雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『空人ノ國』

ネタバレあり。

 

空人ノ國
サークル:モラトリアムシェルタ
作者:咲折
A5判:102P:600円
2015年11月23日発行

 

 (20170213公開)

 神様が「いる」国で生まれ育った人々が、「いない」と感じ考える(体得する)には相応の苦しみが必要なのかもしれない。「いない」との考えを生じせしめるための苦しみは、死の苦しみとおそらく等しい(死苦に等しいものを体験、もしくは背負わなければ、強い否定の意志で「いない」と考えるに至れない)。
 そうした否定の前段階として、主人公たちは神様を別のものにすり替えてしまう。苦しい世界に君臨する神様からの逃避としてだ。
 しかしこれは世界と社会の認識が、家族や村にとどまっていられる子供だから可能な一時的な方法なのかもしれない。というのも成長して分別がつけば、村を包括する国や、その秩序といったより大きな社会を支配する神様にいやでも直面してしまうからだ(《浄罪の儀》や、村の大人たちが制裁を加えている面に代表される)。
 子供たちがすり替えた神様は、あくまで個人的な対象であり、作中で徇に代表される国家が奉じていた神様は社会的な対象である。社会を支える擬人化されたシステムである神様に、具体的な個人を当てはめて代替するのはきわめて難しい。
 個人的な神様は、社会的な神様への逃避から割り当てられた存在でもあるので、「いない」と否定する行為は、個人的な神様の否定も意味している。両方の神様の否定は作中、特に第二部のメイン部分であるが、第一部でも白華の死が幽と紅葩に両方の神様の否定の始動の合図となっている。
 大人でありながら子供の身体に留められた幽はそのどちらも見つめられる者で、「いない」を導くにはふさわしい役割なのだと納得する立ち位置である。彼は白華の死苦を背負うことで、強い否定でもって「いない」を現実に導く力を得る。(僕は幽の個人的な神様が白華であったのだろうとみている。)

 

 ハクカにより浄められたリクには優しい種を捧げてくれるレイがいるけれど、同じように浄められた国の人々の心はそのまま茫洋と続くのだろう。社会的な神様を否定する紅葩が十八になり、入れ替わりが白日の下となるその時まで。あるいはその前に国が亡ぶかもしれないが。

 

 30P前後での白華と紅葩が役目とともに入れ替わる場面、あそこで一人称もゆるりと変わる(引き継がれる)ところは特に感嘆した。
 以前からこのサークルの作品を手に取っている身として、文章の流麗さやテーマ(と僕が勝手に見出したもの)の懸命な強さには、変わらず惹きつけられるものがある。