時代の後尾を行く
久しぶりの覚え書き。
世間的には何周遅れだというぐらい今さらのスマホデビューだ。といっても納車式や結婚式のような仰々しい通過儀礼があったわけでもないので、さしたる実感もない。(だから「らしい」と他人事。)むしろこれから待ち構えている通過儀礼(種々の登録変更や連絡帳の付け替えに伴う時間を食う作業)の数々に早くもため息をついている。
さておきこれまで使っていた携帯電話(ガラケー)ともお別れだ。
「FOMA F702iD」という2006年2月に出た機種で、出てすぐごろに手に入れてからこれ一本なので17年ちょっと使っていたことになる。そしてこれが私の人生初の携帯でもあった。(よってこのスマフォは2代目の携帯である。)
つまるところ僕の携帯電話歴は2006年から始まっているのだが、その当時ですら「世間的には何周遅れだというぐらい今さらの」携帯デビューであった。
この遅まきすぎる携帯デビューが、僕に携帯電話を携帯するという習慣をほとんど育まなかった。というのも当時すでにパソコンを使っており、それと比べれば後から所有した携帯電話を特段便利だと感じられなかったというのが大きい。当たり前のことだが携帯電話を持った時点では携帯で連絡をする習慣よりも、パソコンを用いて(いまや懐かしの)MSNメッセンジャー(以下、メッセ*2)で連絡するという習慣がとっくに身についていたのだ。
というより、携帯電話を持っていなかったがゆえに先にメッセ等でやり取りする関係、連絡網が充実したというのが正しい。もちろん僕がメッセでやり取りする相手同士はすでに持っている携帯でもやり取りをしていたのだろう。しかし携帯電話による各々の連絡網が構築されている時点の私は携帯電話を持っていなかったので、その網に取り込まれることもなかった。
そうして携帯の連絡網がすでに構築された後に携帯を持った私は、とりあえずその携帯電話による連絡網に加わりはした。だがその時点ですでにパソコンに慣れきっていた身としては、パソコンでのやり取りと携帯でのやり取りを比較しても、後者に著しい利便性を感じなかった。携帯電話は文字が打ちづらいし変換も貧弱だし、各サイトにつながるのも遅いしでいらいらする。メールだってパソコンで書いてから携帯に送ってそこから各所に転送したほうがずっと楽だった。パソコンで電子的な連絡を取る習慣を身に着けていた僕にとって、後から来た携帯電話ははっきり言って異物であった。
この異物を使った連絡はパソコンを置き換えるほどのものには到底なりえず、やむをえぬ緊急手段、直通連絡先ぐらいの位置づけに収まっていった。加えて当時はいまより頑固で意固地な逆張り人間であったので*3、パソコンと携帯を併用するという方法も採らなかった。
そんなものだから当初から携帯を使う機会はほとんどなかった。そうなるとますます持ち歩く必要性も薄まり、ついぞ携帯電話を携帯するという習慣も身につかなったわけである。という具合でこの17年を過ごしてきた。
なので17年使った携帯といっても手放すのに大きな未練があるのでもない。ただそれでも長く持ってきたのは事実なので、覚え書きも兼ねて「人生初の携帯」というひとつの記念碑的にこうして記した。
機種変更せず15年以上使っているというのもよく驚かれた話である。
しかしこの機種に特段のこだわりや愛着はない。壊れてないから使い続けているというだけの理由だ。ただしこれはいわゆる「もったいない」精神ではなく、壊れてないものをいちいち変更したり買い換えたり手続きしたりが面倒だからという、ずっと消極的でものぐさな事情である。過去には機種変更やスマフォへの変更の案内などもきていたが、壊れていないものを変える必要性を感じていなかった。
壊れてないから使ってる。破れてないから着ている。僕の身の回りはそんなものが多い。そもそもこの人生も死んでないから生きてるみたいな感覚である。
壊れてから買い替えればいい。着られなくなってから買いに行けばいい。
そんな人間がこの期に及んでスマフォに変えたのはいかなる理由があってのものか、いかなる不便を感じてお前はスマフォを手にしたのか、という話をしておかなければならない。
結論だけ言えば、身内との連絡など諸々の事情による要請があったからだ。お前の使ってるガラケーそろそろ停波するから今のうちに変えておけよ、と。
なのでスマホデビューと区切りはしたが、スマフォでやりたいことがあったというわけでなし、携帯に不便を覚えたからでもない(そもそもほとんど使ってないのに便利も不便もない)。それもあって携帯しない携帯がこれまで務めてきた用途(電話とメール)の外の使い道が特に見当たらないし。SMSが送りやすくなったのはちょっと楽かもしれないが、ガラケー以上にタイピングが面倒でいらいらしている。乾燥肌だからかタッチパネルの反応もすこぶる悪い。
(スマフォも含めた広義の)携帯電話は異物だという感覚も依然としてある。
ところでふと、異物から遺物となったこの17年物のガラケーは、僕の消極的でものぐさな性分の象徴であったかもしれないなという考えが芽生えた。
ものぐさな性分から現状維持という形を取る僕は、現在進行形で着実に時代の要請やニーズから取り残されつつあるのだろう。時代というのは良くも悪くも常に進んでいるから、現状維持を選択し続けると置いて行かれてしまうのは自明の理。何もしていないのに置いて行かれるのではなく、何もしていないから置いて行かれるのだ。
そのことから僕は自らが時代に取り残されつつあるという事実を常に自覚し続けていなければならない。しかしそれはあくまで性分という我を張った結果である。時代や変わる社会が悪いのではない。
機種変更なりスマフォに変えるなりする機会はこれまでもいくらでもあったはずだし、ガラケーの時代が終わった事やスマフォの時代が来たことには良いも悪いもない。要するに17年ものの携帯は、ものぐさな性分に従って自分で消極的に選んだ結果でしかないというだけの話である。
だからこそ僕の性分の象徴なのかもしれないな、と感じたのだ。
さりとて僕も辛うじて社会に混ざって生きている身。必要と感じた時には自力で時代に追いつけるぐらいには時代と共に進んでおかなければならんなぁ、とは感じている。
先ほど要請に応じてスマフォにしたと書いたが、視点を変えて言えば、3G回線の停波も近い今、スマフォにせよとの要請に応じておかなければ、もはや時代に追いついていくのが難しくなるだろうという判断もあった。
いずれにせよスマフォにしたことで私も時代の後尾にまたなんとか追いついたところである。
しかし17年携帯を携帯しないで生きてきた人間がスマフォに変えたところで、これを持ち歩く習慣がすぐ身につかないのは明々白々。携帯電話に不便を感じてスマホにしたのではなく、諸事の要請にやむなく応じた結果だからそうなるのも自然な流れだ。
要するにこれは現状では何も変わっていないという話なのであった。
ではそんな人間は17年後にスマフォを持ち歩くようになっているのか、まだ時代の後尾についていけているのか。
それをまた17年後に確認してみようじゃないか。後ろを見ながら歩く人間はそういう形でしか自分が時代のどこに立っているのかを確認できないのだから。