雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

『科学文明の海』ボツコメント

 蒸奇都市倶楽部より2019年3月に刊行した雑誌『蒸奇都市倶楽部報 短編集「科学文明の海」』(A5版140ページ500円)の末尾に、自作の著者解説(コメント)を掲載させてもらっている。

 

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 参考に一作品分だけ引用する。

 『再会は別れのついでなり』 テーマ:再会

 勉強の合間に出会い別れる二人の一幕を三つばかり。開戦から終戦、戦後の混乱と激動が続く帝都でありますが、歴史を学ぶだけの者には、そうした一連の出来事が過去の焼き増しに見えてくるのかもしれません。
 ですがそれは現実を見ていない者の観念でしかありません。今を必死に生きる人々とっては目の前の全てだけが現実で、他の考えを持つ余裕ないのですから。そんな人々に「過去にもこんなことはあった」と突きつけてなんになりましょう。
 なんにもならないから、二人はすれ違うのですが。

 

 かなり近い関連作に『全一なる城の幻と影をおもう』(「小説家になろう」掲載)があります。

 なお、この作品は『小説家になろう』でも公開している。

 

 編集に提出した複数案のうち、没になったものを個人的なこちらに掲げておく。

※元の記事名を『落選コメント』としていたが、これだと掲載から落選したように見えるので没コメントへと変えた。

 

 

 

再会:『再会は別れのついでなり』
 再会というのは、誰が相手かによってそのあり方が大きく異なってくる。嬉しい、気恥ずかしい、会いたくなかった。
私 は過去に恥ずかしい行いや思いをしてきた人間なので、たいがいの再会は嬉しくないものばかりである。そもそも私にとって再会という言葉自体が、交流やら音信やらが絶えて久しい相手と出会わなければならない、という前向きでないニュアンスを含んでいる。要するに私にとっての再会とは、過去をほじくり返されたり直視しないといけないような状況を作り出す追体験の機会なのだ。
 再会とは過去と向き合う状況を提供する機会であり、そこからも目を背けたい者はいつまでも過去を隠し続けるために日延べにしているわけである。同窓会への出席を拒み続ける私のように。
 そもそもいまも仲が良いなら再会などせず、ちょくちょく連絡を取り合うなり会うなりしているはずだ。

 

和:『鷹匠相和す』
 生まれも育ちも違う者同士が同じものの見方をしているとすれば、それはどちらかが丸写しされた存在であろう。これはわかりやすい例であるが、ほとんど同じ環境で育った兄弟でも考え方や性格は違ってくる例もある。

 一方で、異なる家庭でも似た考え(「同じ考え」ではない)をしているものもいて不思議であるが、いずれこういう違いもビッグデータを活用して検証、解析されるのだろうか。そうなれば、こういう考え方を身に着けるにはこういう環境でこう接すればいい、と最適解が導き出される未来が見えてくる。遺伝子改変技術と組み合わせれば、と色々な考えが尽きない。

 

祭:『楓励ます山吹』
 祭りとは儀式である。儀式であるがゆえに、ほとんど全ての所作には意味があり、敬意があり、合理性がある。もっとも合理性と言ってもあくまで当時のもので、現代から見れば儀式それ自体が非合理の固まりである。そこのずれがなかなかに面白い。祭りが古臭く見えるのは一般にこの合理性のずれによるものであろう。現代の日本にあわせて合理化すると、必然といっていいほど商業的になってくるわけで、バレンタインやクリスマスがその分かりやすい例である。
 祭りに実際に参加しないことには、古代の合理性はなかなか見えてこない。

 

海:『科学文明の海』
 どこもそうであるが、雲海の有名所も観光地化が進んでいる。こういう有名所の雲海はやはりその雄大さが素晴らしい。実際に行って見られるかはともかくとしても、観光地化されているとツアーなどにも組み込まれているので、楽ではあるだろう。
 むろん雲海は有名所でなくても発生する。山がちな日本では地理条件の方はそろいやすいので、調べて見ると案外と近くの山で同じ「ようなもの」を見られたりもする。「ようなもの」と書いたのには訳がある。「雲海」と呼ぶには、島に見立てられる山の頂などが必要だ。高所から見て平地が霧で覆われているだけのものは、正確には「雲海」とは呼べないからである。

 私が最初に雲海(正確には「霧の海」)を見たのはもう云十年前の三次みよし広島県)である。地形の関係で霧が発生しやすいため霧の町と呼ばれている。盆地を覆う静謐な霧の海。これに充てる言葉はただ「絶景」だけでよい。
 ただ三次の「霧の海」は川霧に由来するので、正確には「雲海」とは言えない。見る分にはほとんど同じであるが。

 

花:『黄色い疵』

 花に毛ほどの興味もない子供であった。名前は知っていてもそれが実物と結びつかないで、ただその観念を知っているだけであった。花束など金の無駄であると感じていた。
 が、年を重ねるとともにあれこれ書くようになってくると、この自然物が季節を表すものとしてこの上ない貴重な存在に感じられるようになってきた。季節を表すということは、その季節限りという儚さも背景にあるわけで、季節を迎え入れる開花の喜びと、散り際に伴う美しさと無常さも見えてくるようになった。
 もっとも今も名前と実物がなかなか結び付かないので、外で花を見かけるたびに家に帰って調べている。

 


 

 個人的なことばかり書いている。というのも、あとがきというかコメントに本文とほとんど関係ない(関連はある)ことを書くのが好きだからだ。しかし編集にはよく苦い顔をされる。今回も作品について書いた無難な方が採用された。

 供養として没案をこちらに記しておく。