春先の淡路島(前編)
淡路島は淡路市(旧、北淡町)にある野島断層保存館に行ってきた。
のだが、例によって記事が長くなったので、淡路島行きを前後編にわけ、それとは別に野島断層保存館の話をまた別仕立てにした。
唯一の航路
本州からは船で淡路島へ。
ジェノバラインは本州と淡路島を結ぶ唯一の航路だ(2020年2月現在)。
明石と岩屋の間を日中は40分間隔で運航している。片道530円。自転車やバイク輸送は別途料金。
船が到着する前の明石の乗り場。前の便が出た直後なのでのんびりした時間が流れていたが、発船時間が迫るにつれあちこちからお客さんが集まってきた。(実際にはこの奥の2番乗り場から乗船。)
僕が乗った便の乗客は行きも帰りも3割ほど。
もっともこれは日中(11時40分発)の岩屋行きと夜(18時40分発)の明石行きの話だ。これはラッシュ時に郊外へ向かう列車に乗ったようなもので、主となる流動とは逆向きといえる。その証に、折り返しとなる到着便からは僕が乗った便の倍以上の客がそれぞれ降りていた。
また、日中40分毎に対し平日の朝は20分毎、晩は30分毎であることも踏まえると、それなりの数の乗客が利用しているようだ。
明石港を出た高速船は向きを変えて瀬戸内海へ飛びだす。
向かいにはすでにかすむ淡路島が見えている。
明石海峡は大阪湾と瀬戸内海をつなぐ重要な海峡だ。大小さまざまな形態の船が見渡す限りに走っている。海上を行く船に吹き付ける風はまだまだ肌寒くもあるが、海峡を走るのもあって見ていて飽きない。むろん船には3列掛けの座席が並んだ温かい船室もある。私が好んで2階の吹きさらしに立っているだけなので安心されたし。
ウミウがしばらく並走してくれた。見かけた数はカモメよりも多かった。
すぐ対岸にある淡路島は天候のせいでかすんでおり、実際の距離より遠く感じられる。
本州側も同じくかすんでいる。
橋の開通で消えたもの
約15分の短い航路。
見えていた淡路島はあっという間に近づいてくる。
そして頭上に架かる世界最大の吊り橋(2020年現在)。
橋は島の流動を大きく変えた。
明石海峡大橋とともに淡路島の高速道路が全通したのは98年だ。*1 関西から四国まで車だけで行けるようになりすでに22年、航路はとっくにその役目を終えているといってよいだろう。
かつてジェノバラインと同じ明石~岩屋間にたこフェリーがあったが、橋が開通した12年後の2010年に休止、2012年に廃止されている。*2
この他にも淡路島と本州の間には大阪(泉佐野や深日なども含む)や神戸からの定期航路が多く存在したが、橋が架かっていずれも時をまたず廃止となっている。四国~淡路島も同じで、こちらも橋(大鳴門橋)が架かったあとに廃止されている。
生まれたもの
橋の開通により現在の淡路島には多くの高速バスが行き交っている。開通以前には考えられなかった光景だ。大阪・神戸~淡路島内~徳島の区間は運行会社も本数も路線も多く、それだけ人の流動が盛んなのがうかがえる。
本州から淡路島だけに渡ることを考えても、(ジェノバラインとおおよそ同じ区間となる)舞子(本州側)~淡路インター(淡路島側)のバス停間で420円、日中1時間でも2~3本ある。*3
高速バスが都会の神戸三宮や大阪と島内の各地を直接結んでいることを考えると、航路に勝ち目はない。様々な航路が廃止の憂き目にあうのも止むかたなし。
それでもあえて船に乗る
だからこそというべきか、私は三宮から明石まで出たうえで唯一の航路として残ったジェノバラインを選んで乗った。四国へ通ずる道として、かつては多くあった航路へのある種の郷愁の念というか、あるいは島内住民の移動を支えた公共交通への労いというか、昔ながらの方法で淡路島へ渡ってみたかったのである。
もっともそういった感慨を差し引いて、単純に旅人の心理として行程に変化を加えてみたかっというのもある。高速バス一本で「はい淡路島」では移動マニアの名が廃る。
廃止された航路について思いを馳せたが、私はただこれら去ったものを懐かしんでいるだけで、橋の開通による功罪には触れない。それは地元民でない私が思惟するものではない。私は旅人して、ただ行くものを思うだけだ。
淡路島の島内交通には『あわじ足ナビ』が便利
ちなみに現在の淡路島の公共交通の路線、時刻表については、兵庫県庁の淡路県民局が発行している『あわじ足ナビ』が抜群に便利なのでここに紹介しておく。淡路地域公共交通総合時刻表の名の通り、淡路島を公共交通機関で旅するならば必携の書である。
島の地を踏む
岩屋港には多くの漁船が係留されている。港のすぐ背後には山々が迫っており、典型的な日本の漁港といった趣をかもしだしている。
奥の観覧車は淡路サービスエリア(淡路IC併設)のもの。観覧車の右側の高架橋が高速道路。
発着場となる岩屋ポートターミナルは内外ともに昭和というか平成というか、なんにせよ一昔前のターミナル感が強い建物だ。船会社とバス会社の窓口があり、産直品(淡路島なのでたまねぎが目立つ。次いで鳴門金時)を売っているお土産物屋兼雑貨屋があり、二階には喫茶店がある。写真を撮っていなかったのが悔やまれる。また島に来る際に訪れよう。
明石の名物といえば明石海峡のタコ。ここは淡路島だが、漁港には蛸壺が多数。
日本最古の土地
ポートターミナルを出てすぐには岸壁に囲まれた小島がある。
絵島といって「おのころ島」伝承地とされている。
島には橋が架かっているが、柵で封じられて立ち入ることはできない。かつては立ち入れたのだが、また入れる日は来るのだろうか。
淡路島は神話に従うならば日本最古の土地となる。なので国生みに関わる地として、こういった「~とされる」比定地が多い。たとえば淡路島の南にぽつんと浮かぶ沼島も「おのころ島」伝承地とされている。この島もいずれ訪れたい。
岩屋ポートターミナル少し歩けば岩屋恵比須神社があり、そのすぐ裏に岩楠神社がある。
これらも日本神話に由来する重要な名づけとなっている。
日本神話の国生みによって最初に生まれたのは淡路島であるが、これに先立って生まれたものがある。水蛭子(ヒルコ)だ(『古事記』の場合。『日本書紀』では順番が異なり、三貴神の前に生まれたり、ツクヨミとスサノヲの間に生まれたりしている)。不具とされたヒルコは海に流されてしまう。日本各地にはヒルコが流れ着いたとする地がいくつかある。もっとも有名なのは兵庫の西宮だろう。ここもその一つだという。
流されたヒルコが恵比寿となったという説も有名だ。西宮神社がえびす神社の総本山なのもこれに由来する。ここの神社がえびす神社なのも同じ謂れに端を発している、どころか立て看板によればその本家がここだという説もあるらしい。
その恵比寿神社の祭殿のすぐ裏には小さな岩山がある。
岩山には小さな洞窟がいくつかあって、その一つに祠が収まっている。
それが岩楠(イワクス)神社だ。
この岩楠という名もヒルコに関連する。
『古事記』でのヒルコは葦の船によって流されるが、『日本書紀』では天磐櫲樟船(アメノイワクスフネ)、あるいは鳥磐櫲樟船(トリノイワクスフネ)によって流される。イワクス、そう、岩楠である。
神社の名前が後付けなのかどうかは余人にはわからぬ。
ところでこの辺りの地名は岩屋だが、岩屋とはむろん洞窟のことをさす。岩楠神社の岩山に開く穴はまさにその岩屋で、その由来を思わせる。もっとも神社の岩屋が直接の由来というわけではないだろう。この辺りが近代的な漁港として開発される前は、海岸沿いにいくつも似たような岩屋があったものと思われる。
先ほど見た絵島にはいくつも穴が開いていたが、島はもとは陸地とつながっていたという。それが海食により切り離されたたのである。周辺の地質が絵島と同じとすれば、陸からは切り離されずとも、波の浸食を受けて穿たれた岩屋が多くあったと推察される。
近くの岩屋神社で行われた粥占の結果が掲示されていた。
海に面する町らしく海産物が目立つ。くぎ煮で有名な「いかなご」は六分、「たこ」は五分。二分の「だいこ」は大根だろうか。「たい」「あなご」も三分と少ない。「なかて」(中稲)「しらす」「いわし」「こりょう」(なにか不明)は9分と豊かだ。
島を南下、のち横断
バスの時間が迫ったのでポートターミナルのバス停へ。
やってきたバスはラッピングが施された白ナンバーのマイクロバス。通称は「あわ神あわ姫バス」、正式名称は「淡路市北部生活観光バス路線」という淡路市のコミュニティバスだ。*4 淡路島も地方の例に漏れることなく航路ばかりでなく路線バスも減少している。
バスは定刻に発車。車内ではABCラジオが流れている。のどかさを感じる。僕が乗る路線は北部を東回りで循環するもので、岩屋を出て南へ向かう。
しばらく僕一人だけを乗せて走っていたバスは淡路夢舞台に到着。乗客を二人載せる。
淡路花舞台は淡路花博(ジャオパンフローラ2000)の会場跡地だ。今年でちょうど20年となり、その関連イベントも行われるという、ということは帰ってきた後で知った。
東浦バスターミナルは道の駅も併設するちょっとした拠点。関西への高速バスの起終点のひとつで、その本数はけして少なくない。淡路市南部の津名方面へ向かう「淡路市南部生活観光バス路線」との乗り換え地で、それぞれの便が接続、淡路市の南北の交通を円滑なものとしている。接続する路線から乗り継いだ乗客を一人加えたバスは山越えに向かう。
淡路島に高い山はない。が、何度もカーブを描きながらバスは山を登っていく。存外に険しく感じられるほどの急さだが、脊梁を越えてしまうと棚田が連なる里が広がっている。
淡路島の棚田
特に島の西側の棚田は一段あたりが狭く、かつ段数が多く海岸の方まで続いている。その地形から播磨灘を遠望できる様は佳景といってよい。曇りがちな天気も相まってか遠方の海上には春霞が浮かんでいるようで、烟景という言葉はこのためにあるのだろう。
この辺りの棚田は「石田の棚田」といって、棚田百選にこそ入らないものの、棚田好きには知られているらしい。時期によっては彼方の海に日が沈むので、それも合わせるととても良い開け方をしているのだと思われる。
棚田の合間を縫うように敷かれた道は大きく九十九に折れながら西海岸へ下っていく。
北淡事務所(淡路市の出張所)で一宮方面からの路線と接続を取ったバスは北へ転じる。残り半周の始まりだが、私はすぐにバスを降りる。
ちなみにここまでの乗客の変動は3人。途中の病院から乗ってきたお年寄り夫妻と、スーパーの前のバス停から乗ってきたお年寄りが北淡事務所の近くで降りたきりだ。おそらく他の乗客はそのまま岩屋へ向かうのだろう。
降りた先は本日の旅の主目的のひとつ、「北淡震災記念公園」だ。
ここの「野島断層保存館」については別で記事を仕立てているからそちらで。
後半も別の記事。
*1:その10年前となる88年には瀬戸大橋が、翌99年には瀬戸内しまなみ海道がそれぞれ開通している。
*2:たこフェリーという呼称がいつからのものなのかはネットで調べてもわからなかった。運行会社は54年の運行開始時から何度か変遷していて、廃止時の運行会社は三セクの「明石淡路フェリー」だが、その運航は2000年と橋の開通後だ。
*3:明石と舞子、岩屋と淡路インターチェンジ(IC)はちょっと距離があるので、あくまで本州と淡路島の似た区間の比較。ジェノバラインに寄せて正確に比較するのなら、明石から舞子までの電車の料金と所要時間、淡路ICから岩屋への移動時間(公共交通はないので徒歩)も含めなければならない。
*4:運行は本四海峡バスに委託。