雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

作品世界の言語について2(シワの見解:監修編)

 ファンタジー小説*1  において、どこまで日本語の熟語は許容されるのか。

 前回はこの問題(?)の僕の基本的な見解を述べた。

ks2384ai.hatenablog.jp

 

「作者翻訳」の建前とその言葉の採択基準は、作品世界の強度(雰囲気)をどこまで保ちたいかにかかっている、というのが概ねの見解であった。同時に作品に使える語彙の基準は、その作品の性格や世界設定など、作品固有の事情にも左右されるという点も触れた。

 

 そこで今回は具体例として、僕が監修を務めるスチームパンク+近代ファンタジーの小説サークル蒸奇都市倶楽部の作品世界を材料にして、作品に使える語彙の話を進めていく。(約1万2千文字)

(※サークルの許可は得ていますが、あくまで監修視点でのお話です。)

 

 そもそもサークルの監修として主に何をしているかについては昨年の記事をご覧いただきたい。

ks2384ai.hatenablog.jp

 

 

 

蒸奇の作品は「監修翻訳」の建前

 まず前提として蒸奇都市倶楽部(以下、蒸奇)の作品や体制を示しておく。

 

 作品の分類(ジャンル?)はスチームパンク+近代ファンタジーとあるが、わかりやすく書くと「大正時代をモデルとした和風ファンタジー」となろう。

 体制としては複数人からなるサークルで、概ね原案(複数の作者)とそれを調整する監修(私=シワ)に分かれている。

 

 そのうえで結論を先に書くと蒸奇の作品は、「作者翻訳」ないし「監修翻訳」の建前で世に出ている。

 

 昨年の記事で監修の役割は各設定を整理、把握して整合性を保ち、原案に手を加えて監修稿をあげることにあると書いた。この役割は当然ながら作品世界を翻訳する部分にもかかってくる。

 そして前回の記事で「作者翻訳」の線引きと見極めは結局のところ作者個々の判断によると述べたが、これは蒸奇も同じだ。監修にあがってくる原案は各々の線引きに従って書かれているが、原案が複数いるため線引きに統一性がない。

 

 こうしたばらつきを一定の判断基準*2 に沿って調整するのも監修の役割のひとつというわけである。作品を一定の質に保つ監修には原案と同様、あるいはそれ以上に翻訳者としての平準的な感覚が求められていると思う。

 

作品世界の捉え方

 もちろん読者の方々においては、蒸奇の作品世界には我々の世界とは異なる民族、歴史、文化、言語が存在していると考えてほしい

 そして原案や監修はそうした作品世界のすべてを、作品世界の強度を維持できる範囲で日本語や別の言語に適宜に訳出する役割を負っている。作中に英語やドイツ語フランス語、ラテン語が出てくるのも、作品世界とこちらの世界の文化や歴史を比較検討したうえで、適切な言語を選択しているつもりである。*3*4

 

 と大仰に書いたが、基本的にこれらも翻訳の建前の範疇だ。

 

 ところで「なぜ原案の段階で翻訳の基準を設けておかないのか」という疑問を持たれる方もいるかもしれない。また似た疑問として「監修の翻訳の基準を内部に示していないのか」というものもあると思う。

 確かにそうした翻訳の基準をあらかじめ示しておくことで、監修による調整の手間が省けるだろう。

 これについて検討したことはあるが、現実的ではないという考えに行き着いてしまった。常用漢字表や辞書のように一覧的に作ること自体に非常な労力と時間がかかってしまうのだ。

 なので現在はサークルメンバーに信任してもらうという形で監修にちょっと強い権限を持たせてもらい、基本は監修の基準に沿った翻訳と調整を行い、その意図*5 を説明して承認してもらう形で対応している。(もっとも必ずしも監修が強いわけではない。その例も後で挙げている。)

 

蒸気の作品固有の性質

 作品に使える語彙は作者翻訳の建前とは別に、作品固有の性質によるところも大きいというのは前回述べた。蒸奇の作品でいえばスチームパンクと近代ファンタジーの部分が固有の性質となろう。わけても「近代」部分は監修としての翻訳面において大きな割合を占めている。

 ここでの近代は日本史の区分、すなわち明治、大正、戦前昭和を指す。中でも蒸奇は大正から戦前昭和の雰囲気を拾い上げたファンタジーとしてとらえてほしい。作品に使われる語彙の一部はこの時代に書かれたものから採取している。

 

 以下ではそうした蒸奇の作品世界に照らした監修翻訳の判断例を示していく。

 

「監修翻訳」の大まかな指標

 具体的個別的に内示できる基準はないとしたが大きな指標はある。基本的には前回の記事で示したもの、つまり「日常的に用いない言葉」「宗教的な用語」「ことわざや故事成語」「人名由来の固有名詞」「固有名詞由来の普通名詞」などは特に注意して使ってほしいというものである。

 これらを取りまとめた監修翻訳の大まかな指標は以下の通りとなる。

 

(1)特定のイメージ*6 が薄い

(2)ある概念を指すものとして普遍的に使用できる

(3)作品世界の文化を考慮した際に使っても差し支えはない

 

具体例

 三つの指標に照らして判断している事例を紹介しておく。

ケース1:「仏」と「蜘蛛の糸

 ある原案で刑事が死体を「仏」と呼んでいた。また別の原案では、我先にと逃げ出したものがろくでもない目に遭うという状況に「蜘蛛の糸」というたとえを用いていたが、いずれも別の言葉や言い回しに差し替えた。

 これらが不許可となったのは(1)を判断根拠としている。仏教や芥川龍之介の作品*7 のイメージがあまりに強すぎるのだ。加えて「蜘蛛の糸」に関しては慣用句ではないので、喩えに用いるのに適切だとは思われなかった。

 

 特に印象に残っている例として仏教色の強い言葉が重なったが、三つの方向性に示した通り、監修としては仏教的な言葉を一律に排しているわけではない。実際に「彼岸」や「縁」「因縁」や「業」といった言葉は許容している。

ケース2:「彼岸」

 さてその「彼岸」である。死後の世界という概念だけであれば「あの世」というもっと宗教色の薄い言葉がある。前回の記事のように言葉だけを抜き出した場合、私ならばグレー判定としているだろう。

 しかしそこを許容したのは、(2)(3)を踏まえて蒸奇の作品世界に照らしたときに、似た概念や文化が浸透しているという判断が働いたためである。むろんこれはイコールで作品世界に仏教が存在しているというわけでもない。「縁」や「業」など他の言葉も同様である。

ケース3:「敵に塩を送る」「瓜田に履を納れず」

 史実であるかどうかは別として戦国時代の故事に由来する慣用句。これも(1)に基づき不許可とし、たとえ敵対している相手であっても苦しい時には助勢する、といったニュアンスの文章表現に改めてもらった。

 

 また似たような事例に『暗翳の火床』97p(これは私が原案も担当しているので作品名とページ数を示しておく)に「草履の緒が切れてもすいか畑では屈まない」という作品世界における慣用句が用いられている。我々の世界でいう「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」の前半の部分であるが、そのままではやはり中国の故事成語との兼ね合いが生じるので、ニュアンスを維持しつつ別の言い回しとすることで作品世界の慣用句という体の味付けも行った。つまり指標(1)の問題があるため指標(2)に沿う形に少し改めた形である。

 

「敵に塩を送る」についても、ニュアンスを維持した別の言い回しを案出するかどうかを原案に問い合わせたが、そういった慣用句を考える方が時間がかかるとの回答を得られたため文章で表現する方法をとった。

 

作品世界の文化や概念として

 指標(3)について。

 特定の言葉は「作品世界の文化を考慮した際に使っても差し支えはない」と判断すれば使ってもよいとしているが、これらの匙加減はなかなか難しい。

 これらをあまりに都合よく考慮しすぎると、極端な話「この世界にも『仏』みたいな存在がいるのだから『仏』を使ってもいい」とか「『蜘蛛の糸』のような話があったことにすればいい」となるからだ。いや、もっといえば「芥川龍之介がいたことにすればいい」ともなりかねない。

 

 僕自身はこういうなんでもありな状態は好きではない。

 ただ、この「好きではない」は感情的な問題だから、何かしらの理や設定によって使用されるのならば反対はできない。もっともこの記事は僕が影響を行使しうる蒸奇の作品世界に限っての話なので、なんでもありな状態への懸念は掘り下げない。蒸奇の作品については強引な形での(3)の適用は行われないであろう。

 

 ただ、蒸奇の作品はなんでもありな状態ではないですよということを、読者には作品を読んだだけでわかってもらえるようにはしておかないと不親切ではある。(=この記事に目を通していることを前提にしてはいけない。)

 要するに(3)に基づいて現実の世界の言葉を借用する場合、読者にもある程度は「作品世界の文化を考慮」してもらえるような書き方や説明がなされるべきだと考えている。

「教会」にまつわる言葉

 たとえば『鐵と金剛』では宗教組織として「教会」の名が登場する。

 この宗教は救世主や最後の審判的な終末論を掲げているなどの要素から、我々の世界のキリスト教、特にカトリックをモデルに翻訳しており、作中では「審判の時」や「煉獄」「秘蹟サクラメント)」といった言葉を借用している。

 これらは作品世界の「教会」における基本的な概念とカトリックを比較し、その用語を使用しても大きな違いはないと判断したためだ。といって完全に借用元の概念がそのまま通用するというわけでもなく、作品世界における独自の意味や捉え方(平たく言えば設定)はまた別に存在している。

 しかし残念ながら『鐵と金剛』は「教会」そのものに焦点をあてた作品ではないので、これらの作品世界における意味は作中ではまったく説明されず、「雰囲気を出すためそれっぽい言葉を借用している」という範囲にとどまってしまっている。(教会そのものは「異なる文化圏における最大の宗教組織」といったニュアンスの説明がなされている。)

 

 このように「作品世界の文化」について、言語や概念といったレベルで深く触れて説明している作品がほとんどないのが現状だ。これは物語のセオリーに従って、本筋を理解するうえで必要と思われる部分だけ補足する形にとどめているためだ。

説明として必要か不要か

 作品に必要な説明と不要な説明(=余談)」の均衡をどう保つのか、というのも監修の仕事のひとつだと考えている。作品の焦点を文化や歴史に当てていないのにそういった部分に触れてしまえば余談ばかりになってしまう。一方で本筋に必要な説明だけで「作品世界の文化を考慮」してもらえるような書き方や説明が十分になされているとも考えていない。

 そうした状態を解消するには様々な側面から光を当てるしかない。ある作品では不要な説明と判断した部分についても、いずれ別の作品で触れてみせるなどして「作品世界に根付いたもの」であることを示さなければならないと考えている。

 作品内に作品世界独特の言葉や用語をぽんと置いただけでは雰囲気も背景も色も匂いもしないのである。

 

自分の失敗例 

 以下では自分の翻訳の手際の悪さを挙げる。

 

 前回の記事で「サンドイッチ」を例に挙げたが、これ、僕自身が蒸奇の作品でやらかしてしまっているのである。自分のことなので具体的に例示しておく。

 

 2013年発行の蒸奇最初の同人誌『第一号 幻影機関』に掲載されている『暗翳の火床』でそれぞれ、

紅茶はすすめられるままにロンヌノワウルという舌を噛みそうな品種。軽食はサンドヰッチ。(119p)

冷たい石造りの床に暖かな液体が撒き散らされる。彼女が最後に口にしたのは老技師と喫茶店で摂った中食のサンドヰッチと紅茶だったろうか。(279p)

 と書いてしまっている。当時はまだ監修ではなかったのだが、いずれにせよ僕が自分で書いて自分で通してるのだから手落ちもいいところ。

 

 ただ言い訳をさせてもらうと、こういった失敗と苦い思いをしたからこそ、より注意を払って改善していけるものとも考えている。

 

 2019年発行の文庫版『暗翳の火床』では同様の場所を、

女給が注文を運んできて、紅茶はロンヌノワールだと説明する。舌を噛みそうな銘柄だ。(22p

 サンドイッチの注文そのものがなかったように修正し、

冷たい床に暖かな液体がびちゃびちゃ撒き散らされる。(206p

 と、こちらでも触れていない。修正に躊躇はなかった。物語上の必然性はゲロを吐くことにあり、サンドイッチを食べることにはなかったからである。

 

 また紅茶も「ロンヌノワウル」から「ロンヌノワール」に、「品種」も「銘柄」へと書き換えている。その意図も説明しておこう。

 

 まず「ロンヌノワウル」が「ロンヌノワール」になっているのは、2013年版では表記を優先しているのに対し、文庫版では聞き手が耳にした音を優先した表記に改めたからだ。(2013年版では「洗濯機」を「せんたくき」と書き、文庫版では「せんたっき」と書いているわけである。)これは場面のメインの登場人物である聞き手が紅茶の名称に疎い人物であるという効果を狙ったものである。

 品種を銘柄にしているのは単純なミスゆえだ。ここで触れている「ロンヌノワウル」は産地にすぎないので銘柄のほうが適切だと気付いて書き直した。*8

 

翻訳の甘さ

 僕に関して言うと、初期の作品にはこうした翻訳の甘さ(ずばり言ってしまえば作品世界の作りこみの甘さ)が目立つ。

 当時は翻訳や作品世界の作りこみよりも、ともかくスチームパンク風や近代ファンタジーの雰囲気を出すのを優先していたためだ。サンドイッチをサンド「ヰ」ッチと旧字にしているのもその証だ。そんなこと以前にもっと重要な部分を考えるべきだと当時の私に言っておく。

 

 同様に翻訳(作りこみ)の甘い例として、2013年版の『暗翳の火床』にはバロック様式*9 や、金生山璽松院(かのうざんじしょういん)といった具体的な寺院名までも出ているありさま。

 こういった部分も文庫化にあたってすべて消している。これは監修として作品全体を見るようになるとともに、原案とともに作品世界を作りこむ過程で、作品上であまり詳細に触れられない歴史や文化といった面に大きな見直しが入ったためだ。

 

 今後も自省して監修に努めたい。

 取りこぼしがあった際にはご容赦願いたい。

 

作品世界の固有名詞

 蒸奇の作品では一部の人名と地名(前回の記事でも触れた作者翻訳の建前をくぐりぬけられる固有名詞)は音をカナで記述している。上述した「ロンヌノワウル」がその例だ。紅茶の産地名なので翻訳のしようがないため作品世界での発音をカナ表記とした。そのため現実の世界にはおそらく存在しない地名になっている。

 

 人名の例では『鐵と金剛』の登場人物「リーゼル」「クァナ」が音のカナ表記。彼らの名は作品世界に固有のものなので訳せなかった。他方同じ作品の登場人物「三堂鐡志」は「ミドウ・テツシ」などとせず漢字表記となっている。これは作品世界の文化や歴史ならびリーゼルやクァナとの対比を考慮したうえで漢字になったと考えてほしい。

 ただ漢字表記ではあっても表意というよりも表音に基づく表記に近い。山本という苗字を見ても「山のふもと」とは考えないだろうし、辻という苗字からわざわざ「交差点」を連想しないのと同じで、由来や組み合わせが何を現しているかまでさかのぼっては考えないはずだ。山本さん辻さんとそれぞれひとつの苗字として受け取るだろう。三堂にしてもこの方法で通じると判断したという部分もある。

 

 このように地名や人名を作品世界の言語のまま音で表記している関係上、作中の翻訳とのねじれも生じてしまっている。

 具体的な例で言うと上記の「リーゼル」「クァナ」が関係する文化には概ねラテン語を充てているが、その二人の名前は作品世界の音をそのままカナ表記しているのでラテン語ではない。

 ロンヌノワウルもそうだ。この土地を含む植民地の言葉には英語が充てられている(正確には植民地の公用語という設定だ)が、ロンヌノワウルは完全に作品世界の言葉だ。現地の人の言語で「颪(おろし)の高台」みたいな意味である。

 いずれも部分的な人工言語といってよいだろう。

 

 こうした翻訳のねじれはどこまで翻訳するかという問題と表裏一体だと考えている。先の項で『作品内に作品世界独特の言葉や用語をぽんと置いただけでは雰囲気も背景も色も匂いもしない』と書いたが、もちろんこの地名などにも同じ指摘があてははまる。

 監修としては可能な限り全力で、こうした部分からも異なる世界や国の雰囲気を感じられるような焦点の当て方を模索、実行していきたいと考えている。

 

モンブラン」と「スワフ芋」

 固有名詞の例。

 前回の記事と比較するため再び「モンブラン」と「スワフ芋」に登場していただく。これらの言葉を蒸奇の作品で使おうとした場合に監修は許容するのかどうか。(ちなみに2020年時点での蒸奇の作品にこれらの言葉は出ていない。このことはしっかり抑えておいてほしい。)

 

 結論から言うと「モンブラン」はあり得るが「スワフ芋」は不明である。

 

 まずモンブラン

 これが可能性としてあり得るのは、作品世界のある言語にフランス語を充てているからだ。そして雪を被った山に「白い山」といった名を付けるのは人間の普遍的な発想*10 らしいから、そのため蒸奇の世界に「モンブラン」という山が存在する可能性は否定できない。

 よしモンブラン山が存在するとして、今度はこの名が作品世界のお菓子にも付けられるのかどうかという問題をクリアーしなければならない。またそこをクリアーしても今度は作品世界の「モンブラン」が現実のモンブランと同じものなのかどうかという問題も立ちふさがってくる。

 これ以上の検討はいたずらに長くなるので避けるが、出すにしてもこういった検討を重ねたすえに判断を下さなければならない言葉だとは思うので、翻訳言語の可能性からあり得るとの回答にいたった次第である。

 

 続いてスワフ芋。

 現時点でジャガイモにあたる食物を出しておらず、従って設定もされていない。そのため言及不可能でわからないとしか言いようがない。ただジャカルタとの兼ね合いで慎重に検討しなければならないだろうし、スワフ芋にするとしても前回の記事で述べたように作品世界における「スワフ」の意味が必要になってくるのではないだろうか。ここで作品世界の設定まで含めて結論を下すのは難しい例題だ。

 ジャガイモは米や小麦、トウモロコシに並ぶ世界四大作物のひとつでヨーロッパ史を語るうえで欠かせない食糧だ。存在そのものにせよ音だけにせよ置き換えるのが非常に難しい立ち位置にある。産業革命期(すなわちスチームパンクの母体のひとつ)のイギリスにおいても下層階級の人間にとって非常に重要な食糧であったという。*11

 というこの余談は本末転倒である。

 

 いずれももっと正直に回答するのならば「モンブランもスワフ芋も現時点では蒸奇の作品世界に存在するか検討されたことがなく、設定として存在していない。存在していない設定への回答は不可能」となる。

 

 しかしいずれにせよ、食べ物ひとつにも文化や歴史が詰まっているわけで、おそらくそれはスワフ芋にしても同じこと。適当な音を充てれば設定が生えてくるというものではない。

 もっとも先述した人名や「ロンヌノワウル」といった音だけの表記例も存在しているので、このあたりは本当に一本筋の通った理屈や原理を通せているわけではない。線引きの難しさを実感している。

 

元ネタがあるのかどうかは確認

 ところで原案には「作品世界の固有名詞を使う場合、もし元ネタがあるなら絶対に教えてください」と伝えている。これは「スワフ芋」なる単語を出されたときに、それがジャガイモの置き換えなのか、作品世界にしか存在しない完全に架空の芋なのかをしっかり把握しておかなければならないからである。前者と後者では検討すべき事柄が違うため、監修として齟齬なく認識しておくことは重要だ。

 原案の意図する言葉の使い方は可能な限り正確につかんでおかなければならない。偉そうに監修とはいってもけして博学の人間ではないのはこの記事でも十分証明されているだろう。

 

その他の翻訳事例

 以下は三つの指標に照らした翻訳からは少しずれるが、似たような領域の話題。

蒸気自動車

 私は監修として「蒸気自動車」という言葉にも難色を示している。

 というのも、作品世界の自動車は蒸気機関で動くものしか存在しないからだ。蒸気自動車は蒸気機関以外で動く自動車が登場して初めてそのように名付けられるレトロニムである。そういう意味では蒸気機関車も厳密には機関車とするのがよい。他方、同じ乗り物でも蒸気船がOKなのは、すでに手漕ぎの船や帆船が存在していたからだ。

 

 となると「蒸気機関は機関か?」となるが、これは「機関」という言葉に動力をエネルギーに変えるものという意味合いが含まれており、そうした中で特に蒸気で稼働するものをさして蒸気機関と呼ぶため「機関」にはしていない。ただこの意味での機関は「engine」の訳語であるし、その「engine」も元は「steam engine」を含意していたという話もあって突き詰めると怪しくなってくる。

 もっとも日本語の「機関」の方に他の意味が含まれているので、それらとの区別のためにやはり「蒸気機関」とするのが適切ではないかと思っている。

 

 しかし蒸奇の作品には実際に「蒸気自動車」ないし「蒸気機関式自動車」という言葉が使われているものもある。これは監修と原案で話し合った結果だ。

 すでに書いたように私は「蒸気自動車」という言葉に否定的であるから、原案の文言から「蒸気」を削ろうとしたが「そこは残してほしい」という要望があがってきた。理由を聞けば「エクスキューズ(弁明)として入れたい」とのこと。つまり「作品世界の自動車は蒸気機関で動いているものです」ということを「『蒸気』自動車」という言葉でもって充てたいという次第であった。

 

 これについてよく話し合った結果、原案の言うことももっともであったし、監修として「蒸気機関車」もすでに通している中で自動車だけを跳ね除ける強い理由もなかったので「蒸気自動車」で了承した。必ずしも監修が強い権限で一律に判断しているわけではない一幕だ。

 

 他方で最初から「自動車」「機関車」で統一されている作品も存在している。私が書いているものは先述のレトロニムの観点からその傾向が強い。(「汽車」表記もある。「汽車」は「汽船」すなわち蒸汽船から生まれた表記と聞いているので、使用しても差し支えがないと判断した。)*12

 このあたりはサークルのメンバーに自由にやってもらう方向性との兼ね合いもある。サークル内部で統一的な翻訳基準を設けていない理由のひとつでもある。

 

世界を指す言葉

 ところで蒸奇の作品世界には、その世界そのものを指す言葉も存在していない。

 理由は明確で、そんな言葉や概念があちらに存在しないからだ。

 これは我々を例に照らして導かれた理由である。つまり現在の僕たちはこの地球を含めた、全宇宙を包括する世界を指す言葉を持っているだろうか?

 

「そんな法則はこの宇宙には存在しない!」

「世界にひとつとない存在だ!」

 

 こんな言い方はするので、宇宙や世界がそれに近い言葉なのだろう。

 しかし「我々が住む世界は宇宙と呼ばれている。」とか「僕たちはここを世界と呼んでいる。」だなんて物語的な説明をされても、僕にはまったくピンとこない。

 これは「蒸気自動車」と同じで比較対象がないからだ。

 つまり「この世界」そのものに名前を付ける必要性は「この世界でない世界」、すなわち異世界の存在を確認してからでないと生じないわけで、世界に名前を付けることもまたレトロニムなのである。

 

 そうはいっても作品には読者という観測者がいるじゃないか、と思われるかもしれないが、作品世界(作中)の人間(登場人物)が読者の存在を認識しているわけではないので、観測者の有無は世界に名をつけるかどうかとは関係がない話だ。

 そして蒸奇都市倶楽部というサークルが、あの世界を翻訳しているという立場をとる以上、あの世界に名前が付くことはないと思われる。もっともこれは翻訳も兼ねる監修の願望とわがままでもある。つまり作中世界にない概念を作ってまでラベルを貼りたくはない、という。

 

 もっとも蒸奇都市倶楽部が刊行する一連の作品群をどう呼ぶかは難しい問題ではない。このサークルは現状あの世界の物語しか翻訳していないのだから、「蒸奇都市倶楽部」というサークル名ないし「蒸奇の刊行物」という事実それ自体が一種の焼き印になっているわけである。*13

 

結に変えて

 ファンタジーな世界を舞台とする作品では作者翻訳の建前を通すにしても、作品世界に基づく語彙制約の問題は避けて通れないという前提のもと、蒸奇都市倶楽部の作品世界を例にあれこれを見てきた。特定のサークルだけを事例としたが、近代ファンタジーという前提を最初に示し、読んでいない人にもなんとなく理解できるように書いてきたつもりだが、どうだったろうか。

 

 わからなければ作品を買ってください、と厚顔に宣伝するつもりはない。

 しかし小説の語彙について語るには、具体的な例や個別の事例に照らさなければ見えてこない点もある、ということは示せたのではないだろうか。

 

 とはいえ、これらは個々の製作者の匙加減によるところが大きい。

 繰り返しになるがこの極論も併記しておこう。

 

 

 現実と異なる世界を舞台とする作品を書くにあたって、作品世界の我々と異なる民族や宗教、言語をどのように書くか、訳すかという問題は多かれ少なかれ避けられないものだろう。

 そういった作品の中で使える語彙を考えるということは、自分がどれだけ他の言語や文化を知っているかということに等しいと思っている。作者という立場をとるにせよ、翻訳者という立場をとるにせよ、様々な言語の辞書やモデルとなる地域の文化を学ぶため参考文献と付きっきりになるだろう。

 私としてはそうした参考文献との付き合いや学びも、小説を書くうえで味わえる楽しさのひとつだと考えている。思うに未知のものを自ら進んで学んでいく楽しさは、たとえそれが現実であろうと小説の中の世界であろうと変わりないのだろう。

 

 ところで使用する言葉に注意を払うのは、なにも翻訳の建前を持ってくるファンタジー作品の特権ではない。確かに現実を舞台にする小説には翻訳の必要性は生じないだろう。

 しかしどこを舞台にするにしても小説が言葉でつづられる創作物である点は変わりない。そしてその性質上、常に言葉や行間で場面や人物の解像度や画角、ピントを合わせる必要性に駆られており、であれば小説には本質的に現実と異世界の壁などありはしないことになる。

 これは小説が言語作品である以上避けられない性質である。

 なので言葉の使用に細心の注意を払うのはどんな作品であっても同じだ。

 

 と、最後にファンタジーとそうでないものの壁を取り払って筆を措くとしよう。

 

 

*1:前回に引き続き「現在・現実と異なる世界を舞台にした作品」と大雑把に定義しておく。

*2:「一人の判断基準」とする方がより正確だろう。

*3:蒸奇の作品世界は民族や文化圏ごとに言語が異なるという現実とほぼ同じ構造をしている。

*4:敢えて触れておくと、この説明はもちろん主従を違えている。本来の順序としては我々の世界を参照して世界設定を作っているからだ。

*5:なぜその言葉を用いたのか、あるいは原案の言葉を別の言葉に置き換えたのかといった、ある言葉を使用する目的。

*6:個人や団体ならび歴史など、現実の世界に由来するもの。

*7:蜘蛛の糸」の出典と芥川龍之介の翻案については承知しているが、ここで触れると長くなるしそれ以前の話なので割愛する。

*8:補足しておくと「ロンヌノワウル」は作品世界における産地(固有名詞)なので置き換え不可能。

*9:作中では「バロック・オルタズム」とちょっと独自感を出そうと浅いことをしている。

*10:「白山」「白頭山」「アルペン」「カフカスクロウカシス)」「ダウラギリ」「マウナケア」など。

*11:これらの知識は『ジャガイモのきた道』山本紀夫(岩波新書)に依っている。→

ジャガイモのきた道: 文明・飢饉・戦争 (岩波新書) | 山本 紀夫 |本 | 通販 | Amazon

*12:明治には機関車を「陸蒸気」(おかじょうき)と呼んだのを知っている人も多いと思うが、これも乗り物としては「陸でない蒸気」すなわち蒸気船が先行していたことからついた呼び名であるという。

*13:ただ、何かしらの呼称をつける必然性、必要性が生じればつける可能性は否定できない。