

「タレヒコ」という言葉を出すとして、その言葉にはどんな意味が込められているのかという設定も考えなければならくなってくるのではないだろうか。「モンブラン」は「白い山」という意味を持っている。では「タレヒコ」は? そもそも「タレヒコ」なのか「タ・レヒコ」なのか「タレ・ヒコ」なのか。

 

「スワフ芋」にしても同じだ。ジャガイモはジャカルタからきているが「スワフ」は何に由来しているのか。作品世界の「スワフ」なる港から輸出されたからだろうか。でもそれまんまジャガイモじゃん、本当に音を置き換えただけじゃん。それ設定したって言えるのか。置き換える意味あるかな。

 

 といってそれぞれの音と作品世界の言語を逐一に当てはめていくと、オリジナルの創作言語を作っているようなものになってくる。元々そこの多大な労を回避するために「作者翻訳」の建前に切り替えたはずなのに、こんなところでかかずらっていては舎本逐末である。

 

 いちいちそういうことをしてどつぼにはまって肝心の作品が進まないのだったら、「作者翻訳」の建前で割り切って「ジャガイモ」でいきましょうと、そういう話をしていたはずだ。

 

 いずれにせよ現在の私はなんでも音で表記して本来の訳部分を疎かにするのには否定的な立場だ。音の表記は人名や地名など、それ以上邦訳できないという範囲にとどめたい。

 

設定次第で

 だけど結局のところこんなものは設定次第である。

 剣と魔法のファンタジーで「モンブラン」なる単語が出てきても、実はその世界は現在よりはるか未来の文明が衰退した世界でしたみたいな設定にしてしまえば、そこには旧世界とのつながりが見えてくるわけで、その言葉を使っていたこと自体にもそれなりの意義が出てくる。(作品上「モンブラン」でそれをする意味があるのかという別の観点からの判断も必要だが。)

 もっともこの記事におけるファンタジーの定義は冒頭に掲げた通り『現在ならび現実と異なる世界を舞台にした作品』なので、現実と地続きである時点で俎上に載せるのは主旨が違っているのだけど。

 

結論?

「作者翻訳」の建前とその言葉の採択基準は、作品世界の強度(雰囲気)をどこまで保ちたいかにかかっている

 その線引きと見極めは、個々の作者の匙加減や作品の特色によってケース・バイ・ケースといえる。ただし線引きと見極めを誤ると作品世界の強度は一気に弱まり、読者の没入度を著しく下げてしまうだろう。端的にいえば作品が安っぽいつくりものに感じられ、もはやそれ以上読む気が失せてしまうということである。

 

 僕は言語学の専門家ではないので「作者翻訳」という建前に拠って問題の半分ぐらいには目をつむるけれど、かといって何でもかんでも「作者翻訳」で解決できるとは思っていない。それはこうした作品世界の強度にの問題が絡んでくるからだ。作品の言葉選びには不断の注意を払うに越したことはない。

 

 ところでここまでは具体的な作品世界を想定せず、ただ漠然と言葉についてのみ取り上げてきた。そのため基準もなく曖昧な部分が多かった。

 

 そもそも「作者翻訳」の建前となる基準は作品固有の性質に依拠するところも大きく、具体的な例なくしては語れない事例も多い。

 そこで次回では具体的な例を示すため、『蒸奇都市倶楽部』のスチームパンク+近代ファンタジーな作品世界に基づいた「作者翻訳」の建前の判断事例をいくつか紹介していく。

 

ks2384ai.hatenablog.jp

 

 

 

*1:SNSほぼ見ない人間という意味。

*2:もっともこうやって逐次に言葉を組み替える作業が行われるのは作品精度を高める推敲時になろう。書き出しからこんな調子では本文が進まない。

*3:恥ずかしながら私は先の「完璧」の由来を数年前まで全く知らなかった。

*4:言語とは民族や歴史、文化と密接なかかわりがある。今の私にはとてもそこまでのものは作れない。

*5:架空言語からこちらの世界の言語に訳することを楽しんでもらう、というのも文章作品の表現としてはありなのだが、それでは話が平行線になるので今回は措く。

*6:現実はしばしば妥協の積み上げにより成り立っている。

*7:作中のオーバーテクノロジーなのかロストテクノロジーなのか、はたまた現代の地球をはるかに上回る技術水準を持っているのかなど。

*8:「修羅場」となると両方

*9:これは主従を違えている可能性がある。そもそも山がなければあの形状のケーキも生まれていない可能性を排除しきれないからだ。

*10:そこまでして「モンブラン」を出したいのかという根本的な疑問はこの話の主旨ではないので考えない。

*11:それにしたって強すぎであるが。

*12:ジャワ島説もあるが以下ではジャカルタ説で話を進める。ちなみにジャカルタもジャワ島にある。

*13:「洋菓子」とすると「和菓子」との対比が前提となって使えなくなるので単に「菓子」としている。

*14:既存の固有名詞に抵触しないであろう適当な音の組み合わせでむろん意味はない。