雑考閑記

雑考閑記

雑な考えを閑な時に記す

あなたはどうかと問うとき自分はどうなのかとも問うている

 何かについて人と話すという行いは自己言及であるとともに自己の内面を省察する行いでもある。

 

 先日、久しぶりに会った人々と話す機会があり、その場で小説というものについて語る機を得たのでいくらか話をさせてもらった。

 そうして得た所感とは上記引用ツイートの通りである。

 

『現今の私にとって、今のあなたにとって、小説とは何か』

『なぜ書くという営為を続けているのか』

 

 僕は自身の作品やその付属物(登場人物であるとか設定であるとか)について直接に語るよりも、こうした小説観に関わる問答のほうが好きである。

 その理由はすでに冒頭に書いた。

 何かについて人と話すという行いは、自己言及であるとともに自己の内面を省察する行いでもあるからだ。*1

 

 現在の自分の認識について語り、それについて意見され、また他人にも意見し、そうして自身の認識を深めるととともに、自身でも気づいていなかった内面の考えに気づき、掘り起こし、引き上げていく。感性でしか捉えていなかったものを、あるいは悟性*2 で何となく把握していたものを、対話によって理性でとらえ直す。 人と話すというのはそのようなものであると私は考えている。

(またそれを行うにあたっても対談や鼎談、ともかく少人数で顔を突き合わせての懇談が好ましい。あまり人が多いと脱線してしまう)

 

 いずれにせよ自己の認識について語るというのは、自分を丸裸にして、さらには解剖していくことでもある。そして私は、こうした自己解剖によって得られた自らに対する知見は、小説を書くという営みに深く作用してくるのではないかと思っている。

 

 そもそも今の僕*3 は小説を書くということ自体、自己解体(解剖)、あるいは自己破壊の衝動、(もっと穏当に言えば自己との対話)を伴う営為であると考えている。どんな作品であれ、多かれ少なかれ小説というものは自らの内から汲み出すものがなければ何も書けないのではないだろうか、と。*4

 無論、汲み出す比率や、隠す(わかりづらい形に置き換える)、隠さない(あけっぴろげにする)の分配や、そもそも意識的にやっているか無意識的に表出しているかといった部分は作者によって違ってくるだろう。

 しかしその作者によって違ってくる部分。そこにこそ作者の小説観というものが大きく絡んでくるのではないだろうか。

 

 僕は己の小説観を明確に抱えるということは、書くという行為をより意識的にしてくれるものと信じている。

 

 自分の小説観を深く省みるためにさらなる自己の解剖を求め欲する私は、その手段を他人との会話による自己省察に求めているわけだ。まこと他人の自分勝手な利用もよいところである。

 

 

 小説を書くための自己の省察は自己との対話によってのみなされるべきだと考える人もいるだろう。また、作品を書くこと自体が自己との対話であると考えている人もいるだろう。はたまた対話の結果として作品が出来上がるという人もいるかもしれない。

 

 しかし残念ながら僕はそれができるレベルに達していないし、それができるほどの多様な経験*5 も積めていない。完全に能力不足である。だからこそ、内面においてそれができる人を欽仰するし、同時に劣等感と恐怖感を抱くのである。*6

 なので結局これは自分一人で小説を書くという行為に没頭できぬものの言い草であるかもしれない。

 

 

 少し脇にずれて余談。

「今の僕」が小説を書く動機としてたびたび公言する「承認欲求」であるが、これはあくまで動機であって小説をどうとらえるか、どう書くかという部分とはあまり関係がない。……と思っていたが、最近実はそうでもないんじゃないかと思い始めている。これはまた僕なりに一定の分析結果が出た時点で自分のために記事にして記録しておきたい。

 

 

 さて、私はこの記事の最初の方にこのように書いた。

 僕は自身の作品やその付属物(登場人物であるとか設定であるとか)について直接に語るよりも、こうした小説観に関わる問答のほうが好きである。

 なぜ小説観や書くという営為に照準を定め、『自身の作品やその付属物(登場人物であるとか設定であるとか)について直接に語る』ことを排したのか。自分の作品やその内容について語ることを避けたのかについても書いておかねばならない。

 

 作品というのは過去の作者(自身)から成る結晶物であり、現在の作者(自身)の手を離れてすでに作品という形として存在しているものである。そうした過去の自身が生んだものについて言及するということは、過去の自分について言及するという行為に他ならない。

 しかし僕がこの記事で主眼を置いている他者を介しての自己省察というのは、現在の自分、つまり未成の作品を内に抱えた自己との対話である。したがって自分の作品について語ること(=過去の自分と話すこと)は問題の枠組みに含めなかったのである。

 

 ただ、自分の作品(過去の自分)について他人と話し合い、問題を再び引き寄せるなり光を当て直すというのも、一つの自己対話だろう。しかしそれは他人を介さずとも自分で自分の作品を読み返すことでも行えるのではないか、というのが私の考えだ。自身で成った作品を読むということそれ自体が、過去の自分と現在の自分との対話たりえるからだ。

 

 無論こうした過去の自分との対話が必ずしも無駄だとは思わない。

 作品としてすでに成ってはいても、その中には過去の自分が閑却してきたものや、うっかり置き去りにしてしまったものなんかを再発見できるかもしれないからだ。そうした再発見から新たに問題を捉え直し、再帰的に別の作品を仕上げることも可能だろう*7 。一つの問題や小説観を突き詰めたい場合、さらに発展させたり継承させたい場合にはこうした手段が有効だろう。一方で問題の掬い上げや過去の自分との対話が上手くいかなかった場合には縮小再生産になる恐れもある。

 

(といった長短を踏まえたうえで)自分の作品は自分で読み返せばそれでもう自己との対話であると考えている僕としては、過去の作品について人と話すことに重きを置いていないわけである。

 

 

 ところで僕は作品と作者というものをなるべく結びつけないように意識して作品を読んでいる。(意識している時点で、ついそのように読んでしまうように教育された自分が存在していて、そいつを嫌っているということでもある。)そして僕自身も、何かしらかかわった作品に僕という人間を結び付けてほしくないと思っている。

 その一方で語りによって己の小説観をより確固たるものとして掴み、より自覚的にシワとして小説を書きたいとも思っている。

 

 作品と作者の距離感を離したがっているのに、自己の強い小説観に基づいて作者としての意識を込めたがっている。

 

 この矛盾しているように見える部分も説明しておく。

 

 ここでいう結びつけたくない作者(像)というのは、要するに誤用された意味での性癖であるとか、登場人物に対する作者の過剰な愛であるとか、作者がチャートで示すような属性であるとかわかりやすいタグであるとか、そういった面である。なので読者として作品と作者を結びつけたくないというのは、「俺は俺の読みたいようにこの作品を読むぜ、お前(作者)のこと? 知らんよ(というか不用意に知りたくない)」*8 ということである。

 

 裏返して作者として作品と作者を結び付けてほしくないというのは、「あなたが読む時にはあなたの流儀で読んでください」ということでもあるのだが、そこはもう本当に読者に丸投げだ。だって他人に読み方を強制する権利は有していないもん。ただ製造者としては「やめた方がいいんじゃないかな」と注意を促す程度である。というかそれが限界だ。もちろんここには「読んだことによって生じた種々の出来事にまでは責任を負いません(負いたくありません)」という意味が隠れている。

 

 そうした作者(像)を捨象してもなお、作品に作者というもの(文体であるとか、テーマ的な部分)がにじんでしまうこともあるだろう。良く言えばそれが作家性というものであろうし、悪く言えば作者が持つ癖というものであろう。

 

 ただし注意してもらいたいのは、作者が作品を自覚的に書くということは、作者が強く作品ににじみ出るということと必ずしも等しいわけではないということだ。

 

 むしろ作者が意識して作品を書くことによって初めて、作者と作品の結びつきを薄めることができるのではないだろうかと思っている。いや、薄めるというよりは作者と作品の結びつきの濃度をある程度まで調整できるようになる、といったほうが近いだろう。

 まことに汚い喩えになるが「括約筋が緩いと知らないうちに漏れているかもしれない。それは嫌なのでしっかり鍛えて調整できるようにしたいよね」という話である。

 

 もちろん調整できるようになったうえで、自覚的に作者を強くにじませるのもありだろう。それは調整できずににじんでしまうお漏らしとは一線を画す強烈かつ自覚的なお漏らしであるはずだ。また調整して思いっきり締めても漏れ出てしまうこともあるだろう。*9

 

 調整できるのに敢えて漏らしたもの。

 

 限界まで締めたのに漏れてしまったもの。

 

 そういったものこそ本当の意味で作家性と呼べるのではないかと考えている。ゆえに僕は作品を読むうえで作者の「わかりやすい」性癖を捨てる側に置くのである。

 

 むろんこんな文章を書いている僕は、そうした作家性を可能な限り自覚的に隠したい(あけっぴろげにしたくない)、無意識に漏らしたくないと考えている側だ。

 そのために自分の小説観をつかみたい。

 そのために色々な人と話して括約筋を鍛えたいと。

 

 

 ところで自己の小説観を見つめること(捉えること)と、小説を書けるかどうかということはおそらくあまり関係がない。そもそも小説観をつかむことが小説を書くことに影響するかどうかの因果関係も不明だ。

 小説観がなくても小説を書けてしまう人はたくさんいるはずだ。

 

 僕自身も小説観というものを考えずに書きだしたクチだ。しかし今振り返ると、それらは小説の体裁を繕った散文という感がぬぐえない。しかしいずれそうした過去の自分ともがっつり腰を据えて対話しなければならないと思っている。でも今はまだ難しい。きっとそいつらを殴り飛ばしてしまう*10

 模索して僕なりに漠然とつかめている現状ではようやくそれらしいものを仕上げられるようになってきたと思っている。しかしまだまだ足りないとも思っている。せめて将来の自分が今の僕を殴り飛ばしたくならないように精進するだけである。

 

 かように付随してもっと突き詰めるべき問題、考えるべきことが山ほど生まれ出てくるが、とりあえずはこのあたりで締めておきたい。俺の括約筋の話だったはずなので。

 いや、実に締まらない話でござい。

 

 

 

*1:なぜ「自身の作品やその付属物について直接に語る」ことを含めないのかについては後段で述べる。

*2:「悟性」という言葉自体が多義的なので適切な例ではないかもしれない。

*3:「今の僕は」という断りは当然ながら、「過去の僕は違っていたし、また将来の僕は違うかもしれない」という意味である。この記事における一人称はすべて同様の意味を含む。

*4:自己を一切入れずに外からの要請のみに基づいて書くのはゴーストライターみたいなものととらえているのかもしれない。他方、同じように外からの要請に応じつつも、自らの内から汲み出すものの照準もそこにフィットさせていける打率の高い人間が商業作家になれるのではないか、みたいなことも人と話していて思った。

*5:社会経験であるとか、人生経験であるとか、色々なもの。

*6:恐怖感について補足。自分に「ないもの」は常に輝かしく見えるし、そこに近づきたいとも思うが、もしかすると自分はその光に焼かれる側なのではないかという恐怖だ。

*7:ここで言っているのはリメイクというよりは、自身の手による換骨奪胎といったレベルのこと。

*8:他者の作品を読むということもまた自己省察のきっかけとなり得る。

*9:僕はそういった作品にめっぽう弱い。バイタルパートごとぶち抜かれたらそらあかんなるよ。

*10:他人は他人であるがゆえに手を出したくもならないが、自分は自分であるがゆえに容赦したくなくなってくる。