雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『悪魔の機械』

 蒸奇都市倶楽部の監修を務めてもいる手前、たまにはスチームパンク作品の感想も紹介がてら書いておこうと思う。スチームパンク作品の感想が今後も続くかわからないが最初は「スチームパンク」という言葉を生んだ作品も感想を。

 

悪魔の機械

K・W・ジーター、大伴墨人(訳)

ハヤカワ文庫〈FT128〉

(1989年8月20日印刷/31日発行)

不肖の息子とはよくいったもので、ダウアーは天才発明家だった父の築いた評判を落とすことしか能のない時計職人だった。この出来の悪い男の店に、ある日、黒い肌の怪人物が出現。父の作った得体の知れぬ科学機械を修繕してほしいという。しかし前金として銀貨を置いていったが、これがまた男の容貌にひけを取らぬほど奇妙な代物。あまつさえ、この仕事を引き受けたことから、ダウアーの身辺の奇怪な事件が起こり始めた!霧と煤煙にけぶるヴィクトリア朝の英国を舞台に奇人・怪人・狂人、果ては海底人までが暴れまわるスチームパンクの傑作。

カバー表4のあらすじより引用

 

 

 初めて読んだのは6年ちょっと前。ただ、その時の感想が「よい」と一言記されていたきりなので、今回はしっかりと感想を書ていおく。

全体について

 随所に新たな謎と盛り上がりどころが布置されており、大衆小説としての娯楽性はかなり高いと感じた。

 どこか緊張感のない巻き込まれ型主人公ダウアーをはじめ、青い色眼鏡をかけた山師と妖しい美女、護国卿にさかのぼる由来を持つ〈神聖防衛隊〉なる清教徒の秘密結社、讃美歌を奏でる〈ダウアー式自動人形聖歌隊〉、音楽に秀でる絶倫機械人形〈バガニニコン〉、海底の水棲種族、地球外生命体と〈ヘルメス航宙球〉、そして題名となっている悪魔の機械。

 こうしたものが次から次へ出てはつながり絡まって、さながら塊魂*1 のごとく色々と雑多に張り付けて話が進むごちゃまぜ感が楽しい。

 

 終盤では相対する登場人物の立ち位置が何度かひっくり返るのだが、これについては謎の解明をするために入れたひっくり返し方で、やや唐突に感じられた。

 一方でダウアーの奮起というか一念発起で世界を救う(?)展開のギミックは一見すると馬鹿げているようで、しかし作中の設定に対して十分な説得力を備えているあたり、技巧が光っているなあと。

 

ダウアーという主人公

 主人公のダウアーは作中でもはっきり「鈍感な男」「この上なく鈍感な精神の持ち主」と評され、特殊な技能に秀でているわけでもない凡庸な人物として描かれている。各種の新事実に触れるにつけてもその際の頭の働きは鈍く、「……つまり?」「それは一体どういうことでしょうか」といった返答をする。この反応自体は読者に分かりやすい説明を示すための導線でもあるのだが、それがダウアー自身の鈍感さを表現してもいるわけだ。

 

 作品の筋書きは冒険活劇であるのだが、ダウアーが主人公らしくこれといった目覚ましい活躍をするでもなく、切った張ったをするでもなく、ただただ主人公特有の悪運の強さを発揮して事態をくぐり抜けていく(というかほぼほぼ事態に流されていく)。いや、ダウアー自身は自分でそれなりに行動を起こすのだが、それがほとんど奏功しないで空回りしてしまうのだ。

 ダウアーがなにか行動して大きな成果を遂げるのはそれこそ最後の地球を救うにあたってのある儀式であるが、それも果たして彼が主体的に行ったのかといわれると疑問を感じる展開である。しかしここにこそダウアーという主人公の絶妙な凡庸さが凝縮されている気がする。

 この作品は後日にダウアーのが記す回顧録という結構だがその締めくくり、地球を救う儀式を経たダウアーの記述にはどこか哀切さを感じさせてくれる。

 

ヴィクトリア朝を舞台にした架空の歴史もの

 さて、作中の時代がヴィクトリア朝(およそ19世紀後半)ということで、むろんその時代の雰囲気も作品に織り込まれている。

 つまり実質的な栄華と極度の見栄、正義ぶった建前とそこから乖離した現実、退廃しながらもたくましい下層民といかれながらも富と権力を持つ上層民、しかしその両者に通底する十九世紀的な社会性、宗教的な抑圧の強さなど、そういったものがダウアーを取り巻いているのだ。

 特におかしいのが「紳士的な振る舞いをしていれば大丈夫、危害は加えられない」という、現代の感覚からすると不可解にも見える妙な自信である。もちろんこれは世界に植民地を持つ「太陽の沈まない帝国」の栄えある一員であるというところから来ている。

 このおかしな自信が最も顕著に表れているセリフに次のものがある。

「わしが貴族であり、尊敬さるべき大英帝国市民であることが分かれば、彼らとて最大限の敬意を払おうというもの」(234p

 ここの「彼ら」は地球外生命体を指している。大英帝国の威光は宇宙人にまで届くようだ。ここまで過剰だともはやギャグである。というか、そういう狙いで書かれた部分ではないかと思う。

 なにせこの作品が書かれたのは1987年で、作者のジーターは1950年生まれのアメリカ人だ。イギリスの植民地がほぼ独立した時代に、(おそらく最初に)英国から独立した米国の人間が書いているわけで、作中の英国人に関する描写のいくらかは戯画化されているようにも読める。*2

 一方であの時代の道徳や価値観を他の本などからおおよそ学んだ身として*3 考えると、戯画化といってもそこまで極端なものではないようにも見えてくるから不思議なものだ。

 

当時の英国文化に関する参考文献など

以下、参考文献を挟んで大きなネタバレを含む部分になります。

 

ks2384ai.hatenablog.jp

ks2384ai.hatenablog.jp

ks2384ai.hatenablog.jp

 

*1:色々なものを巻き込んで巨大な塊を作っていくゲーム。

*2:大衆小説と考えたらそこまでおかしなことでもないか。

*3:参考文献は後でまとめてアマゾンのリンクを貼っておく。

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作品世界の言語について2(シワの見解:監修編)

 ファンタジー小説*1  において、どこまで日本語の熟語は許容されるのか。

 前回はこの問題(?)の僕の基本的な見解を述べた。

ks2384ai.hatenablog.jp

 

「作者翻訳」の建前とその言葉の採択基準は、作品世界の強度(雰囲気)をどこまで保ちたいかにかかっている、というのが概ねの見解であった。同時に作品に使える語彙の基準は、その作品の性格や世界設定など、作品固有の事情にも左右されるという点も触れた。

 

 そこで今回は具体例として、僕が監修を務めるスチームパンク+近代ファンタジーの小説サークル蒸奇都市倶楽部の作品世界を材料にして、作品に使える語彙の話を進めていく。(約1万2千文字)

(※サークルの許可は得ていますが、あくまで監修視点でのお話です。)

 

 そもそもサークルの監修として主に何をしているかについては昨年の記事をご覧いただきたい。

ks2384ai.hatenablog.jp

 

 

 

蒸奇の作品は「監修翻訳」の建前

 まず前提として蒸奇都市倶楽部(以下、蒸奇)の作品や体制を示しておく。

 

 作品の分類(ジャンル?)はスチームパンク+近代ファンタジーとあるが、わかりやすく書くと「大正時代をモデルとした和風ファンタジー」となろう。

 体制としては複数人からなるサークルで、概ね原案(複数の作者)とそれを調整する監修(私=シワ)に分かれている。

 

 そのうえで結論を先に書くと蒸奇の作品は、「作者翻訳」ないし「監修翻訳」の建前で世に出ている。

 

 昨年の記事で監修の役割は各設定を整理、把握して整合性を保ち、原案に手を加えて監修稿をあげることにあると書いた。この役割は当然ながら作品世界を翻訳する部分にもかかってくる。

 そして前回の記事で「作者翻訳」の線引きと見極めは結局のところ作者個々の判断によると述べたが、これは蒸奇も同じだ。監修にあがってくる原案は各々の線引きに従って書かれているが、原案が複数いるため線引きに統一性がない。

 

 こうしたばらつきを一定の判断基準*2 に沿って調整するのも監修の役割のひとつというわけである。作品を一定の質に保つ監修には原案と同様、あるいはそれ以上に翻訳者としての平準的な感覚が求められていると思う。

 

作品世界の捉え方

 もちろん読者の方々においては、蒸奇の作品世界には我々の世界とは異なる民族、歴史、文化、言語が存在していると考えてほしい

 そして原案や監修はそうした作品世界のすべてを、作品世界の強度を維持できる範囲で日本語や別の言語に適宜に訳出する役割を負っている。作中に英語やドイツ語フランス語、ラテン語が出てくるのも、作品世界とこちらの世界の文化や歴史を比較検討したうえで、適切な言語を選択しているつもりである。*3*4

 

 と大仰に書いたが、基本的にこれらも翻訳の建前の範疇だ。

 

 ところで「なぜ原案の段階で翻訳の基準を設けておかないのか」という疑問を持たれる方もいるかもしれない。また似た疑問として「監修の翻訳の基準を内部に示していないのか」というものもあると思う。

 確かにそうした翻訳の基準をあらかじめ示しておくことで、監修による調整の手間が省けるだろう。

 これについて検討したことはあるが、現実的ではないという考えに行き着いてしまった。常用漢字表や辞書のように一覧的に作ること自体に非常な労力と時間がかかってしまうのだ。

 なので現在はサークルメンバーに信任してもらうという形で監修にちょっと強い権限を持たせてもらい、基本は監修の基準に沿った翻訳と調整を行い、その意図*5 を説明して承認してもらう形で対応している。(もっとも必ずしも監修が強いわけではない。その例も後で挙げている。)

 

蒸気の作品固有の性質

 作品に使える語彙は作者翻訳の建前とは別に、作品固有の性質によるところも大きいというのは前回述べた。蒸奇の作品でいえばスチームパンクと近代ファンタジーの部分が固有の性質となろう。わけても「近代」部分は監修としての翻訳面において大きな割合を占めている。

 ここでの近代は日本史の区分、すなわち明治、大正、戦前昭和を指す。中でも蒸奇は大正から戦前昭和の雰囲気を拾い上げたファンタジーとしてとらえてほしい。作品に使われる語彙の一部はこの時代に書かれたものから採取している。

 

 以下ではそうした蒸奇の作品世界に照らした監修翻訳の判断例を示していく。

 

「監修翻訳」の大まかな指標

 具体的個別的に内示できる基準はないとしたが大きな指標はある。基本的には前回の記事で示したもの、つまり「日常的に用いない言葉」「宗教的な用語」「ことわざや故事成語」「人名由来の固有名詞」「固有名詞由来の普通名詞」などは特に注意して使ってほしいというものである。

 これらを取りまとめた監修翻訳の大まかな指標は以下の通りとなる。

 

(1)特定のイメージ*6 が薄い

(2)ある概念を指すものとして普遍的に使用できる

(3)作品世界の文化を考慮した際に使っても差し支えはない

 

具体例

 三つの指標に照らして判断している事例を紹介しておく。

ケース1:「仏」と「蜘蛛の糸

 ある原案で刑事が死体を「仏」と呼んでいた。また別の原案では、我先にと逃げ出したものがろくでもない目に遭うという状況に「蜘蛛の糸」というたとえを用いていたが、いずれも別の言葉や言い回しに差し替えた。

 これらが不許可となったのは(1)を判断根拠としている。仏教や芥川龍之介の作品*7 のイメージがあまりに強すぎるのだ。加えて「蜘蛛の糸」に関しては慣用句ではないので、喩えに用いるのに適切だとは思われなかった。

 

 特に印象に残っている例として仏教色の強い言葉が重なったが、三つの方向性に示した通り、監修としては仏教的な言葉を一律に排しているわけではない。実際に「彼岸」や「縁」「因縁」や「業」といった言葉は許容している。

ケース2:「彼岸」

 さてその「彼岸」である。死後の世界という概念だけであれば「あの世」というもっと宗教色の薄い言葉がある。前回の記事のように言葉だけを抜き出した場合、私ならばグレー判定としているだろう。

 しかしそこを許容したのは、(2)(3)を踏まえて蒸奇の作品世界に照らしたときに、似た概念や文化が浸透しているという判断が働いたためである。むろんこれはイコールで作品世界に仏教が存在しているというわけでもない。「縁」や「業」など他の言葉も同様である。

ケース3:「敵に塩を送る」「瓜田に履を納れず」

 史実であるかどうかは別として戦国時代の故事に由来する慣用句。これも(1)に基づき不許可とし、たとえ敵対している相手であっても苦しい時には助勢する、といったニュアンスの文章表現に改めてもらった。

 

 また似たような事例に『暗翳の火床』97p(これは私が原案も担当しているので作品名とページ数を示しておく)に「草履の緒が切れてもすいか畑では屈まない」という作品世界における慣用句が用いられている。我々の世界でいう「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」の前半の部分であるが、そのままではやはり中国の故事成語との兼ね合いが生じるので、ニュアンスを維持しつつ別の言い回しとすることで作品世界の慣用句という体の味付けも行った。つまり指標(1)の問題があるため指標(2)に沿う形に少し改めた形である。

 

「敵に塩を送る」についても、ニュアンスを維持した別の言い回しを案出するかどうかを原案に問い合わせたが、そういった慣用句を考える方が時間がかかるとの回答を得られたため文章で表現する方法をとった。

 

作品世界の文化や概念として

 指標(3)について。

 特定の言葉は「作品世界の文化を考慮した際に使っても差し支えはない」と判断すれば使ってもよいとしているが、これらの匙加減はなかなか難しい。

 これらをあまりに都合よく考慮しすぎると、極端な話「この世界にも『仏』みたいな存在がいるのだから『仏』を使ってもいい」とか「『蜘蛛の糸』のような話があったことにすればいい」となるからだ。いや、もっといえば「芥川龍之介がいたことにすればいい」ともなりかねない。

 

 僕自身はこういうなんでもありな状態は好きではない。

 ただ、この「好きではない」は感情的な問題だから、何かしらの理や設定によって使用されるのならば反対はできない。もっともこの記事は僕が影響を行使しうる蒸奇の作品世界に限っての話なので、なんでもありな状態への懸念は掘り下げない。蒸奇の作品については強引な形での(3)の適用は行われないであろう。

 

 ただ、蒸奇の作品はなんでもありな状態ではないですよということを、読者には作品を読んだだけでわかってもらえるようにはしておかないと不親切ではある。(=この記事に目を通していることを前提にしてはいけない。)

 要するに(3)に基づいて現実の世界の言葉を借用する場合、読者にもある程度は「作品世界の文化を考慮」してもらえるような書き方や説明がなされるべきだと考えている。

「教会」にまつわる言葉

 たとえば『鐵と金剛』では宗教組織として「教会」の名が登場する。

 この宗教は救世主や最後の審判的な終末論を掲げているなどの要素から、我々の世界のキリスト教、特にカトリックをモデルに翻訳しており、作中では「審判の時」や「煉獄」「秘蹟サクラメント)」といった言葉を借用している。

 これらは作品世界の「教会」における基本的な概念とカトリックを比較し、その用語を使用しても大きな違いはないと判断したためだ。といって完全に借用元の概念がそのまま通用するというわけでもなく、作品世界における独自の意味や捉え方(平たく言えば設定)はまた別に存在している。

 しかし残念ながら『鐵と金剛』は「教会」そのものに焦点をあてた作品ではないので、これらの作品世界における意味は作中ではまったく説明されず、「雰囲気を出すためそれっぽい言葉を借用している」という範囲にとどまってしまっている。(教会そのものは「異なる文化圏における最大の宗教組織」といったニュアンスの説明がなされている。)

 

 このように「作品世界の文化」について、言語や概念といったレベルで深く触れて説明している作品がほとんどないのが現状だ。これは物語のセオリーに従って、本筋を理解するうえで必要と思われる部分だけ補足する形にとどめているためだ。

説明として必要か不要か

 作品に必要な説明と不要な説明(=余談)」の均衡をどう保つのか、というのも監修の仕事のひとつだと考えている。作品の焦点を文化や歴史に当てていないのにそういった部分に触れてしまえば余談ばかりになってしまう。一方で本筋に必要な説明だけで「作品世界の文化を考慮」してもらえるような書き方や説明が十分になされているとも考えていない。

 そうした状態を解消するには様々な側面から光を当てるしかない。ある作品では不要な説明と判断した部分についても、いずれ別の作品で触れてみせるなどして「作品世界に根付いたもの」であることを示さなければならないと考えている。

 作品内に作品世界独特の言葉や用語をぽんと置いただけでは雰囲気も背景も色も匂いもしないのである。

 

自分の失敗例 

 以下では自分の翻訳の手際の悪さを挙げる。

 

 前回の記事で「サンドイッチ」を例に挙げたが、これ、僕自身が蒸奇の作品でやらかしてしまっているのである。自分のことなので具体的に例示しておく。

 

 2013年発行の蒸奇最初の同人誌『第一号 幻影機関』に掲載されている『暗翳の火床』でそれぞれ、

紅茶はすすめられるままにロンヌノワウルという舌を噛みそうな品種。軽食はサンドヰッチ。(119p)

冷たい石造りの床に暖かな液体が撒き散らされる。彼女が最後に口にしたのは老技師と喫茶店で摂った中食のサンドヰッチと紅茶だったろうか。(279p)

 と書いてしまっている。当時はまだ監修ではなかったのだが、いずれにせよ僕が自分で書いて自分で通してるのだから手落ちもいいところ。

 

 ただ言い訳をさせてもらうと、こういった失敗と苦い思いをしたからこそ、より注意を払って改善していけるものとも考えている。

 

 2019年発行の文庫版『暗翳の火床』では同様の場所を、

女給が注文を運んできて、紅茶はロンヌノワールだと説明する。舌を噛みそうな銘柄だ。(22p

 サンドイッチの注文そのものがなかったように修正し、

冷たい床に暖かな液体がびちゃびちゃ撒き散らされる。(206p

 と、こちらでも触れていない。修正に躊躇はなかった。物語上の必然性はゲロを吐くことにあり、サンドイッチを食べることにはなかったからである。

 

 また紅茶も「ロンヌノワウル」から「ロンヌノワール」に、「品種」も「銘柄」へと書き換えている。その意図も説明しておこう。

 

 まず「ロンヌノワウル」が「ロンヌノワール」になっているのは、2013年版では表記を優先しているのに対し、文庫版では聞き手が耳にした音を優先した表記に改めたからだ。(2013年版では「洗濯機」を「せんたくき」と書き、文庫版では「せんたっき」と書いているわけである。)これは場面のメインの登場人物である聞き手が紅茶の名称に疎い人物であるという効果を狙ったものである。

 品種を銘柄にしているのは単純なミスゆえだ。ここで触れている「ロンヌノワウル」は産地にすぎないので銘柄のほうが適切だと気付いて書き直した。*8

 

翻訳の甘さ

 僕に関して言うと、初期の作品にはこうした翻訳の甘さ(ずばり言ってしまえば作品世界の作りこみの甘さ)が目立つ。

 当時は翻訳や作品世界の作りこみよりも、ともかくスチームパンク風や近代ファンタジーの雰囲気を出すのを優先していたためだ。サンドイッチをサンド「ヰ」ッチと旧字にしているのもその証だ。そんなこと以前にもっと重要な部分を考えるべきだと当時の私に言っておく。

 

 同様に翻訳(作りこみ)の甘い例として、2013年版の『暗翳の火床』にはバロック様式*9 や、金生山璽松院(かのうざんじしょういん)といった具体的な寺院名までも出ているありさま。

 こういった部分も文庫化にあたってすべて消している。これは監修として作品全体を見るようになるとともに、原案とともに作品世界を作りこむ過程で、作品上であまり詳細に触れられない歴史や文化といった面に大きな見直しが入ったためだ。

 

 今後も自省して監修に努めたい。

 取りこぼしがあった際にはご容赦願いたい。

 

作品世界の固有名詞

 蒸奇の作品では一部の人名と地名(前回の記事でも触れた作者翻訳の建前をくぐりぬけられる固有名詞)は音をカナで記述している。上述した「ロンヌノワウル」がその例だ。紅茶の産地名なので翻訳のしようがないため作品世界での発音をカナ表記とした。そのため現実の世界にはおそらく存在しない地名になっている。

 

 人名の例では『鐵と金剛』の登場人物「リーゼル」「クァナ」が音のカナ表記。彼らの名は作品世界に固有のものなので訳せなかった。他方同じ作品の登場人物「三堂鐡志」は「ミドウ・テツシ」などとせず漢字表記となっている。これは作品世界の文化や歴史ならびリーゼルやクァナとの対比を考慮したうえで漢字になったと考えてほしい。

 ただ漢字表記ではあっても表意というよりも表音に基づく表記に近い。山本という苗字を見ても「山のふもと」とは考えないだろうし、辻という苗字からわざわざ「交差点」を連想しないのと同じで、由来や組み合わせが何を現しているかまでさかのぼっては考えないはずだ。山本さん辻さんとそれぞれひとつの苗字として受け取るだろう。三堂にしてもこの方法で通じると判断したという部分もある。

 

 このように地名や人名を作品世界の言語のまま音で表記している関係上、作中の翻訳とのねじれも生じてしまっている。

 具体的な例で言うと上記の「リーゼル」「クァナ」が関係する文化には概ねラテン語を充てているが、その二人の名前は作品世界の音をそのままカナ表記しているのでラテン語ではない。

 ロンヌノワウルもそうだ。この土地を含む植民地の言葉には英語が充てられている(正確には植民地の公用語という設定だ)が、ロンヌノワウルは完全に作品世界の言葉だ。現地の人の言語で「颪(おろし)の高台」みたいな意味である。

 いずれも部分的な人工言語といってよいだろう。

 

 こうした翻訳のねじれはどこまで翻訳するかという問題と表裏一体だと考えている。先の項で『作品内に作品世界独特の言葉や用語をぽんと置いただけでは雰囲気も背景も色も匂いもしない』と書いたが、もちろんこの地名などにも同じ指摘があてははまる。

 監修としては可能な限り全力で、こうした部分からも異なる世界や国の雰囲気を感じられるような焦点の当て方を模索、実行していきたいと考えている。

 

モンブラン」と「スワフ芋」

 固有名詞の例。

 前回の記事と比較するため再び「モンブラン」と「スワフ芋」に登場していただく。これらの言葉を蒸奇の作品で使おうとした場合に監修は許容するのかどうか。(ちなみに2020年時点での蒸奇の作品にこれらの言葉は出ていない。このことはしっかり抑えておいてほしい。)

 

 結論から言うと「モンブラン」はあり得るが「スワフ芋」は不明である。

 

 まずモンブラン

 これが可能性としてあり得るのは、作品世界のある言語にフランス語を充てているからだ。そして雪を被った山に「白い山」といった名を付けるのは人間の普遍的な発想*10 らしいから、そのため蒸奇の世界に「モンブラン」という山が存在する可能性は否定できない。

 よしモンブラン山が存在するとして、今度はこの名が作品世界のお菓子にも付けられるのかどうかという問題をクリアーしなければならない。またそこをクリアーしても今度は作品世界の「モンブラン」が現実のモンブランと同じものなのかどうかという問題も立ちふさがってくる。

 これ以上の検討はいたずらに長くなるので避けるが、出すにしてもこういった検討を重ねたすえに判断を下さなければならない言葉だとは思うので、翻訳言語の可能性からあり得るとの回答にいたった次第である。

 

 続いてスワフ芋。

 現時点でジャガイモにあたる食物を出しておらず、従って設定もされていない。そのため言及不可能でわからないとしか言いようがない。ただジャカルタとの兼ね合いで慎重に検討しなければならないだろうし、スワフ芋にするとしても前回の記事で述べたように作品世界における「スワフ」の意味が必要になってくるのではないだろうか。ここで作品世界の設定まで含めて結論を下すのは難しい例題だ。

 ジャガイモは米や小麦、トウモロコシに並ぶ世界四大作物のひとつでヨーロッパ史を語るうえで欠かせない食糧だ。存在そのものにせよ音だけにせよ置き換えるのが非常に難しい立ち位置にある。産業革命期(すなわちスチームパンクの母体のひとつ)のイギリスにおいても下層階級の人間にとって非常に重要な食糧であったという。*11

 というこの余談は本末転倒である。

 

 いずれももっと正直に回答するのならば「モンブランもスワフ芋も現時点では蒸奇の作品世界に存在するか検討されたことがなく、設定として存在していない。存在していない設定への回答は不可能」となる。

 

 しかしいずれにせよ、食べ物ひとつにも文化や歴史が詰まっているわけで、おそらくそれはスワフ芋にしても同じこと。適当な音を充てれば設定が生えてくるというものではない。

 もっとも先述した人名や「ロンヌノワウル」といった音だけの表記例も存在しているので、このあたりは本当に一本筋の通った理屈や原理を通せているわけではない。線引きの難しさを実感している。

 

元ネタがあるのかどうかは確認

 ところで原案には「作品世界の固有名詞を使う場合、もし元ネタがあるなら絶対に教えてください」と伝えている。これは「スワフ芋」なる単語を出されたときに、それがジャガイモの置き換えなのか、作品世界にしか存在しない完全に架空の芋なのかをしっかり把握しておかなければならないからである。前者と後者では検討すべき事柄が違うため、監修として齟齬なく認識しておくことは重要だ。

 原案の意図する言葉の使い方は可能な限り正確につかんでおかなければならない。偉そうに監修とはいってもけして博学の人間ではないのはこの記事でも十分証明されているだろう。

 

その他の翻訳事例

 以下は三つの指標に照らした翻訳からは少しずれるが、似たような領域の話題。

蒸気自動車

 私は監修として「蒸気自動車」という言葉にも難色を示している。

 というのも、作品世界の自動車は蒸気機関で動くものしか存在しないからだ。蒸気自動車は蒸気機関以外で動く自動車が登場して初めてそのように名付けられるレトロニムである。そういう意味では蒸気機関車も厳密には機関車とするのがよい。他方、同じ乗り物でも蒸気船がOKなのは、すでに手漕ぎの船や帆船が存在していたからだ。

 

 となると「蒸気機関は機関か?」となるが、これは「機関」という言葉に動力をエネルギーに変えるものという意味合いが含まれており、そうした中で特に蒸気で稼働するものをさして蒸気機関と呼ぶため「機関」にはしていない。ただこの意味での機関は「engine」の訳語であるし、その「engine」も元は「steam engine」を含意していたという話もあって突き詰めると怪しくなってくる。

 もっとも日本語の「機関」の方に他の意味が含まれているので、それらとの区別のためにやはり「蒸気機関」とするのが適切ではないかと思っている。

 

 しかし蒸奇の作品には実際に「蒸気自動車」ないし「蒸気機関式自動車」という言葉が使われているものもある。これは監修と原案で話し合った結果だ。

 すでに書いたように私は「蒸気自動車」という言葉に否定的であるから、原案の文言から「蒸気」を削ろうとしたが「そこは残してほしい」という要望があがってきた。理由を聞けば「エクスキューズ(弁明)として入れたい」とのこと。つまり「作品世界の自動車は蒸気機関で動いているものです」ということを「『蒸気』自動車」という言葉でもって充てたいという次第であった。

 

 これについてよく話し合った結果、原案の言うことももっともであったし、監修として「蒸気機関車」もすでに通している中で自動車だけを跳ね除ける強い理由もなかったので「蒸気自動車」で了承した。必ずしも監修が強い権限で一律に判断しているわけではない一幕だ。

 

 他方で最初から「自動車」「機関車」で統一されている作品も存在している。私が書いているものは先述のレトロニムの観点からその傾向が強い。(「汽車」表記もある。「汽車」は「汽船」すなわち蒸汽船から生まれた表記と聞いているので、使用しても差し支えがないと判断した。)*12

 このあたりはサークルのメンバーに自由にやってもらう方向性との兼ね合いもある。サークル内部で統一的な翻訳基準を設けていない理由のひとつでもある。

 

世界を指す言葉

 ところで蒸奇の作品世界には、その世界そのものを指す言葉も存在していない。

 理由は明確で、そんな言葉や概念があちらに存在しないからだ。

 これは我々を例に照らして導かれた理由である。つまり現在の僕たちはこの地球を含めた、全宇宙を包括する世界を指す言葉を持っているだろうか?

 

「そんな法則はこの宇宙には存在しない!」

「世界にひとつとない存在だ!」

 

 こんな言い方はするので、宇宙や世界がそれに近い言葉なのだろう。

 しかし「我々が住む世界は宇宙と呼ばれている。」とか「僕たちはここを世界と呼んでいる。」だなんて物語的な説明をされても、僕にはまったくピンとこない。

 これは「蒸気自動車」と同じで比較対象がないからだ。

 つまり「この世界」そのものに名前を付ける必要性は「この世界でない世界」、すなわち異世界の存在を確認してからでないと生じないわけで、世界に名前を付けることもまたレトロニムなのである。

 

 そうはいっても作品には読者という観測者がいるじゃないか、と思われるかもしれないが、作品世界(作中)の人間(登場人物)が読者の存在を認識しているわけではないので、観測者の有無は世界に名をつけるかどうかとは関係がない話だ。

 そして蒸奇都市倶楽部というサークルが、あの世界を翻訳しているという立場をとる以上、あの世界に名前が付くことはないと思われる。もっともこれは翻訳も兼ねる監修の願望とわがままでもある。つまり作中世界にない概念を作ってまでラベルを貼りたくはない、という。

 

 もっとも蒸奇都市倶楽部が刊行する一連の作品群をどう呼ぶかは難しい問題ではない。このサークルは現状あの世界の物語しか翻訳していないのだから、「蒸奇都市倶楽部」というサークル名ないし「蒸奇の刊行物」という事実それ自体が一種の焼き印になっているわけである。*13

 

結に変えて

 ファンタジーな世界を舞台とする作品では作者翻訳の建前を通すにしても、作品世界に基づく語彙制約の問題は避けて通れないという前提のもと、蒸奇都市倶楽部の作品世界を例にあれこれを見てきた。特定のサークルだけを事例としたが、近代ファンタジーという前提を最初に示し、読んでいない人にもなんとなく理解できるように書いてきたつもりだが、どうだったろうか。

 

 わからなければ作品を買ってください、と厚顔に宣伝するつもりはない。

 しかし小説の語彙について語るには、具体的な例や個別の事例に照らさなければ見えてこない点もある、ということは示せたのではないだろうか。

 

 とはいえ、これらは個々の製作者の匙加減によるところが大きい。

 繰り返しになるがこの極論も併記しておこう。

 

 

 現実と異なる世界を舞台とする作品を書くにあたって、作品世界の我々と異なる民族や宗教、言語をどのように書くか、訳すかという問題は多かれ少なかれ避けられないものだろう。

 そういった作品の中で使える語彙を考えるということは、自分がどれだけ他の言語や文化を知っているかということに等しいと思っている。作者という立場をとるにせよ、翻訳者という立場をとるにせよ、様々な言語の辞書やモデルとなる地域の文化を学ぶため参考文献と付きっきりになるだろう。

 私としてはそうした参考文献との付き合いや学びも、小説を書くうえで味わえる楽しさのひとつだと考えている。思うに未知のものを自ら進んで学んでいく楽しさは、たとえそれが現実であろうと小説の中の世界であろうと変わりないのだろう。

 

 ところで使用する言葉に注意を払うのは、なにも翻訳の建前を持ってくるファンタジー作品の特権ではない。確かに現実を舞台にする小説には翻訳の必要性は生じないだろう。

 しかしどこを舞台にするにしても小説が言葉でつづられる創作物である点は変わりない。そしてその性質上、常に言葉や行間で場面や人物の解像度や画角、ピントを合わせる必要性に駆られており、であれば小説には本質的に現実と異世界の壁などありはしないことになる。

 これは小説が言語作品である以上避けられない性質である。

 なので言葉の使用に細心の注意を払うのはどんな作品であっても同じだ。

 

 と、最後にファンタジーとそうでないものの壁を取り払って筆を措くとしよう。

 

 

*1:前回に引き続き「現在・現実と異なる世界を舞台にした作品」と大雑把に定義しておく。

*2:「一人の判断基準」とする方がより正確だろう。

*3:蒸奇の作品世界は民族や文化圏ごとに言語が異なるという現実とほぼ同じ構造をしている。

*4:敢えて触れておくと、この説明はもちろん主従を違えている。本来の順序としては我々の世界を参照して世界設定を作っているからだ。

*5:なぜその言葉を用いたのか、あるいは原案の言葉を別の言葉に置き換えたのかといった、ある言葉を使用する目的。

*6:個人や団体ならび歴史など、現実の世界に由来するもの。

*7:蜘蛛の糸」の出典と芥川龍之介の翻案については承知しているが、ここで触れると長くなるしそれ以前の話なので割愛する。

*8:補足しておくと「ロンヌノワウル」は作品世界における産地(固有名詞)なので置き換え不可能。

*9:作中では「バロック・オルタズム」とちょっと独自感を出そうと浅いことをしている。

*10:「白山」「白頭山」「アルペン」「カフカスクロウカシス)」「ダウラギリ」「マウナケア」など。

*11:これらの知識は『ジャガイモのきた道』山本紀夫(岩波新書)に依っている。→

ジャガイモのきた道: 文明・飢饉・戦争 (岩波新書) | 山本 紀夫 |本 | 通販 | Amazon

*12:明治には機関車を「陸蒸気」(おかじょうき)と呼んだのを知っている人も多いと思うが、これも乗り物としては「陸でない蒸気」すなわち蒸気船が先行していたことからついた呼び名であるという。

*13:ただ、何かしらの呼称をつける必然性、必要性が生じればつける可能性は否定できない。

作品世界の言語について1(シワの見解:総論編)

 ファンタジー小説(この項では『現在ならび現実と異なる世界を舞台にした作品』と大雑把に定義しておく。)において、どこまで日本語は許容されるのか。

 これは趣味領域においても社会性の乏しい*1 僕でさえタイムラインでちょくちょく見かけてきた話題だ。

 

 それについてこの記事で僕なりの見解を述べる。(約9千文字)

 

 

作品世界に存在するかしないか

 仏教が存在しない作品世界なのになぜ仏教用語を当たり前に使っているのか。

 

 この疑問はもっともである。

 西洋ファンタジーで「王子が誕生する前日、王国上空には瑞雲がたなびいていた。」という一文が出てくれば「瑞雲?」となるのも無理はないと思う。

 むろん問題は仏教用語に限らない。何かしらの宗教に由来する言葉や固有名詞(特に人名に由来するもの)、ことわざや故事成語といった慣用句などもそうした疑問を喚起する蓋然性が高い。

 

 そしてその疑問の度合い、すなわち読者に生じさせた違和感が強ければ強いほど作品世界としての強度は弱まってしまう。それが行き着くところまで行き着けばもはや作品を読む気は失せてしまう(当事者比)。なので作者はそうした違和を感じさせぬよう、作中の言葉選びにも細心の注意を払わねければならない。

 

 たとえば「完璧な作戦だ」というセリフがあったとする。

 しかし「完璧」は中国の故事に由来するので、作品世界にも古代中国がないと使えない。となると「不備のない作戦だ」や「パーフェクトなプランだ」と作品世界でも通じるように言葉を変えていかなければならない。さらに今度は「パーフェクト」や「プラン」は英語なので作品世界に英国があるのかという問題も生じる。という具合に考えていくと選択肢はおのずと限られてくる 。*2

 

切り分けすぎると……

 しかしこのように網羅的に語源を調べて取り換えていく方法には限界がある。というか逐一に検討していく方法は現実的ではない。

 というのも我々が日常的に使う日本語には、もはや何が由来であるかなど普段意識にさえのぼらないほどに馴染んだ言葉が無数にあるからだ。*3

 仏教由来はだめ、ことわざはだめ、故事はだめ、と排除を進めた先にはおそらく大和言葉が残るだろう。そうなると純粋な日本語とは何かという言語学じみた領域に迷い込んでしまう。

 

 だけどあれ?

 そもそもこの作品世界に日本は存在しているのだろうか。

 だったら大和言葉でもだめじゃない?

 

 かくて人工言語の創造に至るのも解決策のひとつであろう。

 私はその方へ行く方々を止めない。むしろ素晴らしさと羨ましさを感じる。

 しかし今の私にそれはできないし、自分にとって現実的かどうかという線で考えると非常に厳しいと言わざるを得ない。*4

 

発想を変えて建前で

 よく考えるまでもなく我々は日本語で作品を発表している。

 これは大前提だ。もし作者が作品世界の言語体系(人工言語)のみで作品を発表できるのならば、その点においてのみは手放しで称賛してもよいが、それでも読者はこちらの世界にいる人間であるという前提は覆らない。*5

 である以上こちらの世界の言語への翻訳はやはり避けられない。

 

 そう、すべては翻訳だ。

 

 仮に作者が作品世界の言語ならびに民族、文化、歴史などを知悉しているのだとしても、その世界の物語や出来事を日本人に伝える以上は日本語に訳さなけれなばならない。

 つまり「完璧な作戦だ」というセリフがあったとしても、これは「完璧」という故事成語が作品世界でそのまま使われているのではなく、作品世界における似た概念の言葉に作者が「完璧」とあてているだけなのである。

 

翻訳の建前=解決ではない

 という「作者翻訳」の建前を持ってくるのが妥協的あるいは現実的*6 な解決法だろう、というのが僕の見解だ。

 

 ただしこれは「どつぼにはまって執筆が詰まってしまうのなら、とりあえず『作者翻訳』の建前でクリアーしておけ」というニュアンスの、大きく書く側に寄った見解である。このあたりは読む側か書く側かで捉え方も大きく異なってくるだろう。また、僕とて何でもかんでも「作者翻訳」で解決できるとは思っていない

 

建前で通じる範囲を考える

 ここからは「作者翻訳」という建前があってもなお違和感を与える可能性がある言葉とは何かを僕なりの指標で考える。なので以下は僕の、それも書く側に寄った感覚だけで語っていく。

「瑞雲」「会釈」

 先述した「瑞雲」に違和感が生じると思われるのは、「瑞雲」が仏教に由来するかどうかは実はあまり関係ない。違和感の大きな原因は「瑞雲」という言葉を我々が日常的に使わないからだろう。しかもそこに西洋ファンタジーという前提があるものだから、なじみのないもの同士が混ざってしまい、結果として大きな食い違いが起こったのだろうと思われる。

 同じ仏教に由来する言葉でも我々が日常的に使いなじんでいる「会釈」や「因縁」であれば、たとい西洋ファンタジーでもそこまで違和感は生まないはずだ。

 

「断末魔」「修羅」

 他方で「断末魔」は日常的に使わないものの、「断末魔の叫び」という言葉は定型的な文章表現と化しているように思われるので、「瑞雲」ほどの違和感は生じにくいのではないだろうか。

 

「修羅」や「羅刹」はどうか。僕個人は仏教色を強く感じるので難しいと感じるが、「作者翻訳」の建前で押し切れそうな気がしないでもない。しかしそれでも漢語的なニュアンスが強いので、修羅ではなく「狂戦士」も検討してみるといいだろう。このあたりは作品個別の色と要相談な気がする。

 

「仏」「完璧」

 死体を指して「仏さん」というのはかなり強い違和感を呼び起こすと思う。「その世界、仏さんいるの?」と。これは「仏」という字面があまりに直接的に仏教(または仏陀)を連想させてしまうのと、死体を仏さんと呼ぶのは現代の刑事ものであるという印象が強すぎるのが大きな原因であろう。

 

 繰り返しになるが「完璧」はどうだろうか。これは大きな問題なく使える気がする。やはり現代の我々が日常的に使う言葉だからだ。

 

スマホ」など現代技術

 ただし日常的に使っている言葉だからといって、地球の現代文明をそのまま連想させるような言葉(スマホ、パソコンなど)となるともちろん採択の基準は変わってくる。当然ながら作品世界の文明に合わせたものを選ぶのがよい。*7

 同様の理由で名詞化した固有名詞や、歴史的な匂いが強い言葉も避けた方がよい。動植物なんかでも発見者の名前がついているものがあるので、ここいらの使えるかどうかの判断は逐次的に行われるべきだろう。

 

日常的かどうか

 ここまで見てきてお分かりいただけたかもしれないが、僕の感覚的判断として、作者翻訳の建前は日常的に用いる言葉かどうかというのが一つの大きな採択基準になっている。

 

 ただこの「日常的に用いる」のニュアンスも少し複雑だ。

 というのも、通常の生活における会話や文章(説明書や書類など)でよく用いる普遍的な語彙と、小説やファンタジー作品の文章でよく見かける作品的な語彙がそれぞれ微妙にずれて存在しているからだ。

 例に挙げた言葉でいえば「完璧」や「因縁」は両方にしっかり収まるが「スマホ」は前者、「断末魔の叫び」「修羅」*8は後者に分類されるだろうか。

 ここで僕が言う「日常的に用いる」はこの両方を指していると考えてほしい。

 

作品に適しているか

 採択の基準でいえばもうひとつ別の観点もある。

 先の例で「瑞雲」にまた登場していただく。この漢語的なニュアンスが強い言葉は西洋ファンタジーにそぐわないのではないか、というのはすでに指摘した通りだ。これはたとえ「瑞雲」という言葉が「小説やファンタジー作品の文章でよく見かける作品的な語彙」であったとしても、実際に作品に使えるかどうかの採択基準はまた別の観点からも求められるということである。

 

 つまりある作品に使える語彙は作品世界(の雰囲気)にも照らして考える必要がある。平たく言えば世界観にあっているかどうかだ。これがうまくかみ合っていないと雰囲気がぶち壊しになってしまう。そしていったん雰囲気がぶち壊しになってしまうと、作品そのものの魅力も大きく減退してしまう。

 たとえば和風な作品であれば宗教用語であっても陰陽道神道由来の言葉を使える範囲は、西洋的な作品よりはぐっと緩和されるだろう。一方で横文字には大きな制限がかかってくる。

 

 先述の「修羅」や「スマホ」もこちらの部分にかかってくる言葉かもしれない。

 たとえば「修羅」は西洋的な作品であれば思い切って「バーサーカー」としてもよいかもしれない。(今度は北欧神話との兼ね合いや、修羅とバーサーカーの比較が生じてくるので、やはりそこも含めて検討しなければならないが。)

 他にも主人公が軍人の作品で「艦橋」とするか「ブリッジ」とするかや、(ファンタジーではないが翻訳という観点で)「COOL!」をそのまま「クール!」とするのか、「いけてる!」とするかといったような事例もこれに当てはまるだろう。

 

固有名詞などの事例

 ここまでは「日常的に用いる言葉かどうか」と「作品の雰囲気に合っているか」という観点から言葉を見てきた。しかし我々が使う言葉には、我々の世界でしか使えない言葉もたくさん存在している。

 繰り返し挙げてきた仏教由来の言葉はその最たる例だ。これらは仏教(伝来)なくしては日本語にならなかった言葉であろう。しかし由来がなんであれ、ほとんどの言葉は年月の経過とともにすっかり定着し、「安心」「ありがとう」のように、もはや仏教のイメージが完全に消えた言葉も存在している。そしてこうしたものは「日常的に用いる言葉かどうか」という判断で見てきた。

 

 一方で我々が日常的に用いていても注意を要する言葉も存在している。

 それがここから取り上げる「固有名詞が名詞化」した言葉と「歴史的な匂いが強い」言葉だ。

 

 ケーキの上部に栗のクリームを巻いた洋菓子を我々は「モンブラン」と呼んでいるが、この名がアルプスの同名の山に由来しているのはよく知られている。つまりモンブラン山がない世界を舞台にした作品では、よしんば同じ形状のケーキが存在したとしても「モンブラン」とは呼ばれない可能性があるわけだ。*9

 そこを「作者翻訳」でモンブランとしてしまってもよいものか、私は一律に判断を下せない。

 忠実に訳せばモン・ブランで「白い山」「白山」などとなるが、これは山の名であってお菓子を指したものではないし、そもそもこのような訳は「オックスフォード」をわざわざ「牛津」「牛の瀬」とするようなもので、現代の日本語に訳するという観点でまた別の違和感が生じる。*10

 

 こうした固有名詞に由来しながらも我々の生活にも定着している言葉は、特定の宗教や分野に関係なく無数に存在している。

 しかし作品世界の強度を守るためにはこの点も疎かにはできない。作品世界(の雰囲気)にも照らして考えるうえでは、このような言葉もしっかりと認識して嗅ぎ分けていく必要があろう。

 

いくらかの事例

 以下で数例、僕の感覚によって「名詞化した固有名詞や、歴史的な匂いが強い言葉」への線引きの判断を示しておく。(といっても具体的な作品世界に基づいて判断するわけではないので保留も多い。)

 

「アキレス腱」「天王山」

「アキレス腱」は使えるかどうか。部位としての言葉とするなら「作者翻訳」でいけそうな気もするが、アキレスがいるのかどうかということになるので、「腱」「かかとの腱」でもよいだろうという気がする。「太公望」「天王山」は固有名詞や歴史的な言葉としての存在感が強いので使わない。

 

難敵「サンドイッチ」

 固有名詞の名詞化という点で「サンドイッチ」は実によい題材だ。

 サンドウィッチ伯爵に由来するという逸話はあまりに広く知られている。そのため読者に「この世界に伯爵いねーだろ」と強い違和感を与える確率はかなり高い。

 いっそ作品世界にも同名の伯爵がいたとするのは……、あまりに牽強付会だし安直な感じがする。そんなことをすれば作品世界の強度が藁きれ同然になってしまいかねない。といってここまで人口に膾炙していると「作者翻訳」の建前でも違和感を減少させられるかどうか。

 しかしパン(ないしパン状のもの)で具をはさんで食べるなんて方法は伯爵が誕生するよりも前からあったわけで、伯爵が世界で初めて発明したものではない。この人はあくまで「サンドイッチ」という名の由来とされているだけだ*11 。なら作品世界における普通名詞としての料理名をつけるのもひとつの手ではないかという気がする。となると個別の作品世界ごとに照らして考えるしかないので保留。

 

「ギロチン」「ドラキュラ」「パパラッチ」

 固有名詞の名詞化の他の例を挙げると「ギロチン」「ドラキュラ」「パパラッチ」あたりだろうか。

 どれも「作者翻訳」の建前で違和感を減らせるのかどうかは怪しい。しかしこれらには「断頭台」「吸血鬼」といった、固有名詞の印象をうまく消せる適切な訳語があるのでそちらを使うのがよいだろう。

「パパラッチ」は難しい。これを無理に和訳すると明治の小説みたいになってしまうので保留だ。無難にいくなら「パパラッチ」という言葉を使わず、その行為で説明する方法だろう。「私生活でさえ一部の過激な報道者に追い回されている。」みたいな。

 

「包丁」はどうだ。この言葉は『荘子』の庖丁が由来という説があるけれど、現代日本でも日常的に用いる言葉なので「作者翻訳」の建前で切り抜けられそうだ。

 

「ジャガイモ」「サツマイモ」

 食べ物で言うと「ジャガイモ」「サツマイモ」は、それぞれ現実の地名ジャカルタ*12 、薩摩に由来しているので使いにくい。といってそれぞれ「馬鈴薯」「甘藷」としてみると、馬鈴薯はともかく甘藷は聞き慣れない人の方が多いだろう。なので「この問題を避けるため無理に訳しました」感が強く出てしまう。難しい。この理屈でいくと「唐辛子」「インゲン豆」なんかも怪しくなってくる。

「かぼちゃ」もそうだ。この呼び方はカンボジアに由来する説がある。といって南京や南瓜、唐茄子にすると今度は中国にぶち当たってしまう。さ、避けられない。

 

 ……語源を知れば知るほど足場が崩れていく気がしないだろうか。

 結局このあたりは作者の読書経験と力加減に委ねられる。

 

「作者翻訳」の建前をくぐりぬけるもの

 ここまで「作者翻訳」の建前でも使いにくいであろう固有名詞の例を挙げてきたが、この建前をほぼ手放しでくぐりぬけられる固有名詞も存在している。

 作品世界の人名と地名である。

 これらは意味を汲んで日本語に訳さずに音のみで表記するはずで、要するに現実における外国の人名や地名と同じ扱いとなってくるだろう。先に挙げたオックスフォードがそうだし、レオンハルトさんは強獅子さんとは訳さないし、コッツウォルズ地方は羊ヶ丘地方とは訳さない。

 

 この作品世界の固有名詞は基本的に訳さないという理屈、一応は人名や地名以外にも転用が可能だ。特に食べ物などには使い勝手がいい。

 先述のモンブランやジャガイモを例にこの理屈を推し進めてみよう。

 

 ある作品世界にモンブランと同じような菓子*13 が存在しており、その世界ではこれを「タレヒコ」*14 と呼んでいるのならば以降はずっと「タレヒコ」を記せばよいのである。ジャガイモにしても作品世界では「スワフ芋」とでもしておけばジャカルタの問題は回避できる。サンドイッチにも同じ方法が使える。

 

なんでもは訳せない

 もっとも私はこの「タレヒコ」「スワフ芋」のような、なんでもかんでも音の表記で済ませる方法は二つの懸念からお勧めしない。

 

 まず「タレヒコ」が作中のお菓子であるとしても、そもそも読者にこの未知の言葉「タレヒコ」とは何なのかを説明しなければならないというのが一点。要するに「タレヒコ」の説明を本文に組みこまないと、この言葉がモンブランを指しているとは読者に伝わらないということだ。

 では本文に組み込むとして、こんな感じだろうか。

「ケーキの上部に栗のクリームを巻いた菓子タレヒコ」

 まあこれぐらいならモンブランだと伝わるかもしれない。

 

 では異世界のジャガイモこと「スワフ芋」はどうか。

「薄黄色で表面にはいくつかのでこぼこがあり、握りこぶしよりやや小さいスワフ芋を使ったもっとも簡単な料理は蒸かし芋だ。ホクホクの食感が楽しめる。」

 これで読者にジャガイモを想像してもらえるだろうか。少なくとも私はこの文章でジャガイモだと伝えられる自信はない。もっと別の簡潔な書き方がいいかもしれないし、調理法よりも栽培方法や放置すると発芽してその芽には毒性が含まれることを伝えたほうがわかってもらいやすいかもしれない。

 

 ただ、どんな音に置き換えるにしても、それがこの世界のものと似たものであるという説明はどこかでしておかないと読者には通じないのではないだろうか。もちろん「『タレヒコ』や『スワフ芋』の説明なんてしなくてもいい、そういう食べ物があるということだけ伝われば十分」というのであればそれでもよいと思う。

 しかし私の性質上、翻訳の建前をとる以上ある程度までは読者に現実の言語との結び付けを担保しておかないと不安になってしまうので、「そういうものがある」だけで押し通す方法はやりたくはない。投げるなら可能な限り正確な制球を心掛けたいのだ。

 

 二つ目の懸念。

「タレヒコ」という言葉を出すとして、その言葉にはどんな意味が込められているのかという設定も考えなければならくなってくるのではないだろうか。「モンブラン」は「白い山」という意味を持っている。では「タレヒコ」は? そもそも「タレヒコ」なのか「タ・レヒコ」なのか「タレ・ヒコ」なのか。

 

「スワフ芋」にしても同じだ。ジャガイモはジャカルタからきているが「スワフ」は何に由来しているのか。作品世界の「スワフ」なる港から輸出されたからだろうか。でもそれまんまジャガイモじゃん、本当に音を置き換えただけじゃん。それ設定したって言えるのか。置き換える意味あるかな。

 

 といってそれぞれの音と作品世界の言語を逐一に当てはめていくと、オリジナルの創作言語を作っているようなものになってくる。元々そこの多大な労を回避するために「作者翻訳」の建前に切り替えたはずなのに、こんなところでかかずらっていては舎本逐末である。

 

 いちいちそういうことをしてどつぼにはまって肝心の作品が進まないのだったら、「作者翻訳」の建前で割り切って「ジャガイモ」でいきましょうと、そういう話をしていたはずだ。

 

 いずれにせよ現在の私はなんでも音で表記して本来の訳部分を疎かにするのには否定的な立場だ。音の表記は人名や地名など、それ以上邦訳できないという範囲にとどめたい。

 

設定次第で

 だけど結局のところこんなものは設定次第である。

 剣と魔法のファンタジーで「モンブラン」なる単語が出てきても、実はその世界は現在よりはるか未来の文明が衰退した世界でしたみたいな設定にしてしまえば、そこには旧世界とのつながりが見えてくるわけで、その言葉を使っていたこと自体にもそれなりの意義が出てくる。(作品上「モンブラン」でそれをする意味があるのかという別の観点からの判断も必要だが。)

 もっともこの記事におけるファンタジーの定義は冒頭に掲げた通り『現在ならび現実と異なる世界を舞台にした作品』なので、現実と地続きである時点で俎上に載せるのは主旨が違っているのだけど。

 

結論?

「作者翻訳」の建前とその言葉の採択基準は、作品世界の強度(雰囲気)をどこまで保ちたいかにかかっている

 その線引きと見極めは、個々の作者の匙加減や作品の特色によってケース・バイ・ケースといえる。ただし線引きと見極めを誤ると作品世界の強度は一気に弱まり、読者の没入度を著しく下げてしまうだろう。端的にいえば作品が安っぽいつくりものに感じられ、もはやそれ以上読む気が失せてしまうということである。

 

 僕は言語学の専門家ではないので「作者翻訳」という建前に拠って問題の半分ぐらいには目をつむるけれど、かといって何でもかんでも「作者翻訳」で解決できるとは思っていない。それはこうした作品世界の強度にの問題が絡んでくるからだ。作品の言葉選びには不断の注意を払うに越したことはない。

 

 ところでここまでは具体的な作品世界を想定せず、ただ漠然と言葉についてのみ取り上げてきた。そのため基準もなく曖昧な部分が多かった。

 

 そもそも「作者翻訳」の建前となる基準は作品固有の性質に依拠するところも大きく、具体的な例なくしては語れない事例も多い。

 そこで次回では具体的な例を示すため、『蒸奇都市倶楽部』のスチームパンク+近代ファンタジーな作品世界に基づいた「作者翻訳」の建前の判断事例をいくつか紹介していく。

 

ks2384ai.hatenablog.jp

 

 

 

*1:SNSほぼ見ない人間という意味。

*2:もっともこうやって逐次に言葉を組み替える作業が行われるのは作品精度を高める推敲時になろう。書き出しからこんな調子では本文が進まない。

*3:恥ずかしながら私は先の「完璧」の由来を数年前まで全く知らなかった。

*4:言語とは民族や歴史、文化と密接なかかわりがある。今の私にはとてもそこまでのものは作れない。

*5:架空言語からこちらの世界の言語に訳することを楽しんでもらう、というのも文章作品の表現としてはありなのだが、それでは話が平行線になるので今回は措く。

*6:現実はしばしば妥協の積み上げにより成り立っている。

*7:作中のオーバーテクノロジーなのかロストテクノロジーなのか、はたまた現代の地球をはるかに上回る技術水準を持っているのかなど。

*8:「修羅場」となると両方

*9:これは主従を違えている可能性がある。そもそも山がなければあの形状のケーキも生まれていない可能性を排除しきれないからだ。

*10:そこまでして「モンブラン」を出したいのかという根本的な疑問はこの話の主旨ではないので考えない。

*11:それにしたって強すぎであるが。

*12:ジャワ島説もあるが以下ではジャカルタ説で話を進める。ちなみにジャカルタもジャワ島にある。

*13:「洋菓子」とすると「和菓子」との対比が前提となって使えなくなるので単に「菓子」としている。

*14:既存の固有名詞に抵触しないであろう適当な音の組み合わせでむろん意味はない。

『人間裏街道』

人間裏街道

成瀬紫苑

Polaris*(2021年1月17日発行)

 あらすじ代わりのWebカタログ。

c.bunfree.net

 学びの姿勢を失えば人間ではなくなる。

 通学を主とするタイプの学校生活における勉強とは、各種の学科学問のみならず、教師や学年、クラスという疑似的な形で社会との接し方も含んでいると思う。その場で形成される人間関係の良し悪しは別にして、こうした疑似的な社会*1 を形成する学校において、他人との関わりあいを避けるというのは自ら学びの機会を潰しているようなものだ。

 と達観したふうに言えるのは、そういう学校を出て何十年も経っているからであって、学生だった当時にはもちろんそんな考えは持っていなかった。

 

 主人公の黒川ありす(以下、作中にならいアリス表記)は高校生でありながら、人との深い関わりを避けて生きている。不登校生でもないのにそうしているのは、すでに社会(との距離感)を学んで彼女なりの見解を持っているからだ。そのうえで社会との深い関係の構築を望まない彼女は自らの手で人生を断とうとする。

 

 本作はそんなアリスの一人称視点で書かれているため、基本的に彼女の心境の変化を追う形で展開する。そうした結構とミステリー作品などをよく読むという設定から、アリスが自分の身の回りの出来事を観察し推断を下す場面が多い。たまに説明不足な感を受けるところもあるが*2 、概ねの論理の運びには納得できるところであった。 

 

 人生にぶつかったものの逃避先が裏街道であるという。現実逃避のための空間で、住人は他人に興味を示さず、脇目も振らず自分がしたいことをしている。その描写を見る限り逃避してきた人間は概ね社会との関わり合い、もっと言えば人間関係において絶望した者が多いようだ。人目を気にせず自分のやりたいことをやるということは、それが社会に与える影響を一切考慮しないということでもある。

 

 そうした裏街道に、人との関わり合いを避けながら生きてきて、そして死を選んだアリスが招かれる。裏街道の住人とアリスとの違いは一体どこにあるのか。そこの見せ方は巧みであったように思う。

 

以下の感想はネタバレを含みます。

 

*1:もっとも当事者の学生にとっては疑似でも何でもなく、紛れもなくひとつの社会であるのだが。

*2:【一例】学校生活においてアリスは『周りに同化することばかりを選択して』いるという。周りに同化ということは学生生活に溶け込んでいるのかと思ったが、その割には母から苦言を呈されるレベルでおしゃれに無頓着な彼女は、年頃の子から浮いているような印象を受けた。これは僕の印象とアリスの「同化」でかかる言葉が違うのかなと捉えて直した。僕は同化先を「学校生活」ととらえたが、ここでアリスが言った同化先は「背景」や「空気」といったニュアンスだということにしたほうがよさそうだ。

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資格がないという自覚は持ちたい

「実はぼく『文学フリマ』の参加資格を持っていないんです」

 

 これは僕が『文学フリマ』に参加されている方と話すときの定番のひとつだ。

 こう言うのにはむろん理由があって、それは文学フリマ公式の〈文学〉の定義、

文学フリマでの〈文学〉
「自分が〈文学〉と信じるもの」が文学フリマでの〈文学〉の定義です。
既成の文壇や文芸誌の枠にとらわれず〈文学〉を発表でき、作り手や読者が直接コミュニケートできる「場」を提供するため、プロ・アマなどの垣根も取り払って、すべての人が〈文学〉の担い手となれるイベントとして構想されました。

 『文学フリマとは | 文学フリマ』内「文学フリマでの〈文学〉 」より引用

 に依っているわけだ。また加えて、

また、「文学フリマ」は「文学作品の展示即売会」ですが、そこでの〈文学〉の定義は参加者各自に委ねることとします。

同ページ「文学フリマの理念と目的」より引用

 とも言っている。そしてこの『理念と目的』の冒頭でこのように述べている。

文学フリマ」は既成の文壇や文芸誌の枠にとらわれず〈文学〉を発表できる「場」を提供すること、作り手や読者が直接コミュニケートできる「場」をつくることを目的としたイベントです。

その意味するところは、〈文学〉を閉鎖的な営為の中から解き放つことであり、すべての人に〈文学〉の担い手となってもらうことでもあります。

 参加者の視点に立てば『文学フリマ』という場の第一義とは、各自が自らの〈文学〉観に基づく作品を発表*1する場である。

 

 そんな場において参加資格がないという私はなんなのか。

 これについて現時点での分析めいたものを残しておく。

 例によって自分のことだけを述べた記事である。

 

 まずこの記事は前回に述べた内容を下敷きにしている。

ks2384ai.hatenablog.jp

 

 

〈文学〉なき私

文学フリマ」における〈文学〉というものが『自分が〈文学〉と信じるもの』であるうえ、『そこでの〈文学〉の定義は参加者各自に委ね』られるものである以上、その場に参加している私にもなにしかしらの〈文学〉観が内在していなければならぬはずである。

 しかし、冒頭に述べたようなことを口にする時点で、私には自分の〈文学〉というものがまるでつかめていない。

 

 つまり信じる、信じない以前の問題であり、畢竟するに僕は〈文学〉というものが何かずっとわからぬままにものを書いてあの場に出ているのだ。

(そしてこれも方々で言っていることだが*2 )文学や小説というものが分からぬでも何かしら作品だか小説だかは書けてしまうから、僕は『文学フリマ』に何食わぬ顔でサークル参加している。

 なので僕が『文学フリマ』に卸している*3 作品が〈文学〉に該当するかと問われれば、まあ当てはまらないだろう。作者自身「これが〈文学〉だ」と言えるものがない中で作られた作品にどうして〈文学〉を込められよう。

 

文学フリマ』に参加しはじめて十数年経つものの、自分がいまだ『文学フリマ』という場にしっかり立てたという感覚を抱けないのは、全てここに由来している。

 

〈文学〉とは

 まあ「文学フリマ」云々は話の枕でさして重要ではない。

 わたしにとって大事なのは〈文学〉とは何かという部分だ。

 

 文学、現代日本では『小説』こそ文学の中心ですよみたいな顔をしているが、ご存じのようにそれは近代以降のことだ。文学史で学ぶ文学には口伝があり和歌があり、説話や軍記があり、各種の草子もあった。といってここで日本文学史は掘り下げないが、いずれにせよ文学≒小説の面目が成り立つのはせいぜい明治以降。*4

 

〈文学〉とは文学史的には時代によって変遷しうる広範なものである。

 小説とはそうした多様な〈文学〉の一形態にすぎない。

 

 というのは知識として理解している。そしてこの定義の広さに大いに甘えてしまえば、こうした自問自答の文章すら〈文学〉に含めてしまえるのではないかとも思えてくる。

 しかし僕にかけられている呪縛が、そんなものは妥協だ逃げだと笑う。

 この呪縛は僕がなにかしらの小説を書こうとする時、小説について考える時、あるいは広範に〈文学〉というものを考えようとする時などに常につきまとう。

 

〈文学〉という呪縛

 ここに「純文学」という小説の形態がある。

「純」というその呼び名から、〈文学〉における何かしらの混じり気のなさ、妥協のなさを感じさせる(少なくとも僕はそう感じて気後れしてしまう)。あるいはそこに文壇であるとか権威であるとかを匂わせる*5

 私は現代における純文学の在り方や文壇がどうだという状況はまるで知らぬが、しかし元々いた畑と恩師との関係もあって、「〈文学〉と言えば純文学」という意識が、いや、もっと言えば「純文学にあらずんば〈文学〉にあらず」という固定観念が強く印されている。そして特に断りなく〈文学〉と言われたら僕はそれを「純文学」だと捉えてしまう程度には教育されてしまっている。

 

 純文学でなければ〈文学〉ではない。

 

 この焼き印こそ私の呪縛の正体であり、この問題の起点でもある。

 つまるところ僕にとって「〈文学〉とは何か」という問いは、「純文学とはいかなるものか」という自問に等しい。

 そしてここから生じたのが「純文学を書いていない俺は〈文学〉をやっているとは言えない」という劣等感だ。

 

 この呪縛と劣等感は僕が大衆小説的なもの*6 を書こうとする際にも「逃げている」とか「お前のそれは文学ではない」とか、そんなことを言ってくる。(こういうことを考えてしまう時点で「純文学以外の小説は文学にあらず」という意識が根付いている証拠だ。)

 そしてこれは、私が前の記事で頑なに『小説』と言い続けた理由にも絡む。人によってはあの記事の「小説」「小説観」は、そのまま「文学」「文学観」に置き換えても差し支えはないだろう。

 だが、私ではだめなのだ。私は「小説」と「文学」を切り分けることで辛うじて「これは〈文学〉ではないから、小説だから」と自分に言い聞かせ、精神衛生上の自衛を図っている。

 

小説と文学

 自衛にあたって「小説」と「文学」を分けるには、「小説」と「文学」(もっといえば「純文学」)の差異を求めなければならない。単なる言葉の置き換えならば分ける意味はないからだ。といって完全に切り離すのも分野上不可能であるし、それができていればこんなに悩んではいない。

 つまり〈文学〉と「純文学」と「小説」を異なるものと位置づけながらも、近い座標には置かねばならないわけだ。

 で、現在の僕なりの結論から書く。

 

 おそらく「純文学でなければ〈文学〉ではない」という言説は、

1:「純文学」を小説内の一区分と措定したうえで「現在における主な文学形態は小説」という近代的な図式で見た場合

2:「純文学」を「媒体に囚われない純的な文学」と定義する場合

 この二つの上で成り立つのではないだろうか。

 

「2」は文学史的な広範な〈文学〉に基づくものだ。〈文学〉が多様なものであったという前提に立ったうえで、これらの〈文学〉の中に「純粋」的な要素を見出そうとする姿勢を指す。いわば純文学を文学史上から通史的に見出そうというものだが、その時点でひとまず僕の焦点からは外れる。(文学史的に述べるのならば、「純文学でなければ〈文学〉ではない」というのは近視眼的な言い分になるかもしれないが、俺の問題点はそこではないよ、と。)

 

 小説を書く僕は必然的に「1」の見方を採っているし、その見方が成った時点で『〈文学〉の中に「小説」という形態があり、そのうちの一部が「純文学」という区分である』という整理も一応は済んでいるわけだ。

 そして僕はその「小説」の区分の内で「純文学」ではなく「大衆小説」というものを志向して書こうとする場合が多い。(これが「〈文学〉ではないから、小説だから」という自衛である点はすでに述べた。)

 

 しかし呪縛はなおもこう指摘してくる。

 

「近代以降の〈文学〉が小説に代表されるようになったのはひとえに『純文学』によってではないか?」

「お前の言う文学と純文学は等号で結び付けてもよいのではないか?」

「そこを避けて小説を書くのか?」*7

 

 うるせぇよ、と言えたら楽なんだけど言えないからいまこんなものを書いてるわけで。

 

 反論はある。

 私としては「〈文学〉の中の大衆小説」というミクロな視点で考えることで、「〈文学〉あるいは純文学とはいかなるものか」という問いの真正面に立たないようにしているのだ。

 これについて「〈文学〉に小説が含まれるのならば、小説について考えるということは多かれ少なかれ純文学について考えることでもあるのでは? 避けられてなくね?」と思う人もいるだろう。

 

 おっしゃる通りだ。

 

 しかしこの〈文学〉と小説、そして「純文学」と他の小説を切り分ける自衛策は必ずしも防戦のためのものでもない。(と自分に言い聞かせている。)

 幸い現在の私は「小説」については考えられる。

 そして微視的に「小説」を考えるということは、巨視的に通じている〈文学〉ひいては純文学について考えることにどこかで通じるはずだと信じている。というか、現在の状態ではおそらくこういう形で経由しなければ「純文学」へのアプローチをかけられない。*8

小説とは

 小説というものは考えることができるので、曲芸的に大衆小説の方向から純文学へのアプローチを試みている。

 そんな自分に対してさらに底意地の悪い問いかけが続く。

 

「お前は大衆小説を志向しているというが、そもそも純文学や文学がわからない身であろう。それなのに大衆小説がなんたるかということはわかるのか。純文学がわからないくせに大衆小説と純文学の区別はつくのか」

 

 この問いには正直に「分からない」と答えるしかない。

 だからこそ繰り返し「小説」について考えたい、考えねばならぬと言っているわけであるし、その過程として自己解体と自己言及を求めているわけである。

 

 そうした中でなんとなくこうなのではないかと掴みかけているものもある。

 小説というのはおそらく「人間を描く」ものではないだろうか、と。

 

 どちらかというとデータや根拠のみを求めてしまう人間であった私が、小説ないし芸術に惹かれるのもそこにあるのではないかと踏んでいる。そしてこれは人間という存在を僕なりにしっかり把握したいという欲求の表れであるかもしれない。

 しかし現状のこれをそのまま「純文学」に転用していいのかはまだまだわからない。

 

 大体こんなものに正答がないのは承知している。

 そして正答がないからこそ、その時点における自分なりの答えを導かなければならないとも思っているし、だからこそ生きている限り探り続け問い続け、もがき続けるのだろうと考えている。

 

 私が抱いているのは「劣等感」ではなく、「劣等コンプレックス」ではないかという気もしないではない。いずれにせよこの辺りの問題が僕の「承認欲求でものを書く」にも通じているのではないだろうか。最近はそんなふうに見当をつけているが、さてさて、どうなることか。

 

向き合わねばならぬという予感

 ここまで長々と書いてきた。

 それらはいっとき純文学を志し、がっぷり組み合ったものの、なにもつかめぬ無力感に打ちのめされ、しまいには背中を向けて敵前逃亡した敗残者の未練の煩悶。

 そう切り捨ててしまえばそれまでであるかもしれない。

 しかし私はまだ自分を切り捨てられるほどには自分を諦めていない。*9

 

 前回の記事で以下のようにも書いた。

 小説を書くための自己の省察は自己との対話によってのみなされるべきだと考える人もいるだろう。また、作品を書くこと自体が自己との対話であると考えている人もいるだろう。はたまた対話の結果として作品が出来上がるという人もいるかもしれない。

 自己との対話を徹底して行えなかったのも〈文学〉に背を向けた理由のひとつ。  だから今は他人を利用して再臨できないかと考えているわけである。

 

 ……逃げたものと本格的に向き合うには、このトラウマみたいなものをしっかり直視したうえで、そして可能ならばがっちり押さえつけたうえで、再びがっぷり正面から組み合うしかないんだろうな、ということを漠然と感じはじめている。

 純文学と小説を切り分けるのは必ずしも防戦のための自衛ではないと言いつつ、やはり「逃げ」が根底にあるのは否めないからだ。小手先の手段だよね、とか、向き合いたくないがための言い訳だよね、みたいな。

 そう感じてしまう時点で、現代の純文学作品にもっと取り組まなければならないなぁとは思っているのだろう。

 

 だいたい僕が読んだことのある純文学の(歴史的に新しい)作家が三島由紀夫福永武彦である。そこより前の作品や作家には今もちょくちょく手が伸びるが、そこから後は手つかずのままだ。つまり俺の中での純文学ってのが70年代で止まっている*10 。そら時代的にちょっと古いんじゃない? という感じである。

 文学に古いだの新しいだのは似つかわしくない気もするが、純文学をつかもうとする人間が現在のものをまったく読んだことがないというのは笑止であろう。

 

 僕が純文学に向き合う覚悟をどこで固められるか。

 それが今後の僕にとって重大な出来事となる気はしている。 

 と言うだけなら僕にもできるんですけどね。

 

最後に余談を三つ

(1)

 枕で「『文学フリマ』の参加資格」がないと言っているが、そもそも文学フリマの公式は参加資格そのものは語っていない。『「自分が〈文学〉と信じるもの」が文学フリマでの〈文学〉』で、その「〈文学〉を発表できる「場」を提供すること、作り手や読者が直接コミュニケートできる「場」をつくることを目的としたイベント』と言っているだけだ。

 まあ、〈文学〉を展示即売する場に自分の〈文学〉を持ってない奴が出て行っても何ができる、という話であるが。

 

(2)

 僕の日本文学史観は加藤周一の『日本文学史序説』の影響が大きいと思われるので、そこは割り引いて考えてほしい。しかしこの大著は読んで損はないはずなので、最後に広告付きで貼っておく。こんなところまで付き合ってくれた方へのお勧めとして。

 ……文学史上から「純文学」を見出すことは僕の焦点ではないと言ったものの、純文学とはなにかを考える上では、通史的に捉え直すのももしかすると必要なのかもしれないな。俺も読みなおそっか。

 

(3)

 いまだ〈文学〉をつかめないでいる僕だが、それでもやはり逃げる前には取り組んでいた過去があるわけで、その際に最も腰を据えて組み付いていたのが吉田健一だ。とりわけ『文学の楽しみ』『文学概論』の二冊は繰り返し開いた。

 吉田健一の文章はともかく組み付くのに苦労する。それがある程度までいくとそれなりに噛み砕ける(ような気がする)が、それらがさらに腑に落ちるようになるのに一手間も二手間もかかる。

 僕のころはハードカバーだったが今は文庫で出ているので気分的には楽に読め、いや、無理だな。ともかく濃密な時間を過ごせること請け合いだ。人によっては胃もたれを起こすかもしれないが。これも読みなおそっか俺。

 

   

 

*1:販売しろとも頒布しろとも言っていない。

*2:なんならひとつ前の記事でも触れている。

*3:あえてこう表現する。

*4:もちろん私は現代において詩歌は文学ではないということを言いたいのではない。

*5:その匂いを突き詰めると『文学フリマ』誕生の経緯となった「不良債権」問題に絡むのかもしれないがそこには触れない。これはあくまで僕の個人的な話だから。

*6:基本的に僕が書くのは大衆小説的な志向が強いのでこう書く。

*7:私が大衆小説を志向するようになったきっかけが「純文学から逃げた」結果であるのは事実である。

*8:それぐらい「純文学」への苦手意識が根付いている。

*9:それこそ未練であるかもしれないが。

*10:三島由紀夫は70年に自殺、福永武彦は79年に死去。

あなたはどうかと問うとき自分はどうなのかとも問うている

 何かについて人と話すという行いは自己言及であるとともに自己の内面を省察する行いでもある。

 

 先日、久しぶりに会った人々と話す機会があり、その場で小説というものについて語る機を得たのでいくらか話をさせてもらった。

 そうして得た所感とは上記引用ツイートの通りである。

 

『現今の私にとって、今のあなたにとって、小説とは何か』

『なぜ書くという営為を続けているのか』

 

 僕は自身の作品やその付属物(登場人物であるとか設定であるとか)について直接に語るよりも、こうした小説観に関わる問答のほうが好きである。

 その理由はすでに冒頭に書いた。

 何かについて人と話すという行いは、自己言及であるとともに自己の内面を省察する行いでもあるからだ。*1

 

 現在の自分の認識について語り、それについて意見され、また他人にも意見し、そうして自身の認識を深めるととともに、自身でも気づいていなかった内面の考えに気づき、掘り起こし、引き上げていく。感性でしか捉えていなかったものを、あるいは悟性*2 で何となく把握していたものを、対話によって理性でとらえ直す。 人と話すというのはそのようなものであると私は考えている。

(またそれを行うにあたっても対談や鼎談、ともかく少人数で顔を突き合わせての懇談が好ましい。あまり人が多いと脱線してしまう)

 

 いずれにせよ自己の認識について語るというのは、自分を丸裸にして、さらには解剖していくことでもある。そして私は、こうした自己解剖によって得られた自らに対する知見は、小説を書くという営みに深く作用してくるのではないかと思っている。

 

 そもそも今の僕*3 は小説を書くということ自体、自己解体(解剖)、あるいは自己破壊の衝動、(もっと穏当に言えば自己との対話)を伴う営為であると考えている。どんな作品であれ、多かれ少なかれ小説というものは自らの内から汲み出すものがなければ何も書けないのではないだろうか、と。*4

 無論、汲み出す比率や、隠す(わかりづらい形に置き換える)、隠さない(あけっぴろげにする)の分配や、そもそも意識的にやっているか無意識的に表出しているかといった部分は作者によって違ってくるだろう。

 しかしその作者によって違ってくる部分。そこにこそ作者の小説観というものが大きく絡んでくるのではないだろうか。

 

 僕は己の小説観を明確に抱えるということは、書くという行為をより意識的にしてくれるものと信じている。

 

 自分の小説観を深く省みるためにさらなる自己の解剖を求め欲する私は、その手段を他人との会話による自己省察に求めているわけだ。まこと他人の自分勝手な利用もよいところである。

 

 

 小説を書くための自己の省察は自己との対話によってのみなされるべきだと考える人もいるだろう。また、作品を書くこと自体が自己との対話であると考えている人もいるだろう。はたまた対話の結果として作品が出来上がるという人もいるかもしれない。

 

 しかし残念ながら僕はそれができるレベルに達していないし、それができるほどの多様な経験*5 も積めていない。完全に能力不足である。だからこそ、内面においてそれができる人を欽仰するし、同時に劣等感と恐怖感を抱くのである。*6

 なので結局これは自分一人で小説を書くという行為に没頭できぬものの言い草であるかもしれない。

 

 

 少し脇にずれて余談。

「今の僕」が小説を書く動機としてたびたび公言する「承認欲求」であるが、これはあくまで動機であって小説をどうとらえるか、どう書くかという部分とはあまり関係がない。……と思っていたが、最近実はそうでもないんじゃないかと思い始めている。これはまた僕なりに一定の分析結果が出た時点で自分のために記事にして記録しておきたい。

 

 

 さて、私はこの記事の最初の方にこのように書いた。

 僕は自身の作品やその付属物(登場人物であるとか設定であるとか)について直接に語るよりも、こうした小説観に関わる問答のほうが好きである。

 なぜ小説観や書くという営為に照準を定め、『自身の作品やその付属物(登場人物であるとか設定であるとか)について直接に語る』ことを排したのか。自分の作品やその内容について語ることを避けたのかについても書いておかねばならない。

 

 作品というのは過去の作者(自身)から成る結晶物であり、現在の作者(自身)の手を離れてすでに作品という形として存在しているものである。そうした過去の自身が生んだものについて言及するということは、過去の自分について言及するという行為に他ならない。

 しかし僕がこの記事で主眼を置いている他者を介しての自己省察というのは、現在の自分、つまり未成の作品を内に抱えた自己との対話である。したがって自分の作品について語ること(=過去の自分と話すこと)は問題の枠組みに含めなかったのである。

 

 ただ、自分の作品(過去の自分)について他人と話し合い、問題を再び引き寄せるなり光を当て直すというのも、一つの自己対話だろう。しかしそれは他人を介さずとも自分で自分の作品を読み返すことでも行えるのではないか、というのが私の考えだ。自身で成った作品を読むということそれ自体が、過去の自分と現在の自分との対話たりえるからだ。

 

 無論こうした過去の自分との対話が必ずしも無駄だとは思わない。

 作品としてすでに成ってはいても、その中には過去の自分が閑却してきたものや、うっかり置き去りにしてしまったものなんかを再発見できるかもしれないからだ。そうした再発見から新たに問題を捉え直し、再帰的に別の作品を仕上げることも可能だろう*7 。一つの問題や小説観を突き詰めたい場合、さらに発展させたり継承させたい場合にはこうした手段が有効だろう。一方で問題の掬い上げや過去の自分との対話が上手くいかなかった場合には縮小再生産になる恐れもある。

 

(といった長短を踏まえたうえで)自分の作品は自分で読み返せばそれでもう自己との対話であると考えている僕としては、過去の作品について人と話すことに重きを置いていないわけである。

 

 

 ところで僕は作品と作者というものをなるべく結びつけないように意識して作品を読んでいる。(意識している時点で、ついそのように読んでしまうように教育された自分が存在していて、そいつを嫌っているということでもある。)そして僕自身も、何かしらかかわった作品に僕という人間を結び付けてほしくないと思っている。

 その一方で語りによって己の小説観をより確固たるものとして掴み、より自覚的にシワとして小説を書きたいとも思っている。

 

 作品と作者の距離感を離したがっているのに、自己の強い小説観に基づいて作者としての意識を込めたがっている。

 

 この矛盾しているように見える部分も説明しておく。

 

 ここでいう結びつけたくない作者(像)というのは、要するに誤用された意味での性癖であるとか、登場人物に対する作者の過剰な愛であるとか、作者がチャートで示すような属性であるとかわかりやすいタグであるとか、そういった面である。なので読者として作品と作者を結びつけたくないというのは、「俺は俺の読みたいようにこの作品を読むぜ、お前(作者)のこと? 知らんよ(というか不用意に知りたくない)」*8 ということである。

 

 裏返して作者として作品と作者を結び付けてほしくないというのは、「あなたが読む時にはあなたの流儀で読んでください」ということでもあるのだが、そこはもう本当に読者に丸投げだ。だって他人に読み方を強制する権利は有していないもん。ただ製造者としては「やめた方がいいんじゃないかな」と注意を促す程度である。というかそれが限界だ。もちろんここには「読んだことによって生じた種々の出来事にまでは責任を負いません(負いたくありません)」という意味が隠れている。

 

 そうした作者(像)を捨象してもなお、作品に作者というもの(文体であるとか、テーマ的な部分)がにじんでしまうこともあるだろう。良く言えばそれが作家性というものであろうし、悪く言えば作者が持つ癖というものであろう。

 

 ただし注意してもらいたいのは、作者が作品を自覚的に書くということは、作者が強く作品ににじみ出るということと必ずしも等しいわけではないということだ。

 

 むしろ作者が意識して作品を書くことによって初めて、作者と作品の結びつきを薄めることができるのではないだろうかと思っている。いや、薄めるというよりは作者と作品の結びつきの濃度をある程度まで調整できるようになる、といったほうが近いだろう。

 まことに汚い喩えになるが「括約筋が緩いと知らないうちに漏れているかもしれない。それは嫌なのでしっかり鍛えて調整できるようにしたいよね」という話である。

 

 もちろん調整できるようになったうえで、自覚的に作者を強くにじませるのもありだろう。それは調整できずににじんでしまうお漏らしとは一線を画す強烈かつ自覚的なお漏らしであるはずだ。また調整して思いっきり締めても漏れ出てしまうこともあるだろう。*9

 

 調整できるのに敢えて漏らしたもの。

 

 限界まで締めたのに漏れてしまったもの。

 

 そういったものこそ本当の意味で作家性と呼べるのではないかと考えている。ゆえに僕は作品を読むうえで作者の「わかりやすい」性癖を捨てる側に置くのである。

 

 むろんこんな文章を書いている僕は、そうした作家性を可能な限り自覚的に隠したい(あけっぴろげにしたくない)、無意識に漏らしたくないと考えている側だ。

 そのために自分の小説観をつかみたい。

 そのために色々な人と話して括約筋を鍛えたいと。

 

 

 ところで自己の小説観を見つめること(捉えること)と、小説を書けるかどうかということはおそらくあまり関係がない。そもそも小説観をつかむことが小説を書くことに影響するかどうかの因果関係も不明だ。

 小説観がなくても小説を書けてしまう人はたくさんいるはずだ。

 

 僕自身も小説観というものを考えずに書きだしたクチだ。しかし今振り返ると、それらは小説の体裁を繕った散文という感がぬぐえない。しかしいずれそうした過去の自分ともがっつり腰を据えて対話しなければならないと思っている。でも今はまだ難しい。きっとそいつらを殴り飛ばしてしまう*10

 模索して僕なりに漠然とつかめている現状ではようやくそれらしいものを仕上げられるようになってきたと思っている。しかしまだまだ足りないとも思っている。せめて将来の自分が今の僕を殴り飛ばしたくならないように精進するだけである。

 

 かように付随してもっと突き詰めるべき問題、考えるべきことが山ほど生まれ出てくるが、とりあえずはこのあたりで締めておきたい。俺の括約筋の話だったはずなので。

 いや、実に締まらない話でござい。

 

 

 

*1:なぜ「自身の作品やその付属物について直接に語る」ことを含めないのかについては後段で述べる。

*2:「悟性」という言葉自体が多義的なので適切な例ではないかもしれない。

*3:「今の僕は」という断りは当然ながら、「過去の僕は違っていたし、また将来の僕は違うかもしれない」という意味である。この記事における一人称はすべて同様の意味を含む。

*4:自己を一切入れずに外からの要請のみに基づいて書くのはゴーストライターみたいなものととらえているのかもしれない。他方、同じように外からの要請に応じつつも、自らの内から汲み出すものの照準もそこにフィットさせていける打率の高い人間が商業作家になれるのではないか、みたいなことも人と話していて思った。

*5:社会経験であるとか、人生経験であるとか、色々なもの。

*6:恐怖感について補足。自分に「ないもの」は常に輝かしく見えるし、そこに近づきたいとも思うが、もしかすると自分はその光に焼かれる側なのではないかという恐怖だ。

*7:ここで言っているのはリメイクというよりは、自身の手による換骨奪胎といったレベルのこと。

*8:他者の作品を読むということもまた自己省察のきっかけとなり得る。

*9:僕はそういった作品にめっぽう弱い。バイタルパートごとぶち抜かれたらそらあかんなるよ。

*10:他人は他人であるがゆえに手を出したくもならないが、自分は自分であるがゆえに容赦したくなくなってくる。

『魔風恋風』

 久々に明治の小説を読んだ。

 その名は『魔風恋風』。

 絶筆に終わった『金色夜叉』の後に『読売新聞』に連載され、これを上回ると言われるほどの大人気を博した大衆小説だ。正確には再読となるのだが、数十年前にとある大学図書館で読んだきりで、おぼろげなストーリーラインしか記憶していなかったので新鮮な感覚で読めた。

 

 電子書籍の販売元は響林社の「響林社文庫」というレーベル。

「響林社文庫」では、発行後概ね半世紀が経過し著作権が切れた諸作品を発掘して提供しています。

 元の本の版面を複写、画像化したうえで読みやすいよう補正(修正)をかけたものを販売しているそうだ。たとえば今回の『魔風恋風』の複写元(底本?)は1951年刊行の岩波文庫となっている(岩波の公式にもしっかり載っている)。

魔風恋風 前篇 - 岩波書店

魔風恋風 後篇 - 岩波書店


 ところで作品の著作権はとうに切れているにしても*1岩波文庫の本をスキャンして電子書籍として販売するにあたっての権利は何になるのだろう。複製権? 著作隣接権
 出版権は特に設定しなければ3年だそうなので、2002年に著作権が切れた時点で1951年刊行の岩波文庫の版面もフリーになるのか?
 ちょっと調べても条文の解説はあれこれ出てくるが、実務的な部分については不明だった。


以下作品について具体的に触れていく。

ネタバレを含みます。

 

*1:小杉天外は1952年逝去。2002年に著作権が切れている。

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