雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『悪魔の機械』

 蒸奇都市倶楽部の監修を務めてもいる手前、たまにはスチームパンク作品の感想も紹介がてら書いておこうと思う。スチームパンク作品の感想が今後も続くかわからないが最初は「スチームパンク」という言葉を生んだ作品も感想を。

 

悪魔の機械

K・W・ジーター、大伴墨人(訳)

ハヤカワ文庫〈FT128〉

(1989年8月20日印刷/31日発行)

不肖の息子とはよくいったもので、ダウアーは天才発明家だった父の築いた評判を落とすことしか能のない時計職人だった。この出来の悪い男の店に、ある日、黒い肌の怪人物が出現。父の作った得体の知れぬ科学機械を修繕してほしいという。しかし前金として銀貨を置いていったが、これがまた男の容貌にひけを取らぬほど奇妙な代物。あまつさえ、この仕事を引き受けたことから、ダウアーの身辺の奇怪な事件が起こり始めた!霧と煤煙にけぶるヴィクトリア朝の英国を舞台に奇人・怪人・狂人、果ては海底人までが暴れまわるスチームパンクの傑作。

カバー表4のあらすじより引用

 

 

 初めて読んだのは6年ちょっと前。ただ、その時の感想が「よい」と一言記されていたきりなので、今回はしっかりと感想を書ていおく。

全体について

 随所に新たな謎と盛り上がりどころが布置されており、大衆小説としての娯楽性はかなり高いと感じた。

 どこか緊張感のない巻き込まれ型主人公ダウアーをはじめ、青い色眼鏡をかけた山師と妖しい美女、護国卿にさかのぼる由来を持つ〈神聖防衛隊〉なる清教徒の秘密結社、讃美歌を奏でる〈ダウアー式自動人形聖歌隊〉、音楽に秀でる絶倫機械人形〈バガニニコン〉、海底の水棲種族、地球外生命体と〈ヘルメス航宙球〉、そして題名となっている悪魔の機械。

 こうしたものが次から次へ出てはつながり絡まって、さながら塊魂*1 のごとく色々と雑多に張り付けて話が進むごちゃまぜ感が楽しい。

 

 終盤では相対する登場人物の立ち位置が何度かひっくり返るのだが、これについては謎の解明をするために入れたひっくり返し方で、やや唐突に感じられた。

 一方でダウアーの奮起というか一念発起で世界を救う(?)展開のギミックは一見すると馬鹿げているようで、しかし作中の設定に対して十分な説得力を備えているあたり、技巧が光っているなあと。

 

ダウアーという主人公

 主人公のダウアーは作中でもはっきり「鈍感な男」「この上なく鈍感な精神の持ち主」と評され、特殊な技能に秀でているわけでもない凡庸な人物として描かれている。各種の新事実に触れるにつけてもその際の頭の働きは鈍く、「……つまり?」「それは一体どういうことでしょうか」といった返答をする。この反応自体は読者に分かりやすい説明を示すための導線でもあるのだが、それがダウアー自身の鈍感さを表現してもいるわけだ。

 

 作品の筋書きは冒険活劇であるのだが、ダウアーが主人公らしくこれといった目覚ましい活躍をするでもなく、切った張ったをするでもなく、ただただ主人公特有の悪運の強さを発揮して事態をくぐり抜けていく(というかほぼほぼ事態に流されていく)。いや、ダウアー自身は自分でそれなりに行動を起こすのだが、それがほとんど奏功しないで空回りしてしまうのだ。

 ダウアーがなにか行動して大きな成果を遂げるのはそれこそ最後の地球を救うにあたってのある儀式であるが、それも果たして彼が主体的に行ったのかといわれると疑問を感じる展開である。しかしここにこそダウアーという主人公の絶妙な凡庸さが凝縮されている気がする。

 この作品は後日にダウアーのが記す回顧録という結構だがその締めくくり、地球を救う儀式を経たダウアーの記述にはどこか哀切さを感じさせてくれる。

 

ヴィクトリア朝を舞台にした架空の歴史もの

 さて、作中の時代がヴィクトリア朝(およそ19世紀後半)ということで、むろんその時代の雰囲気も作品に織り込まれている。

 つまり実質的な栄華と極度の見栄、正義ぶった建前とそこから乖離した現実、退廃しながらもたくましい下層民といかれながらも富と権力を持つ上層民、しかしその両者に通底する十九世紀的な社会性、宗教的な抑圧の強さなど、そういったものがダウアーを取り巻いているのだ。

 特におかしいのが「紳士的な振る舞いをしていれば大丈夫、危害は加えられない」という、現代の感覚からすると不可解にも見える妙な自信である。もちろんこれは世界に植民地を持つ「太陽の沈まない帝国」の栄えある一員であるというところから来ている。

 このおかしな自信が最も顕著に表れているセリフに次のものがある。

「わしが貴族であり、尊敬さるべき大英帝国市民であることが分かれば、彼らとて最大限の敬意を払おうというもの」(234p

 ここの「彼ら」は地球外生命体を指している。大英帝国の威光は宇宙人にまで届くようだ。ここまで過剰だともはやギャグである。というか、そういう狙いで書かれた部分ではないかと思う。

 なにせこの作品が書かれたのは1987年で、作者のジーターは1950年生まれのアメリカ人だ。イギリスの植民地がほぼ独立した時代に、(おそらく最初に)英国から独立した米国の人間が書いているわけで、作中の英国人に関する描写のいくらかは戯画化されているようにも読める。*2

 一方であの時代の道徳や価値観を他の本などからおおよそ学んだ身として*3 考えると、戯画化といってもそこまで極端なものではないようにも見えてくるから不思議なものだ。

 

当時の英国文化に関する参考文献など

以下、参考文献を挟んで大きなネタバレを含む部分になります。

 

ks2384ai.hatenablog.jp

ks2384ai.hatenablog.jp

ks2384ai.hatenablog.jp

 

 

 

ネタバレエリア

ダウアーという男

 表紙は半分ぐらいネタバレしてると思う。

 

 主人公のダウアー君が生まれてきた理由がなかなか倫理観が狂っていて素敵だ。

 ダウアーという生身の人間がこの世に生を受けたのは、親父が作成した機械人形を完成させるためであった。まるで同時代に存在したという乳母になるために産み落とされた子供*4 である。作中で「この上なく鈍感な精神の持ち主」とまで書かれたのも、そういった性質の子供が持つように親父が配偶者を選んだからだという。

 これが父親のマッドサイエンティストっぷりを強調するエピソードであるのは間違いないが、同時に自らの出生の秘密を聞いたダウアー自身も、衝撃の事実を前に呆然とするものの取り乱すような描写もなく、いよいよ彼の物事に巻き込まれても動揺しない鈍感きわまる男としての側面が強調されてもいる。その鈍感ぶりはもはや凡庸の域を超えており、「この主人公もなかなか狂ってねえか?」と思わせてくれる秀逸な見せ方をしている。*5

 

 そして地球を救うエピソードにおいて、ここまで読者の中に築いてきた『鈍感な精神を持つ主人公』という像を突き破っていく。予想の斜め上の方向に*6

 こういった彼の性質と展開の組み合わせが作品の面白さの肝だといえよう。もしダウアーがリーダー気質な人物であったならこの展開にここまでの面白みは生じなかっただろう。

 

ヴィクトリア朝である意味

 ところで繰り返しになるが、この作品が書かれたのは1987年、作中の時代よりおよそ1世紀後に書かれている。

 と、こう繰り返し書いたのには訳がある。

 

 山師スケープは特徴的なセリフ回しや作中での奔走ぶりと一部で狂言回しも兼ねることから、本作で最も強い印象を残してくれるが、実は彼、ダウアーの父が発明した機械で未来を見たという人物なのである。そう、彼が見た未来というのは他ならぬ現代(=おそらく作品が書かれた冷戦当時)だ。

 つまりここにきて『悪魔の機械』は「作品が書かれた時代は作中の未来」という、歴史ものにとっての当たり前が作品に作用するひとつの仕掛けになっていたことが判明するわけだ。この構造の巧みな利用に私は膝を打った。

 

「俺たちの孫の時代には、誰でもこんな風に喋るようになるのさ。」(346p

 スケープのセリフ回し*7 は、未来を見すぎたためその影響を強く受けた結果だという。あれは単なる安っぽいキャラ付けではなかったのだ。戦後にヴィクトリア朝という過去を舞台にして書かれた意味のひとつが、きっちり設定として組み込まれている、その巧みさが良い。

 

 地球が破壊されるかもしれないと慌てるダウアーをスケープは笑い飛ばす。

「何せ未来の人間共は、みんなが皆、地球をブッ壊したがってんのさ!」(347p

 未来の人類は地球が壊れるようなことをしている。冷戦、核戦争の危機、環境の破壊、そういったものが示唆されているように思えた。

 

「これが未来のやり方だわ、体裁なんて気にしない。いい、未来の女はね、欲しいものは自分の力で手に入れるの」(351p

 19世紀後半の女性が言うと実に新進的で力強さ逞しさを感じさせる言葉であるが、実は彼女も冷戦期の未来を見たという設定が加わると、異質な説得力というか、現実に裏打ちされた別種の力強さが宿ってくる。むろんそのように見えるのは我々が(作中の)未来に立っているからに他ならない。

 

 そうして読み返すと、現代との比較的な視点が随所に忍ばされているようにも読めてくる。

 いや、もしかするとそれは作品に仕掛けられているのではなく、『現代の我々』が過去を読む際に必然的に生じてしまう画角であるのかもしれない。

 ヴィクトリア朝が戯画化されて見えるのは、我々が当時の人間ではないからではないだろうか。

 未来を見たスケープがダウアーからは奇妙に見えてしまうのもその画角の違いによるものだろう。

 

スチームパンクの醍醐味の一つ

 しかし『地球をブッ壊したが』るような科学は彼らの時代にすでに萌していた。

 海底にすむ水棲種族は人類の経済活動に伴う環境破壊によりほぼ絶滅し、人類と混血して生き残っていた人々も、好き者のためロンドンに連れ去られ娼婦にさせられるという退廃きわまる形で利用されていたのである。

 

 人間による自然の破壊と搾取。

 そのテーマ自体は珍しいものではなかったろう。しかしその舞台を未来や宇宙、荒廃した地球ではなく、あえてヴィクトリア朝に置くことによって、また違った角度から光を当てることに成功したのが『悪魔の機械』という作品ではないだろうか。

 

 起こり得るかもしれない未来を、起こり得たかもしれない過去として仮託する。

 これこそ『悪魔の機械』の、いや、SFにおいて架空の歴史やレトロな感じをかもすスチームパンクの醍醐味の一つではないだろうか。*8

 

スチームパンクという名称を生むきっかけ?

 ここまでいろいろと感想を書いてきたが、この『悪魔の機械』という作品は「スチームパンク」という言葉を生んだきっかけとして語られることもある。

 

 本書の解説には以下のように書かれている。

(前略)場所はおもにロンドン、時は十九世紀、ヴィクトリア女王の統治下。その灰色のヴェール、煤煙と霧に覆われたロンドンで(中略)驚くべき機械の数々が、このとんでもない冒険活劇を彩ります。

 ……というとピンとくる人もいるでしょう。これはかのマッド・ヴィクトリアン・ファンタジィ、別名スチームパンクの典型にあげられている作品なのです。

『悪魔の機械』解説(山岸真)より引用。太字は引用者による。

 またあらすじ(本記事冒頭)の末尾には『スチームパンクの傑作』とある。

 

『かのマッド・ヴィクトリアン・ファンタジィ』とあるのは、先に発表されていた『アヌビスの門』『ホムンクルス』を含めたものだろう*9 。これらはいずれもヴィクトリア朝を舞台に特異な人物と超科学が登場する活劇作品でもある。解説で『場所はおもにロンドン、時は十九世紀(中略)驚くべき機械の数々が、このとんでもない冒険活劇を彩』ると書かれているのはそこを指しているわけだ。

 そしてこれら各作品の作者、K・W・ジーター、ティム・パワーズ、ジェイムズ・P・ブレイロックはそれぞれ深い親交がある。

 

 といった背景があるのだが、解説では「そんなこと言うまでもないよね?」みたいな調子*10 で一切触れずに次のように続ける。

(前略)別名スチームパンクの典型にあげられている作品なのです。もともとこの言葉、この本の書評に対して、作者のジーターが話題を作りたい一心で「こういう話をスチームパンクと呼んではいかが」という手紙を送ったことにはじまる冗談なんですね。(後略)

『悪魔の機械』解説(山岸真)より引用。太字は引用者による。

 

 なので「スチームパンク」なる呼び方は『悪魔の機械』を指すものというよりかは、『アヌビスの門』や『ホムンクルス』にもまたがった名付けとして考えるのがよいのだろう。

 

 ……といったことが Wikipediaスチームパンクの「起源」の項目と解説を併せて推測できた範囲だ。 (参考:スチームパンク - Wikipedia

 

 この言葉が当時のSF界で大きな隆盛を誇っていたサイバーパンクをもじって生まれたのは言うまでもないが、SF史は広大無辺なのでこれ以上は踏み込まない。

 サイバーパンクについて詳しくは『サイバーパンクアメリカ』あたりを読んでください。

 10年ほど前に旧版を読んだことがあるが、この記事を書くにあたって調べていたら今年(2021年)の10月に増補新版が出ていたのを知った。そのうち読み直そう。

 

 ある作品が新しいジャンルの端緒となるのには、最初から既存の作品と異なる毛色を目指して作られて成功した場合と、作られた結果これまでのものと違っているがために新たなジャンルとして分類される場合の二つに大別されるだろう。

 スチームパンクについては作者がそのように名付けたのだから前者な気がするが、冗談めかした文脈でこの言葉が出てきたという記述を信じるのならば、「前者寄り」といった方がいいのかもしれない。

 

余談

 というか気になっているところ。

 スケープがよくつく悪態に「バイタノクソガキ」というのがある。「売女のクソ餓鬼」なのでおそらく原語では「Son of a bitch」だろう。

 これを「くそったれ!」などに訳さずわざわざ「バイタノクソガキ」としたのは、ヴィクトリア朝当時にこの言葉が使われていなかったからだろうか。当時の文化については色々と勉強しているが、言葉遣い、特にこういうスラングまでは履修していないのでわからない。(この言葉がアメリカのスラングなのは知っている。きっと英国紳士はそんな汚い言葉を使わないのだろう。)

 

 もう一つスケープ関連。

「アツクなっちゃ駄目だぜ、クールにな、クールに」

 そうスケープに言われたダウアーは、

「”クールに”――冷たい。相手が何を言いたいのか、今度もまた、わたしには理解することが出来なかった。」

 と、クールを冷たいとしか受け取っていない。これはダウアーの鈍感さを描いた部分なのか、ヴィクトリア朝の「cool」にはまだ「落ち着け」という意味合いがなかったため「冷たい」と理解したのかかがわからなかった。

 

 

 

*1:色々なものを巻き込んで巨大な塊を作っていくゲーム。

*2:大衆小説と考えたらそこまでおかしなことでもないか。

*3:参考文献は後でまとめてアマゾンのリンクを貼っておく。

*4:19世紀のロンドンでは貧困層の女性が給金の高い乳母になるためわざと妊娠するということがあったようだ。(産まれた子供は託児所に送られて放置され、そのまま死ぬこともあったという。)出典:『暮らしのイギリス史』(NTT出版)37pより

*5:しかし地球が破壊されると聞いた時にはさすがに驚いて部屋を飛び出していた。物事に動じない性格ではないようだ。

*6:予想はできていたがまさか本当にそれやるか、みたいな展開であった。ネタバレ記事でもここは伏せておきたいと感じたレベル。

*7:「不思議な訛り」「発音と言葉遣いに曰く言い難い特徴がある」と表現されている。

*8:もっともこの醍醐味は、ある作者の言葉の受け売りだ。その作者のスチームパンク作品もいずれ紹介する。

*9:邦訳は『アヌビスの門』『悪魔の機械』『ホムンクルス』の順。いずれもハヤカワ文庫。

*10:当時のSF好き(SFファンダム?)の間では常識だったのかもしれない。