雑考閑記

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雑な考えを閑な時に記す

第8回テキレボにかかる上京記(2019年3月22日:3日目後半:坂と桜と柳の下で)

 3月21日(木、祝)開催の『第8回Text-Revolutions』(以下、テキレボ)に参加するため、20日(水)から24日(日)まで の五日間ほど旅の空に出ていた。21日(2日目)のテキレボそのものについては、蒸奇都市倶楽部の売り子として参加していた ので、サークルとして書けることはそちらのイベントレポートに譲る。

 

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 今日の目玉は防衛省市ヶ谷地区の見学。長くなったので前半と後半に記事を分割している。防衛省までのあれこれは前半に。 

ks2384ai.hatenablog.jp

 

 

3月22日(金)後半

いざ防衛省

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 立ち入り許可証とパンフレットを手に正門のゲートをくぐる。出入りは自動改札機のような仕組みで、IDカード(僕たち見学者用立入証)をかざすと通れるようになっている。
 僕はこういう自動改札式で入る施設の入り口を通るたびに「ああ、深陽学園だ」と感じる。*1

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 入ってすぐの庁舎案内板でツアー概要の説明を受けて、エスカレーターで市ヶ谷台へ。エレベーターは2つあり、両方ともに上りで運行されていた。帰る時には一本ずつ上り下りになっていたので、登庁者が多い朝の通勤時だけ両方を上りとして運用しているようだ。

 台地に上がって庁舎D棟の前の儀仗広場へ、そこからさらに坂を上って庁舎A棟前の儀仗広場へ。

A棟

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 A棟は中央官公庁の中でも最大規模の建物だ。また防衛省の市ヶ谷地区全体では1万人超(市ヶ谷駐屯地勤務の自衛官も含む)の職員が働いており、これまた中央官公庁の中でも最大規模の人員だという。
 そもそもこの市ヶ谷台、江戸時代には尾張藩上屋敷があった場所だ。御三家最大の藩の上屋敷、そして現在の国防の中枢施設がここに置かれているのには、市ヶ谷台が江戸城、皇居のお濠の北西に位置する台地という、防衛の要衝ともいえる場所にあるからだろう。

 

 儀仗広場には三本の旗竿がそびえており、防衛大臣の着任時や賓客の出迎えの際などに使用されるいわば表玄関である。正門から直に車で乗り付けられるようになっている。

 A棟以外に遮るものがほとんどない広場ゆえに国旗が強く風になびいている。

 朝のうちはやや曇っていた空もこのころにはすっかり晴れていた。前日と同じように風が強く、長袖のまま歩いていると汗ばむほどの陽気だ。上着を脱いだり着たりで調整してしのぐ。


A棟の前を横切って次の場所へ。

 

市ヶ谷記念館

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 私がこのツアーに参加した目的の市ヶ谷記念館である。 
 もとは陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の一号館で現在のA棟の位置に建っていた。その元をただせば1937年6月に竣工した陸軍士官学校本部で、その後に陸軍予科士官学校となり、戦時には大本営陸軍部や陸軍省参謀本部がおかれ、戦後には東京裁判の法廷として使われた、まあ何かと歴史のある建物である。

 

 そして三島由紀夫が最期を遂げた場所だ。僕がここを訪れた最大の理由でもある。もっとも三島が立て篭もった当時は、先ほど書いたように現在のA棟の位置に、いまよりも巨大な建物としてあった。

 

 一号館は防衛庁の市ヶ谷への移転に際しての新庁舎(現在のA棟)建設に伴い、解体される運命にあったのだが、歴史上の建造物として保存を訴える声が上がり、重要な部分のみを移築する縮小移転へと落ち着いた。

 一号館のおよそ16分の1に縮小されるにあたって、もともとは一号館のばらばらの場所にあった東部方面総監室、陸自幹部学校校長室(便殿の間)、大講堂を合築するような形となった。1994年10月から部材の取り外しが行われ、記念館として完成したのは1998年10月。
 それがこの市ヶ谷記念館である。


 ちなみに市ヶ谷記念館の正面部分の外観写真といえば、上で貼ったような角度からの撮影が圧倒的に多数を占める。
 これには二つの理由があると思われる。一つはそちらからやってくる進路しかないこと。そしてもう一つ、正面から撮影すると後方に位置する高層マンションが建物の右肩に乗ってしまうからである。おそらくこれが最大の理由なのではないかと思っている。

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正面からだと右肩に高層ビルが乗ってしまう

 ちなみに反対から斜めに撮るとB棟(巨大な通信塔がそびえる庁舎)が入りこんでしまう。

 

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 正面から入ると一号館時代のシンボルであった大時計と桜がある。鉢巻きを巻き、腕を折り曲げて檄を飛ばす三島由紀夫の後方上部に映っていたあの桜である。

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 三島が立って、ヘリの音と野次に包まれたいた二階のバルコニーもむろん健在だ。

講堂

 最初に講堂に案内され『市ヶ谷台の歩み』という映像を鑑賞。上に書いたような市ヶ谷台の簡単なあらましを学んでから各部の見学に移っていく。

 

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 演壇には玉座があり、講堂の建築上の工夫についての説明が入る。

 1階の床にはほんのかすかに傾斜がついており、演壇から遠ざかるほど高くなっていっているという。

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入り口の扉の上部が天井面に接している点に注目。また2階の張り出し部も演壇に向かってやや低くなっている

 これは1階の奥や2階に人がいる時にも、玉座から見渡せ、かつやや見下ろす形で目線が届くように、とのことらしい。

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後に貼る2階からの写真の方がわかりやすいかも

 講堂全体が玉座の奥の一点に向かっていく扇のような形の、いわば絵でいうところの一点透視図法の方法が用いられており、これもまた演壇の中央に目が向くように施された工夫だという。
 演壇に上がる階段も専用のものが用意され、その段差も撓(たわ)みを利用して足のすわりがいいようにしてあるのだとか。

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 檀上の床は寄木細工。壁紙は西陣織。

 

 一通り演壇を見終えると、撮影や自由見学が可能な時間が15分ほど設けられている。見学ツアーとしてもこの記念館は目玉なのだろう。

 講堂の一角には日本軍関連の展示品もあり、フラッシュを焚かなければ撮影ができる(その中でも一部の資料は撮影禁止である)。

 

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地図。

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 ブナ材の床。

 移築に際し全ての床に番号を振って復元を図ったそうだ。
 一部の床材には白い線がうっすら残っている。移築時に張り付けていたテープの痕だという。ダメになった床材は新しいものに取り換えられていて、割れていなかったり色が違ったりで見分けられる。

 

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 演壇から見て右翼には各種の刀剣が展示されている。

 士官の刀や昭和刀や銃剣、日本軍の儀礼用の刀の他、仕込刀や青竜刀、ロシア刀(シャシュカ?)、ビルマ刀なんかも。

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 日本軍が土を踏んだ地での戦利品的なものだろうか。ちょっとした刀剣博物館だ。

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 左翼側は制服や水筒、勲章や各種の資料など総合的なものが展示されている。
 屋内の薄暗い照明の下での撮影なので映り込みが多く、あまり紹介できるものは多くない。

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 これに限らず、職員の方の説明や展示物の写真は、他のツアー見学者のブログや記事なんかでそれぞれが、思うところに触れているので僕が長々と説明的に書くことでもなかったな。

 

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 僕の興味は建築物の方にあるので、展示品はあまり撮っていないというのもある。

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2階:三島がつけた痕

 自由時間の後は赤絨毯の敷かれた階段で2階へ。

 旧陸軍大臣室、のちの東部方面総監室。

 三島由紀夫と森田必勝が腹を割って首を刎ねられた部屋でもある。
 1970年11月25日。

 もう49年近くも前である。著作権が70年に延長されてしまったので、無関係の僕にとって50年というのは節目でしかないけれど(全集出るかなあ)、それでも半世紀近く後にこの場に立てたのは感慨深いものがある。
 元号が変わる(つまるところすめらぎが代替わりする)。

 昭和が二つ前の時代となる。
 この時代に檄文をどう読み解くか。「楯の会」の会員だった方々もすでに70代、どんどんと過去になっていく。過去は変わらないからいくらでも飾れる。

 と、なんだか神妙に書いたけれど、実際には興奮しまくりで、ミーハー丸出しな部分もあった。しかなかった。
 三島由紀夫という人間には会ったこともないのでよく知らないし、その思想についてもまだまだ理解の及ぶところではないが、もとより好きな作家ではあるので。

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 三島由紀夫自衛官がもみ合った際に扉についた有名な刀傷。
 三島が所持していた刀は孫六(初代、二代ではなく後代の孫六)とされている。舩坂弘が三島に贈ったものだという。

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 三島事件に関しては、産経ニュースの没後45年の特集が面白かった。

www.sankei.com


 旧陸軍大臣室の次は便殿の間へ。
 いろいろな工夫や展示物もあるのだが写真はない。映り込みや見学者の密度でどうしても入ってしまう。上手く撮ったものはネットで検索してみてほしい。幸いに撮影可能なツアーであるからすぐに見つかる。
 また、細かいことを言えば、三島由紀夫関連は別としても、二階には講堂のような撮影欲はわかなかった。そんなに広くはない部屋の中央や脇に展示物が飾られていたからである。
 私の部屋は引っ越しの段ボールの荷解きが済んでおらず、そのためごちゃごちゃしているのであるが、二階の二部屋からはそれと同じような雑然とした印象を受けた。
 せっかくの陸軍大臣室や便殿の間が資料に占領されてしまっているようで、扉のあたりに立って部屋として撮影するには適していなかった。

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恩賜の銀時計

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二階の張り出し部から講堂と演壇を見る。演壇に向かってすぼまっているのがわかると思う

  張り出し部背後の上側には陸軍士官学校および陸軍予科士官学校時代の歴代校長の写真が並んでいた。

 

 二階を見た後は市ヶ谷記念館を出て外観の撮影時間がほんの少しだけ設けられている。建物を背景に職員に記念撮影してもらっている人も少なくなかった。
 僕は純粋に建物だけを撮りたいので、記念撮影の合間を縫ってあちこちの角度から撮影。この機会に撮ったうちの数葉が市ヶ谷記念館の冒頭で使用したものだ。

 

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 桜のシンボルは移築に際して取り外されてしまったが、折柄よく本物の桜が市ヶ谷記念館を彩っていた。

厚生棟

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 防衛省の本省でもあるが、自衛隊の市ヶ谷駐屯地でもある。

 

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 隊舎にあるカット専門店。

 

 市ヶ谷記念館に続いて厚生棟へ。ここで15分休憩となる。

 許可された区域以外には立ち入れないが、立ち入り可能な区域にある売店では買い物も可能だ。スターバックスセブンイレブン自衛隊の用具用品屋や関連の土産物屋などがある。
 棟内の掲示板には生協(防衛省職員生活協同組合)や防衛省共済組合の案内、各種保険のチラシなどが掲示されており興味深い。省という巨大な官僚機構ではあるが、当然ながらその中に職員の生活があるわけで、こういう案内によって職員を支える組織があるのを実感するとともに、より身近に感じられた気がする。
 残念ながら棟内は撮影禁止なので写真はない。

 

 さて、休憩とは云い条、実質的な土産物購入時間でもある。
 何か特別な土産を求めようとは思っていないが、なにか安いものでも買ってレシートをもらおうとセブンイレブンを覗く。購入店舗名になんと記載されているのかが気になるからだ。

 ぶらぶらと棚を見ていく。外にある普通のセブンイレブンと品揃えに大きな違いはない。このあたりの画一性は、近年キオスクから各コンビニへ鞍替えした駅の売店と同じだ。見る側としてはあんまり面白くはない。

 余談になるが、私は駅の売店で瓶牛乳を買って飲むのが好きだったのに、売店がコンビニになってからというもの瓶の牛乳は消えてしまい、コンビニに楽しさを奪われたと思っている。まあ、餅は餅屋で丸投げしたほうがいいんだろうけれど。

 と、棚に見慣れぬ品物があるのを発見する。

 迷彩柄のビニルに封入されたレトルト容器。

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 戦闘糧食II型。レーションである。

 レーションといえば缶を連想する人もいるであろうが、あちらはI型だ。II型はこのようにレトルトパウチとなっていて、調理方法もレトルト食品と同じだ。販売していたのはカネハチ早川商店製のもので、Amazonなどでも購入できる。

  会社が清須(愛知県)にあるためか「名古屋赤味噌牛すじ煮込み」「名古屋ポークカレー」と、名古屋な味が多い。

 余談。もう一社、自衛隊にレーションを納入している武蔵富装という会社があって、こちらの商品もAmazonなどで一般用のパッケージで販売されている。
 レーションは保存期間がそれなりに長いことからや災害時の非常食に買ってみるのも一興だろう。

  

 

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「この製品は師団演習や各駐屯地で使用されていあす。」と表記。この商品をそのまま使っているのか、隊への納入品には異なる包装がされているのかは不明。

 

 土産は買わない、と決めていた私であるが、これぐらいなら……と気になる。5分ぐらい悩んでから二つ買った。「名古屋直火焼き鳥丼」と「名古屋煮込みハンバーグ」を。パックがぱんぱんで存外に容量と重さがある。

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 本来欲しかったセブンイレブンのレシート。店舗名は「防衛省店」とド直球。

 

 休憩を終えて厚生棟を後に。棟の前には移動販売車も乗り入れており、カレー屋とシシリアンライスを売っているようであった。

メモリアルゾーン

 市ヶ谷記念館とは正反対にある区域へ、防衛省の敷地をほぼ横断していく。

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 省内の主要な各棟はこのような重厚な屋根付きの回廊で結ばれており、さながら神殿のようである。

 

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 途中で訓練中の自衛官の姿も。儀仗隊。銃剣を手に捧げ銃をしていた

 

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 上官らしき人が持っている木の枠が気になる。これで姿勢を調整するのだろうか?

 

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 こちらは旗手だと思われる。

 

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 メモリアルゾーンへ。ここでも訓練が行われていた。
 突き当たりにある山形の碑が自衛隊殉職者慰霊碑。警察予備隊以来の殉職者がまつられている。他にも各種の記念碑や慰霊碑が集中している。市ヶ谷駐屯地の各所にあった碑を集約して整備したのがこのメモリアルゾーンだ。

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市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

 

 自衛隊殉職者慰霊碑からちょっと離れたところでメモリアルゾーンの説明を受けてすぐ後にする。もともと簡単な説明で終わりなのか、それとも自衛官が訓練をしていたので奥まで行かなかったのかはわからない。

 

 その後エスカレーター前のD棟で引率の方から締めのあいさつがなされ、順番に正門改札を出て、見学者用立入証を返却して解散となる。

 

 およそ2時間15分。見ごたえのあるツアーであった。基本的に平日開催ではあるものの、平日であればほぼ毎日やっているようなので参加してみるのもいいだろう。

 ちなみに午前と午後で少しコースが変わっていて、午後のコースではメモリアルゾーンには立ち寄らず、厚生棟での休憩から2階の広報展示室へと向かう。午後のコースでも金曜日だけは広報展示室ではなく防衛研究所の見学になるようだ。パンフレットにそう書いてあった。

 

 というわけで本日の目玉、防衛省見学ツアーであった。


 メモを元手に記憶だけでは頼りにならぬので、あれこれ調べていたら記事化するのに随分と時間がかかってしまった。

 

都内各所をぶらぶら(写真はない)

 防衛省を出てからはぶらぶらと都内各地で乗ったり降りたりしていた。

 本来ならばすぐ国会図書館へ行って、昨日のテキレボで初頒布となった新刊を納本する予定であったのだが、おバカなことに納本分までまとめて家に送ってしまったので、これといってやることが晩までない。
 そこで夜までの時間潰しもかねて、都区内無限の東京フリーきっぷであれこれと工事箇所を見て回ってきた。もっとも、カメラのバッテリーが切れかかっており、これといった撮影はしていない。

 最初に行った新宿まではあれこれ撮っていたのだが。

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 SUICAのペンギン。広場が工事中で近寄れなかった。

 

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 初めて行くバスタ新宿

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 確かに巨大だわ。こんなバスターミナル初めて。
 祝日と土曜日に挟まれたお昼時、大勢の人々がひしめく待合エリアでは皆それぞれの出発を待っていた。

地下街の焼きそば

 で、一気に夜まで飛ぶ。

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 前日に続いての浅草。再び地下商店街へ。

 昨日から気になっていた福ちゃんという店で焼きそばを食べる。

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350円

 ザ・家で作る焼きそば! という家庭的な味がアルマイトの皿で供される。半カレーやギョーザ、豚メシとのセットなどもあって食指が動きかけたものの、この後に人と会って食べるので今日は焼きそばだけにとどめておく。
 先客は三人。サラリーマン二人組は酒を飲みながら楽しげにやっている。一人で食べていたおじさんは(おそらく)ハイボールをぐいっとあおって出て行った。
 僕も焼きそばを食べて長居せず店を発った。さっと食ってさっと飲める店だ。

 大学時代からの友人と合流して浅草から少し南下する。

どぜう鍋

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 目当ては駒形のどぜうだ。創業からすでに200年を超えるどぜう鍋の店で、僕が好きな『明治東京逸聞史』(森銑三平凡社東洋文庫])にもその名が見える店である。 

明治東京逸聞史 (1) (東洋文庫 (135))

明治東京逸聞史 (1) (東洋文庫 (135))

 
明治東京逸聞史 (2) (東洋文庫 (142))

明治東京逸聞史 (2) (東洋文庫 (142))

 

  この『明治東京逸聞史』はとても良い本であるから、ぜひ手に取ってみてほしい。現代からするととても興味深いことが書いてあるし、資料収集のきっかけとしてもよいものである。図書館なら置いてあると思う。

 

 さて、駒形どぜうである。
『明治東京逸聞史』には「駒形の泥鰌汁」の項目で出ており、当時は大衆向けの安い店であったようである。しかし現在の駒形はそれなりのお値段がする店になっている。水田の改良などでどじょう自体が希少な生物となっている昨今であるから、仕方のないことである。時代の変化とはそういうものであろう。

 参考までに『明治東京~』から明治の末となる44年の料金を引いてみる。

どじょう鍋:6銭
どじょう汁:1.5銭
飯:4銭(半人前:2銭)
鯨汁:2.5銭
なまず鍋:15銭
ナマズ汁:5銭
酒:7銭

 現代の価格は駒形どぜうの公式を参照されたし。

浅草本店おしながき|駒形どぜう

 

 お高い駒形のどぜう。普段の私ならば縁遠いものであるが、『明治東京~』を読んで以来ずっと気になっていた。
 当時の人々は気軽に食べていた(と思われる)どじょうとはどんなものであろうか。今の値段では一人で気安く行けない気がしたので、友人への久闊を叙するための場にかこつけて行ってみた次第だ。

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 浅草本店の一階はこのような造りで座敷に腰を下ろして食べる。地下は普通の椅子席になっているが、せっかく来たのだからと一階に腰を落ち着ける。

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左がお品書き。右の土瓶が割下。枡にねぎと七味と山椒が入っている

 木の板に料理が置かれるのであるが、あぐらに慣れていない現代人なので横座りになって食した。正座では料理から離れすぎて、落としそうで不安になる低さなので。

いざ経験

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 まずは名物のどぜう鍋から。

 ねぎをかけて食べてくださいと言われたので枡からとってかける。鍋底が浅く(どじょうの下がすぐ鍋底)、あまりかけすぎるとこぼれそうなので控えめに。
 鍋を半分ぐらいさらってから周囲を見渡すと、みんな割合にどばどば豪快にねぎをのせていた。こぼさずかけるのが上手いのか、こぼれても気にしないのか。


 肝心の味であるが、やや苦味が強くちょっと癖がある。苦味は内臓のものであろう。甘辛い割下とねぎで食べると程よく、まさにこのどぜう鍋がその食べ方なわけだ。あいにく僕は右党であるが、確かに酒と合いそうである。変わりにご飯にのせると食が進む。全体的に大人な味だと思った。

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 こちらはどぜうの蒲焼。鰻に比べてやや固めではあるが、たれのおかげか鰻のそれと似た味をしている。やはりこれもご飯にあう。米が主食であった時代の名残りを感じる。

 

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 柳川(鍋)。どじょうとささがきごぼうの卵とじ。
 ごぼうと卵のおかげでどじょうの苦味がほとんど感じられず、すっきりしている。万人に受け入れられそうな味だ。私はどぜう鍋よりこちらの方が気に入った。

 

 ちなみに私はこの柳川(鍋)を、てっきり福岡の柳川発祥だと思っていたのだが、それはまったくの誤解であった。もとは江戸の料理屋が考案した江戸生まれであるという。いまよりずっと田んぼの環境が自然に近かった当時は、どじょうが普通に食材として普及していたのだ。
 それを私は、名前が同じ、柳川は鰻(せいろ蒸し)が有名、そもそも柳川鍋に使うものを鰻だと思っていた、との材料だけで調べもせずに福岡の柳川に由来するものと思い込んでいたのである。反省せねばなるまい。

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 木札(靴を預けた際に受け取る)が一番だったので。

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駒形どぜう二百年史

 ちなみにフロアの店員さんはみんなたすきがけをした和装で恰好よかった。

 

 この後は宿へ戻らず友人の家で久々の再開を祝して軽く飲んで、翌日のお出かけに備えた。

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 どぜう鍋を食べての感想であるが、もう十分かなと感じた。高いからしばらくいい、というわけではない。 むろん値段の要素もないではないが、1回食べればそれでいいかなと思う味で、早い話が私の舌に合わなかったという話だ。ただ、現代においてどじょうを食べるというのはなかなか面白い経験であるので、行って良かった。

*1:通じる人いるのだろうか