雑考閑記

雑考閑記

雑な考えを閑な時に記す

『逝きし世の面影』『幻影の明治 名もなき人びとの肖像』

逝きし世の面影

渡辺京二平凡社[平凡社ライブラリー](2005年)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

 

 

幻影の明治 名もなき人びとの肖像

渡辺京二平凡社(2014年)

幻影の明治: 名もなき人びとの肖像

幻影の明治: 名もなき人びとの肖像

 

(20170521公開)

 

感無量。
再三似たようなところを読んでいるような印象を受けるが、これは冒頭より著者の目的意識がはっきりしていて、それを示さんがためであろう。
読んで褒めるにせよ貶すにせよ、本書をどう評価するかは結局のところ自己の世界観に跳ね返ってくるのではなかろうか。まず各種の史観の影響を受けた自己を見つめ直さねばなるまい。あるいは読み進めながら見つめ直すも良かろう。まあそんな面倒なこと考えず、書かれてあることを素直に読んで感慨にふけったけれど。
概括すれば本書で紹介されているような人たちがいた時代が確実にあったということ。

自国の歴史の延長線上に今があるという感覚は薄く、もはや遠い異国の出来事のようである。その断絶というか他人事化は、自分としてはあまりよくないものなんじゃないかなあと感じている。少し改めねばと歴史を学んだりするわけで、しかし歴史という感覚で捉えていること自体が他人事化の原因ではと思ったり。
『逝きし世の面影』

直前に読んだ『逝きし世の面影』もあわせると、歴史において名もなき大衆とされる者たちへの強い関心と共感を抱いている人なのだなと感じた。歴史の勝者、敗者、そのどちらでもない、勝者に引きずられる(大抵は時勢に無関心な)人々。この三層に通じねば歴史を語れないという主旨には大いに感じ入るものがあった。
これこそ歴史もの、群像劇、大河小説の真諦であろう。
『幻影の明治 名もなき人びとの肖像』